始まり
この作品は今まで執筆したどの作品よりも一番思い入れの強い小説になります。
高校時代の自らの葛藤を視野に入れ、物語として書き起こしました。
出来るだけ多くの方に読んで頂きたいと思い投稿させて頂いています。
もしも今、生きる事が辛くて苦しい方、生きる意味を見失っている方がいらっしゃるなら、ほんの少しでいい。一ミリでもいいから「生きてさえいれば、いつの日か必ず感動や喜びが得られる」と、そんな希望を持って欲しい。そんな思いが伝わればと思います。
※三つの章で分けていたのですが一つにまとめました。読んで下さってた方いらっしゃいましたら申し訳ございません。もともと一つの作品で仕上げていたのですが構成を変えて掲載していました。元の形に戻しました事ご容赦下さい。
「……あと一年持たないかもしれません」
医師にそう言い渡されても私は意外と冷静だった。
「そうですか」
まるで他人事のように返答するものだから医師の方が逆に驚いていた。
「あなたの事だと言うのは、解っていますよね?」
あまりに落ち着いていた所為か、医師は敢えて確認の言葉を投げ掛けてくる。
「勿論解ってますよ。私以外の誰がいるって言うんですか」
私はそう返し「失礼しました」という挨拶と共に診察室を後にした。
人間は脆い生き物だと思う。
そりゃあ動物に比べれば長い時間を生きているだろう。
けれどそういう事じゃない。
今の私みたいに、突然病気になって死を迎えてしまう者もいる。
誰かに中傷されて、尚且つ自分に追い討ちを掛ける者もいる。
人間は、心あるが故に脆く、儚く、そして尊い。
まだ人生の半分も生きていない高校二年生の私が、医師の言葉に驚きも悲観もしなかったのは、私が【死】を……望んでいたから。
『二十歳までには死んでしまいたい』
私がそう思ったのは、不変で単調な毎日に、先の見えない未来に、沢山の人の眼差しに、嫌気が差していたから。
これ以上生き続けても……何も残らないんじゃないかと感じてしまったから。
だから私はいつも【死】を思い描いていた。
けれど自分から命を捨てる勇気も覚悟も持ち合わせてはいなかった。
所詮生きている者は【死】を考えてはいけないんだろう。
その時点で人生は閉ざされてしまうのだから。
「…………」
病院の帰り道、私は様々な情景を目にしながら悠然と自転車を押して帰路を歩いた。
いつもは気にならないのに、綺麗な朱と黄をその身に纏っていた木々が今はもうその葉の大半を地面へと散らせてしまっている様相に侘しさが募り、切なくなった。
周りを見渡せば、土手でキャッチボールをする子供や、犬の散歩をしているお爺さんが目に映る。
普段と何ら変わりない様子に、一人心の中で呟く。
もし明日私がいなくなっても、今見ている景色は何も変わらないんだろうな。と。
当然の事を私は思った。私一人の為に何かが変わる訳がない。変わる方が、おかしいんだ。
「……何考えてるんだろ」
小さく溜息を吐き、不意に足を止めた。そこで目に入ったのは、制服姿で此方に歩いて来る人物。目を凝らすと、同じクラスの親友だった。
「あっ! 深雪じゃんっ!」
相手も私に気付いたようで、彼女は何の躊躇いもなく私の方へ駆け寄って来る。
「どっか行ってたの?」
彼女〈坂下 夏〉は普段と変わらない明朗快活な雰囲気を醸し出しながら、学校とは逆の方向から自転車を押してきた私を見て尋ねてきた。
「……うん」
私はただ一言、それだけ返した。
正直、彼女の事は少し苦手だった。
別に嫌いな訳ではない。現に学校では一緒に行動する事が多いし、彼女の事を慕ってもいる。だがそれとはまた違った意味で、苦手だった。
彼女の明るさは、私には眩し過ぎて。
誰とでもすぐに打ち解ける事の出来る性格は、まるで私とは正反対だった。
名前だってそうだ。
偶然なのは百も承知だが、私が深雪なのに対し、彼女は夏。
勿論彼女はそんな事は気にしていない。
いつも気軽に私に声を掛け【親友】と言ってくれる。
そんな彼女を羨ましくも感じていた。
「深雪? どうかした?」
彼女の呼び掛けで我に返る。
「ううん、何でもない」
「そう? ならいいけど。あ、そういえば深雪はもう進路決まった?」
その問いに一瞬言葉を失う。
『私に将来はない』
あとは死を待つだけの私に、返す言葉などなかった。
「……夏は?」
私は質問に質問で返す事で答えをはぐらかした。
「私? 実は迷ってるんだ。大学にするか、専門学校にするか。深雪はどう思う?」
「私は……」
言葉が途切れる。簡単には返答出来なかった。あくまで参考でも彼女の人生を左右し兼ねない。
「……私には答えられないよ。だって、夏の人生だから」
悩んだ末、本心をそのまま口にした。助けてあげたいけれど、どうしようも出来ない事を私は身に染みて知っていたから。
「そうだよね……うん、私自分で決めてみるよ! ありがとね、深雪」
そう告げて彼女は満面の笑みを向けてくれた。彼女は純粋で性格も好い。この笑顔を目にすると改めて思う。きっとどんな困難も乗り越えていけるだろう。彼女の重荷にならない程度に、見守っていきたい。
余命幾許もないけれど。
「じゃあまた明日、学校でね!」
「うん、じゃあ」
軽く挨拶を交わすと彼女は元気よく手を振って去って行った。私は手を振り返しながらいつもとは違う気持ちで彼女の後ろ姿を見送った。
「…………」
彼女が見えなくなるのを見届け、もう一度帰路を歩み始める。一歩一歩踏み出す足の重みが、昨日とは違って見えた。
……人はこうも簡単に運命に翻弄されるんだと実感した。
数日後。
命の期限を宣告されてから、もう幾日かが過ぎた。時が過ぎるのはあっという間だ。私は通常通りに学校へ登校して行った。
だがその途中信号に引っ掛かり止まっていると、すぐ傍にある見慣れた公園で、金色の髪が特徴的な男子高校生が白い煙を燻らせて座り込んでいるのが目に留まる。その姿を私は知っていた。何故なら彼〈加宮 春樹〉は私の学校では有名だったから。
彼は俗に言う『不良』で、校則を無視するのは疎か、学校も偶にしか来ていない。噂では、目に付いた他校の生徒を所構わず締め上げている、だの、悪い奴らと攣るんで口には出来ないような悪行を働いている、などと言われているが、真実か虚偽かは知るところではない。だからこそ稀に姿を見せると周りの視線は彼に注がれる。それが興味本位でなのか、はたまた忌み嫌っての事なのかは定かではないが。
そんな事を徒然と考えていると、何故か瞬間彼と目が合ってしまい、私はすぐに視線を逸らした。
けれど彼はそれを見逃さなかったようで、もう一度彼の方を見遣ると彼は私に視線を向けたまま手招きしてきた。
……どうしようか。
心の中で独りごちて悩んだ。行ったら殴られるかもしれない。何眼飛ばしてんだ、とか言って。
だけど行かなくても結局学校で何かしらの制裁を受けるだろうから、ここは素直に従うか。
私は仕方なく公園の傍に自転車を置き、公園内に足を踏み入れた。
「よぉ。……お前その制服っつー事は俺と同じ学校だよな?」
彼は私の格好をまじまじと観察し、何を取り繕うでもなく堂々と煙草を吸いながら訊いてきた。
「……うん」
無駄な言葉は全て省いて頷いた。何か付け加えて彼の逆鱗に触れたくはなかったから。
「やっぱりな。見た事あると思ったぜ」
彼は僅かに口角を上げると徐に立ち上がり、何の躊躇いもなしに煙草を地面に捨てる。
「…………」
その彼の行動に、煙草をポイ捨てするな、とは口が裂けても言えなかったので、私は仕方なく自分で拾った。
「お前、何してんの?」
「え?」
尋ねられた瞬間、私は何か怒鳴られたりするのではないかと肝を冷やした。だが……
「良い子ぶってんなよ。……そんなんじゃ疲れんだろ?」
思いもよらない言葉だった。
時間が止まったかのようにその場で立ち尽くす。
ただ言われただけならこんなにも驚かなかった。だけど、今の私にとってその言葉は胸を抉るかのようで。
……見透かされた。そう思った。図星だったから。
「でも、生きて行く為には……正攻法でやっていかないと……」
自分の意に反して、声が段々小さくなっていくのが解る。そんな私とは打って変わって彼の声は明瞭だった。
「そんな先の事、どーでもいいんじゃねぇ? これからどうなっていくかも分からねぇのによ」
淡々と告げる彼。私は反論出来ずに黙り込む。正に彼の言う通りだった。
いつも先の事を考えて行動していた。
けれど、今考えてみればそれは全て無駄に終わる。
出来るだけ良く見せて、生きてきた。
だがそんなもの今となっては何の意味も成さない。
彼の言う事は尤もだった。
「そう、だね……」
何とか絞り出すようにして声に出す。彼はふと悪戯な笑みを浮かべた。
「もっと気ィ抜けって。……なぁ、一緒にサボらねぇ?」
彼は私の気が揺れているのに託けてそう唆してくる。
だが私はきっぱりと断った。
「ごめん。私やっぱり、学校行く」
「あ? 何で?」
「……学生生活満喫しておきたいから」
彼にそう明確に答えると近くにあったゴミ箱に彼の煙草の吸殻を捨て、公園を後にした。そして再度学校に行く為に自転車を押して通学路沿いに出る。
「おいっ、お前、大学とか行かねぇのっ?」
私の後を追うようにして公園から出てきた彼は、最後に告げた私の言葉に疑問を持ったようで、そう問い掛けてきた。
「……うん」
私は取り繕った微笑を彼に向け、自転車に跨りその場を去った。
その日の放課後、私は職員室にいた。別に呼び出しをくらった訳ではない。ただ用があっただけ。そこで偶々ある一人の教師に呼び止められた。
「秋月、ちょっと来い」
その教師は私の姿を見遣ると手招きした。何の話かすぐに察しがついた。
「お前、進路はどうするんだ?」
思惑通り、その教師は進路の事を問い掛けてくる。
「……特には」
何かをしたいという目的のなかった私は、何一つとして将来を見据えてはいなかった。
成績が悪い訳でもない。けれど大学を出たところで今の私が変わるとは思えなかった。
「もう今年で高校卒業するんだぞ? 自覚があるのか?」
「じゃあフリーター」
煩わしかったので単語だけを述べる。すると案の定と言うべきか、教師は恰も怒り心頭といった様子で大声を出した。
「そんな単純なものじゃないだろう!」
そう声高に自身の机を叩く。私は疑問を持たずにはいられなかった。
だってこれは私の人生だ。誰かが口出しして良いものではない筈だ。
そんな事を思い巡らす。既に教師の話す言葉は私には届いていなかった。
あぁ煩い、と心が嘆く。
なんと言われようと私に【将来】の文字はもうない。
だってもうすぐ死ぬのだから。
「ちゃんと考えて決めろ。お前を思って言ってるんだぞ」
最後に耳に入ったその言葉が、私にとっては偽善に聞こえた。
「……失礼します」
その教師を憎悪の眼差しで一瞥した後、さっさと職員室を後にした。
過剰な親切は多大な迷惑になる事を知らないのだろうか。
職員室を出た後、私はふとそんな事を思っていた。
こんなモノクロの世界で生きるくらいなら、死んだ方がマシだ。
そしてどうせなら格好よく死んで逝きたい。
私の最期の願望だった。
学校の校門を潜り、私は自転車を走らせた。
今にも沈んでしまいそうな夕日を横目に、悠々と。
明日もこうしているのだろうか、なんて思い巡らせながら。
当たり前だった事が今では当たり前ではないと感じる。
こんなに夕日が朱い事を私は今まで気付かなかった。
そんな事は気にも留めていなかったから。
「綺麗な夕日……」
帰り道、多くの事象を心にしまった。
今朝初めて話した加宮春樹の事、職員室で教師に説教された事、……今日見たこの景色。
そして、今私が思う全ての事を。
死にたいなんて言っていたけど、いざそういう立場に立つと……
「……恐い」
呟いた言葉は自分でも驚く程震えていた。
けれどこの声は、誰にも届いていない。
「……っ」
自覚した途端、涙が溢れた。今までこんなに不安にならなかったのに。
「……弱いね……」
思わず自嘲した。
一筋の涙が頬を伝った。
……不安に限度はないと思い知った。
次の日、私は昨日と何ら変わりなく登校した。無論、周りも何も変わらない。
変わったのは、私の胸の内だけ。
「あ」
廊下を歩いていると、すれ違い様に誰かが私を見てそう声を上げた。
ふと視線を遣ると、其処にはいつか見た不良青年。
「……珍しいね」
挨拶したところで返答があるとは思わなかったので皮肉混じりにそう告げる。
「……昨日……」
その不良青年、もとい加宮春樹は思いの外静かな口調だった。私は何かを言い掛けた彼にじっと見入って言葉を待つ。
「昨日お前が『学校生活満喫しておきたい』とか言いやがったから、便乗してやったんだよ」
目を逸らしつつ、ほんの気紛れだと念を押す彼に初めて好い印象を受けた。本当は元からこういう人だったのかも知れない。そう考えを改める。
「そう、……ありがとう」
何故か彼に礼を述べていた。不思議と微笑が零れる。無理してる訳じゃない。素直な気持ちだった。
その感謝の意を知らない彼は少し顔を顰めている。
「礼を言われる覚えはねぇんだけど」
「……そうね」
思わず苦笑を洩らし、じゃあまたね、と言って自分の教室に入る。
彼とはこれきり話す事はないだろうと頭の隅で考えながら。
その日の昼休み。
私は夏のお昼の誘いを断って弁当を片手に一人屋上に来た。幸いにも人は誰一人居らずほっと胸を撫で下ろす。……と言っても居る筈がないのは解っていた。何故なら此処は、立ち入り禁止なのだから。
「……良い風」
伸ばし過ぎた髪が風に浚われる。珍しく心地の良い気温の中、屋上から青い空を仰ぎ見た。曇りの無い青が一面に広がっている。
……正反対だと思った。今の私と。
フェンスのないこの屋上は街が全体的に見渡せるようになっている。私は腰を落ち着かす事なく街の方に視線を遣る。
「…………」
暫くそのまま佇んでいたが、やがて緩慢な動作で歩を進めて……端の窪みに足を掛けた。
その先にはもう、足場はない。
――――このまま堕ちてしまおうか。
そう思った時だった。
「おい」
その呼び掛けに敏感に反応してしまい、無意識に肩が跳ねる。恐る恐る後ろを振り向くと、彼がいた。どうやら彼は私よりも前にこの場所にいたようだ。ただ私が、見逃してしまっていただけ。
「あんた何してんの? 気でも狂ったか?」
そう続けた彼の言葉が私を正気にさせた。私は彼の問い掛けには答えず、窪みに掛けた足を戻して階段へと続く扉の横の壁に腰掛け、弁当を広げて平静を装う。
「いつからいたの?」
直球で疑問を投げ掛けた。
「結構前。三限からサボって此処にいた」
平然と受け答えする彼に話を続ける気にはなれず、ただ黙々と弁当を食べた。
一番見られたくない所を、一番見られたくない人物に見られてしまった。
躱す言葉も、取り繕う余裕もなかった。
「どーせあれだろ?傍から見たら飛び降りそうに見えても、当人は景色に見入ってたってオチだろ?」
さり気なく私の隣に腰掛けた彼は、にやりと口角を上げそう言った。
本心なのか、それとも気遣っての事なのか、見当が付かない。けれど何故か嬉しく感じている自分がいた。
「……そうかもね」
心とは裏腹に、彼に視線を向ける事なく曖昧な言葉だけを返す。彼はどんな顔をしているのだろう、などと思慮に耽りながら。
私から話す事は何もないのに、彼は何故か途切れる事なく話を続けてくる。
「ところであんたは何で此処に来たよ? ここ立ち入り禁止だぜ?」
自分がそれを言える立場なのか。そんな考えがふと頭を過ったが私は敢えて伏せておいた。
「一人になりたかったから」
「……あ、そ」
そっちから訊いておきながらあまりにも素気ない返事に一瞬不快感を覚える。だが今こうして普通に話してはいるものの、彼は一応名の通った不良なので怒るに怒れない。そのまま仕方なく押し黙った。
「……なぁ」
「何?」
私はその時漸く彼を見た。すると彼もそれに気付いたようで、此方に視線を向けて少し逡巡しつつも口を開いた。
「あんた何でそんなに息詰まってんの?」
そのたった一言に言葉を失う。意表を衝かれた。一番尋ねられたくなかった疑問。何でもないように装ってきていた事が、一気に崩れ去った瞬間だった。
「……そう……見えるの……?」
そこに私の意思は存在していなかった。ただ無意識に口を吐いて出た言葉。
「まぁ。……初めて会った時から余裕なく見えた」
彼は私から視線を逸らした。それだけ私が動揺していたのだろう。
「いや、別にそれがどうとかじゃなくて、正直俺にはカンケーねぇし。……ただ、疲れるんじゃねぇかなと、思ってよ」
そう言った彼の言葉は、既に私の耳には届いていなかった。
……どうして解ってしまったんだろう。何でもないと装い、必死に隠して、今まで通りにしてきたつもりなのに。
「……疲れない」
「あ……?」
沸々と湧き上がる、どうしようもない焦りと憤怒。
「疲れない……っ、そんな知った風な事言わないでよっ‼ 昨日会ったばっかのあんたに言われたくないっ‼ 勝手な事ばっかり言わないでっ‼ どんな気持ちで……っ」
勢い余って立ち上がり、食べ終えていない弁当の中身を全て駄目にしてしまった上、それだけの言葉を口にしてからやっと自分の口走った事を自覚した。口元を手で覆ったが、今更で。謝罪の言葉も思い付かない程、気が動転していた。
「……おい?」
私を凝視する彼の表情が明らかにおかしい。それはそうだ。これだけ罵倒されて表情を変えない訳がない。だが、それだけではなかった。
「……あ……」
そこで、気付いた。
自分が泣いている事に。
「あぁ……悪りぃ……」
謝罪の言葉が彼の口から洩れる。正直、意外だった。私に叱責しその場を立ち去るとばかり思っていた。だが全く違った。私から謝る事はあっても彼の方から謝罪の言葉を告げられるなんて、予想外だった。
「……違う……ごめん、なさい……」
上手く言葉が纏らず、しどろもどろになってしまう。
「……無理すんなよ」
彼は眉間に皺を寄せた後、突然立ち上がると、次の瞬間そっと私の体を包み込んだ。
「……っ!」
私は急な事に頭が真っ白になり、とにかく彼から離れようと抵抗した。だが、
「そんなに一人で背負わなくてもいいんじゃねぇの? どんなモンを抱えてんのか、それがどんなに重いモンかは知んねぇけどさ、辛かったら泣いてもいいんじゃねぇの? それって人として当然の権利だろ? ……言ってて俺もよく分かんねぇけど」
そう告げられ、抵抗するのを止めた。彼を押し返していた手から力が抜ける。
「……俺、かなりありがた迷惑な事してるよな……」
そう小さく呟いて苦笑する彼。
私は箍が外れたように声を上げて泣いた。
いつか誰かに思った事。
『過剰な親切は多大な迷惑になる』
それは彼に対しては思わなかった。
寧ろ感謝していた。心を預けられた気がして。
初めて気を許せた気がした。それは彼の心からの言葉だったからか。それとも私の捉え方が変わったからか。
どちらにせよ、それは、
暗闇に迷い込んだ私に見えた、ほんの僅かな生きる希望。
それからどれだけの時間が過ぎただろう。
私が泣き止まないせいで彼はずっと授業に出られなかった。勿論、私も。
どうにか涙が止まった頃には、日が沈みかけていた。
「……ごめんなさい。……ありがとう」
少し声は掠れてしまったが真面に言葉を紡げた私に安堵してくれたのか、彼は私を抱き締めていたその手を解放した。
「なんか、マジでお節介な事ばっかしてたな俺」
今になって照れた様子で顔を背ける彼。それを見てつい笑みが零れた。
人は見た目じゃなかった。
現に彼は不良を装った普通の青年だった。
少し個性的で誤解されやすい、けれど優しくて暖かい青年。
「損な性格だね」
「……何で?」
「……髪を染めてるから、学校に殆ど来ないから、公園で煙草を吸ってるから、服を着崩して着るから……だから周りに目の敵にされるでしょ……? でも本当は、こんなに優しくて暖かいのに……」
彼と視線を交わし、胸中をそのまま述べる。彼は目を丸くして驚いていた。だが次の瞬間には普段学校で見せている冷たい表情に戻ってしまう。
「俺は優しくなんかねぇよ。買い被り過ぎ。それに俺は損なんかしてねぇ」
そう言い放って視線を外した彼は、私には少し寂しく映った。
「……今日は本当にありがとう。こんな時間までごめんなさい」
私は会話を締め括ると同時に床に散らばっていた弁当の中身の残骸を拾って弁当箱に戻していく。すると……
「そんなに帰したいのかよ」
チッと舌打ちした後、彼は意外にも手伝ってくれた。どうやら彼は私の言った事を誤解して受け取ったらしい。これではいくら何でも失礼なので私は言葉を付け加えた。
「そうじゃなくて……長い時間無駄にさせてしまったから……それにこんな時間だし、もう帰りたいだろうなって。あなたいつもすぐ帰ってたから……」
「それってお前の勝手な見解だろ」
「え……?」
その時私は玉子焼きを拾い掛けた手を必然的に止めた。……二つの影が綺麗に重なる。
「……あんたの事、もっと知りたい」
僅かに距離を取った後、彼は私から視線を放さずにそう告げた。
「俺と付き合って」
一瞬時間が止まったようだった。われているだけかもしれない。そう頭を過る。だって何の変哲もない、寧ろ普通過ぎて変わり映えのしない私なんかに。
忽ち私は平常心を取り戻した。彼の視線は猶も揺るがなかったが、私は最低な返事をした。
「いいよ。その代わり……本気にはならない」
肯定した時点では彼は柔らかい笑みを浮かべた。だが、続いた言葉に彼はその笑みを失くす。彼の気持ちが手に取るように窺えた。
「……分かった……」
そう返した彼の言葉に今度は私が愕然とした。納得するとは思わなかった。
……結局は彼も勢いで言ってしまったのだろう。それで引くに引けなくなっただけ。
そんな風に思い直す。
こうして私と彼は、愛情のない恋愛を始めた……