4章 アケミ=シロモリとの邂逅、それから三日後――――。
4章 アケミ=シロモリとの邂逅、それから三日後――――。
雇うに当たり、アケミが提示してきた条件は三つ。
1、賃金は日払い。
2、私事を優先する場合がある。
3、アルタナディアに対し、「姫」として敬意を払う事はない。
カリアは呆れた。最後のはただの宣言だろう、しかもそんな無礼なことをなぜ条件に入れるのかと問いただしたら「お前が五月蝿いからだよ」と返された。何だそれは!
姫様の方はといえば、特に問題視していないようだった。馴れ馴れしい態度のアケミに対し、いつも通り毅然と応えた。それのどこが面白いのかわからないが、アケミはひっきりなしに姫様に話しかける。動向には常に注意しているが、まあ…悪い奴ではなさそうだ。判断する理由は特にないが……強いて言えば、自分に近い感じだからか。田舎のガキ大将っぽい雰囲気を纏っている。本当にコイツは名家の出なのか? 自分を棚に上げて言うことではないが……。
そうしてアケミが加わって三日目になる。カサノバの町を出て、次のマカナの町を過ぎ、いよいよ国境という正午前の道中―――アケミは相変わらず姫様に絡んでいる。
「ブッちゃけたところさ、ナディアとしてはどうなの、バレーナは」
「私にとっては姉同然の、尊敬する方です」
「そんな公式会見みたいな回答じゃなくてさ、好きか嫌いかでいうと――」
「大好きでした」
「はは、過去形? 素直じゃないなぁ。ああそうか、二人きりのときにだけガードを解くんだ。ベッドの上だと素直になれるってタイプ?」
カカカ、と下品に笑うアケミ。男に混じって剣を振るうとなれば多少は言葉遣いが粗雑になってしまうわけで、同じような立場にいた私ならまだ平気だが、相手は姫様なんだぞ!? 失礼の極みだ!
それに―――ベッドの上、だと。
あの夜、ベッドの上で、姫様は!
「私も聞いていいですか」
この三日で、初めて姫様から切り出したのではないだろうか。アケミも少し面食らったようだった。
「カサノバの町に潜んでいたエレステル兵はバレーナのあずかり知らないところで動いているようでしたが、彼らは何なのですか?」
「………立場上、ノーコメント。お答えできないね。ただまあ、現時点でイオンハブスに直接危害を加えるのが目的ではないとだけ言っておきましょうか」
「貴女との関係は?」
「気に食わない。個人的にだけどな」
「ずっと気になっていましたが、具体的に貴女はエレステル国内においてどういう立ち位置なのですか?」
「どうもこうもないよ。一般市民」
「一般市民相手に兵士は逃げません。また、名家の子女を一般市民とはいいません」
「そうはいっても、自慢できるような適当な肩書きは持ってないんだ」
「あまりはぐらかさないで下さい。大した力がないのであれば貴女を解雇しなければなりません」
「そんなことしたら国境越えられなくなるぞ?」
「越境できる力を持っているのか信用させろと言っています」
譲らない姫様にアケミは肩を竦める。
「見た目華奢なくせに、肝はしっかり座ってるよな。まあいいか……どの道、説明しとかなきゃいけないんだし」
アケミが私にちらりと視線を送ってくる。一緒に聞けということらしい。
「私の家――シロモリは、軍人というより武人として名を馳せている。戦闘技術の研鑽と指導を代々の務めとする。例えばこの刀もその研究の一つ」
長剣をコンコンと指で叩いてみせる。いまだ抜き放たれたところは見ていないが、刀身が90センチはありそうだ。柄も長めだから全長は120センチにはなる。ただし両手持ち専用の剣・ツヴァイハンダーにしてはサーベルのように細く、独特の反りがあるから片刃の剣らしきことはわかるのだが……しかしこれ、相手の剣や鎧に当たったら折れないだろうか?
「あたしとバレーナとは幼馴染……ナディアと違ってケンカ友達かな。バレーナも剣技が得意だったから、私が相手をすることが専らでね。その縁でブロッケン盗賊団討伐の時も駆り出された。まあいろいろ活躍しちゃって、うっかり有名になっちゃったんだよね、あたし」
「通り名がつくほど功績を挙げたのに、肩書きがないとはどういうことですか?」
「あー…」
通り名とは、例の「長刀斬鬼」か。アケミは眉を大きく動かして顔を渋らせた。
「バレーナとは意見の相違があってね。武官のポストを用意するって話を蹴ったんだ」
「相違?」
「それもノーコメント。ケンカしたわけじゃないんだけどね……なんつーか、下につくことに納得できるほど、アイツの方針に賛同できなかったのさ」
「…………」
「いや、心配しなくていいぞ? あたしはクーデター起こそうとか思ってないから。政治に頓着してないからな」
姫様に釈明するアケミ。何を言おうとしているのか、私にはさっぱりわからない。
「えっと……女王とお前は、どっちが強いんだ?」
何となく会話が詰まってしまったので話題を変えようと、思いつきで聞いてみた。するとアケミはフンと鼻を鳴らして私を睨む。
「あたしに決まってんだろ。まあバレーナも腕が立つほうだよ。でも国で五本の指に入れても、五番目だな。エレステルは腕自慢がひしめく国だ。バレーナ以上の猛者はいくらでもいる。ただ……」
アケミは握った刀の鞘を親指で撫でる。
「アイツは相手がどれだけ強敵でも刺し違える力を持っている。胴斬りに真っ二つにしたときには心臓を貫かれている―――そういう強さを感じさせるヤツなんだよ。負けず嫌いもあそこまでいくと、誰も勝てる気がしなくなる。その辺りが数いる武人たちを認めさせるわけなんだけど―――……ん? 何か話が逸れちゃったな。いや、関係なくもないか。どのくらい強いかってのはあたしの方が聞きたかったんだから。なあ姉君、お前はイオンハブスでどのくらい強いの? 姫のお付ってことは、見た目に反して結構な実力者なんだろ?」
「え…」
急にふられて、すぐには答えられなかった。話の繋がりがさっぱり見えない。というか、見た目に反してってどういう意味だ!
「えっと……どうかな、そこいらの騎士には勝てる自信があるけど、隊長とかは微妙かな…」
ちょっと見栄を張ってみたのだが、
「それじゃあ期待できないな。イオンハブスの騎士の一般レベルは、悪いけどエレステルじゃ三流だ。それに毛が生えた程度って事?」
散々な言われ様だが、言い返せない現実がある。バレーナが宣戦布告をしたあの日、奇襲だったとはいえ、イオンハブスの騎士は圧倒的な数的優位にありながら大敗したのである。武器や戦術だけでなく、単純な腕の差が出た事は誰の目にも明らかだっただろう。私自身もその実力をひしひしと感じて………あ、そうだ。
「女王の側近だと思うけど、そいつに勝った」
「側近? ブラックダガーか?」
「ブラックダガー?」
カサノバでもそんな言葉を聞いた。
「バレーナお抱えの少女部隊。身の回りの世話から護衛やら諜報活動やら、手が広いぞ。ところがこれが年恰好に似合わず優秀でね」
姫様を城から連れ出したときの追手が少女ばかりだったのは、そういうことだったのか。
「お前があの娘らに勝ったってんなら、意外だな」
「あれは勝ったというのかしら。一戦目は右手を斬られ、二戦目はあっさり押さえ込まれ、三戦目は不意の一撃でようやく凌いだように見えましたが」
姫様からまさかのダメ出しが! アケミがプッと噴出した。
「さ、最後が本気の勝負だったじゃないですか! それに不意打ちではなく奥の手です! それでヤツの右腕を折ったんですから…!」
「腕を折った? 相手は誰だ?」
「ちっこくて、私より年下に見えたけどなんか偉そうで……」
「名前を言え名前を。もしくは武器とか戦い方とか」
「短剣を二刀流にしてたっけ。名前は……えっと…」
「ミオです」
姫様の一言に「そうだった」とアケミを見ると、アケミは顔をキョトンとさせていた。
「え、なんだ…? 知り合いだったか?」
そこでハッと気付く。
知り合いも何もないだろう、アケミはエレステルの人間で、バレーナに近い人物。その周囲と繋がりがあってもおかしくはないし、当然仲が良かったとも想像できる。そいつを傷つけたと知ったら………険悪になるどころか、今この場で対決する羽目になるんじゃないか!? どうして考えつかなかったんだ、私は!
息を呑み、腰のサーベルに手を伸ばそうかどうか迷っていると、なぜかアケミの顔がニヤけてきた。よくわからないが、とにかく怒っているわけではないらしい。
「そうかそうか、へぇ……ミオに、ねぇ。ククク……。斬られたっていう右手、見せてみな」
「え? ああ…」
袖をまくって右腕を出す。傷跡も小さくなって、ほぼ治っている。
「ふうん……浅いな。ということは、一応はかわしたんだな。クク、これは面白い、面白いな………いやいや、いい話を聞いた。これなら問題ないな」
何が?と首を傾げると、アケミは得意そうに手を振った。
「アタシの考えってのはつまり、お前を兵士としてスカウトしたことにするのさ。武術師範としてはそこそこ顔も広いし、融通も利く。だが肝心のカリアに実力がなけりゃ、さすがに家名に泥を塗りかねないんでね。中の上くらいの実力はないと困るところだったんだけど、まあまあやるみたいだし、私も安心だ」
「安心だ…って、私はエレステルの兵士になんかなるつもりはないぞ!?」
「じゃあグロニアのどこで寝泊りするんだ? 当分宿暮らしか? 言っちゃ何だが、逃げ出した身でそんなに余裕があるのか?」
「それは……」
手持ちは心許ない。実際のところはもう姫様頼りだ。姫様だって平時なら金銭を持ち歩いておらず、今回大金を持ち出してくださっていたのはとてもありがたいわけだが、限りがあるのも確か……。
「ほら、図星だろ。だから兵士宿舎を用意してやるって言ってんのさ。金はかからないし、エレステルからは身を隠せるし、あたしも側で面倒見てやれるしで一石三鳥だ」
「貴女の目の届く場所に置いておけるという点で、利害も一致しますしね」
姫様の指摘は鋭かったが、アケミは何食わぬ顔。
「そこは呑んで欲しいね。いくらあたしでも、一応は敵対してる国の姫君を野放しにゃできないよ。その代わりナディアにはある程度行動できるように便宜を図るつもりだ」
「ナディアには」……?
「ちょっと待て、私はどうなる?」
「新兵はひたすら訓練だろうが。二流剣士の分際で、都合よく休めると思ってんのか?」
「なっ……待て、それじゃ姫様の護衛につけないだろう!」
「姫様って言うな。もう国境付近だぞ」
慌てて口を噤む。姫様は聞こえなかったフリをするが、遠くを見る眼差しは冷たい。
「安心しろ、ナディアが出かけるときはあたしが付き添ってやるよ。あたしなら悪い虫も寄ってこないし、難所も顔パスだ」
「そういうことではなく……!」
「お前さあ――」
アケミが私の首に腕を回してぐっと引き寄せる。
「正直なところ、ミオみたいなガキにいいようにされて悔しいだろ? 剣しか能がないのに、いざこういう事態になって本当に姫様を守りきれるか不安だろう?」
「何を、知った風な口を…」
「これはチャンスじゃないか。敵の実力を知ると同時に自分の腕も上げることができる。敵が認めるほど強くなれれば、敬愛する姫様ももう少し心を開いてくれるんじゃないのか? あの仏頂面が微笑んでくれたりさぁ」
耳元で悪魔が囁いてくるのだが、「聞こえていますよ」と姫様は聞き及んでいたご様子。そこで「あちゃー」と、アケミは全く悪びれる様子もない。
「しかし、アケミの言う事も一理あります。カリア、この際です。揉んでもらってきなさい」
「ええぇ!?」
職務放棄しろというそのお言葉、まさか事実上の解雇通告ではないですよね!?
「決まりな。じゃあお前とナディアは………そうだな、田舎貴族の姉妹という設定で。お前はあまり応用力がないみたいだからな。気品がないとか、からかわれても余計なこと言うなよ。やれるか?」
「あまりバカにするなよアケミ。私は元から貴族だ、問題ない」
「はあ? ハハハ、もうなりきってるのか」
「本当の事だ! ウソじゃないっ!」
姫様は遠い目……。
ともかく、アケミの話はうま過ぎる。提案通り事を運ぶにはアケミに結構な権力が必要なはずだが、そんな大物が一人でフラフラしているというのはおかしい。信用しろというのは無理な話だ。
しかしいよいよ国境にさしかかり、明らかに兵員増強・厳重警戒の検問所を、アケミは本当に顔パスで通ってしまった。
「アケミ隊長、後ろのお二人は?」
「ああ、あたしがスカウトした姉妹だ。しばらくはあたしが面倒を見る」
「了解しました! 道中お気をつけて!」
「おう、ご苦労さん」
敬礼する兵士たちにヒラヒラと手を返すアケミの姿に、開いた口が塞がらなかった。
「っていうか、お前隊長だったのか!?」
「違う違う、通称だよ。ブロッケン盗賊団討伐のときに斬りこみ隊長って呼ばれてた名残だ。あのときちょっと派手に暴れたからな」
派手にって…コイツ、本当に何なんだ。ブロッケン盗賊団だって周辺諸国を荒らし回った総勢数百名とも噂された実力派武力集団だった。それを壊滅させたのがバレーナ率いる討伐隊だったのだが……兵士から憧憬の眼差しを浴びるほど活躍したというのか?
検問所を通過し、エレステル領内に入ってまず目に付いたのは、石を敷いて舗装された道だった。
「おお……すごく遠くまで続いてる」
「舗装された石畳の道路は町と町、拠点同士を繋ぎ、速やかな物資の運搬・兵の移動を可能にしています。これによって外国からの進攻に素早く対応できるようになっているのです」
姫様の解説だ。
「よく知ってるねぇ」
「兄弟国であるエレステルに入るのは一度や二度ではありません」
「なるほど。じゃあそれなりに知り合いもいて、伝手を頼るってことかな?」
「………」
姫様は答えない。アケミの予想は的外れではないらしい。しかし黙秘は元々織り込み済みだったのか、「ほら、やっぱりあたしが付いていたほうが何かと便利だろう?」などとほざいてみせた。
エレステルの首都・グロニアには、その日のうちに着いた。国土面積の割に異様にイオンハブス寄り。知ってはいたが、実感するとまた違う。グロニアから半日でイオンハブスに入れるのだ。王都からエレステルとの国境までかなり早いペースで来たはずだが、一週間ほどかかっている。そのことを振り返れば驚くべき差だ。
しかしそのグロニア。高い外壁に囲まれた城砦都市だ。王都のような華やかな雰囲気はなく、文化より武力を誇示しているかのよう。いや、この国においては武力も文化なのかもしれない。目に見えない国境を跨いだだけで、こうも違うとは―――。
「おい、あまりキョロキョロすんな。あたしには警察権なんてないからな、パクられたら手を振って見送るしか出来ないぞ」
それはどういう意味だと、アケミを睨む。
「やましいところなんて何一つないぞ」
「追われる身だろうが。危機感のないヤツだ」
「姉さま、李下に冠を正さずとも申します。やましいところがないのであれば、堂々としていらしたらよいのですよ」
「あ、ああ……わかった、ナディア」
と姫様に答えつつ………李下って何だろう?
「……要は、疑われるような行為はするなってことだぞ」
何も聞いてないのにアケミに注釈される。くそ、よりにもよってコイツに……!
それからしばらく歩き、街中を通り過ぎて郊外に出て行く。と、途端に景色が変わった。大きな平屋がたくさん並んでいるが、倉庫ではない。
この独特な汗と泥と鉄の臭い、覚えがある……。
「ここが兵士養成所……」
間違いない。しかし、まるで野営地だ。目に見える設備の粗末さは、イオンハブスの騎士訓練所に比べてかなりグレードが下がる。エレステルは決して困窮している国ではないし、軍事に傾いていれば、もっと環境がよくてもいいはずだが……?
「汚く見えるだろうが、実際の戦場に環境を近づける狙いがある……ってより、ハングリー精神を養うのかな。ナディアには悪いが、ここで我慢してもらう」
実際の戦場、か……。そういえばイオンハブスでは、私が知る限り実戦経験がない。もう何十年と実際の敵と戦っていないらしい。つまりはバレーナの襲撃が久方ぶりの実戦だったわけだ。こうしてみれば、惨めな結果も仕方がないところか。
湧き上がる悔しさに腰の剣をぐっと握り締めていると、入所の話をつけに行っていたアケミが男を連れて戻ってきた。養成所のミハルド教官だそうだ。まだ三十代半ばで、イオンハブス親衛隊のグラード隊長に比べるとかなり若い。大熊のようなその体つきは、剣の刃筋が立たないのではないかと思えるほどに逞しい。
「本来なら他の者との共同部屋だが、二人で個室にしてやったぞ。特例措置だからな、それなりに実力を見せなければ皆が納得しないぞ?」
「わかっている。泥を塗るような真似はしない」
アケミの面子ではなく、イオンハブスの騎士として、姫様の近衛兵としてだ。
「フ……ミハルド、徹底的にしごいてやれ。ナディアには雑用をさせろ。どれほど厳しくしても構わんが、女としてのこいつらに手を出させるなよ。邪な手はあたしが斬り落とすと、皆に伝えておけ」
「はっ、了解いたしました」
ミハルド教官が頭を下げる。アケミの命令は私たちのためなのだが、物騒極まりないな…。
「カリア」
「ん?」
「泣いて逃げ出すなよ」
「……………」
クククと背中で笑って、アケミは去っていく。
いくらなんでも舐めすぎだ。イオンハブスの実力を見せてやる―――そう胸に秘めたカリアだった。
● ● ●
「おい、すまないが―――」
「はい、なんでしょう」
「………」
ミオは口を閉じ、顔を歪めた。覗き込んだ厨房から顔を出したのがシェフでなく、ウラノだったからだ。
「どうされましたか?」
「…シェフはどうした」
「休憩中ですよ」
「お前は何をしている」
「食事の後片付けですが」
流しに置いてある食器は皿が二枚、スプーンとフォークが一式。一人分しかないところを見れば、時間の遅れた昼食だとわかる。メイドが主の後に食事をすることは当たり前だし、なんら不自然な点はない。むしろ労いたいところだが、この女だけは別だ。
「御用はなんですか? 小腹が空いたのでしたら、何かご用意しますが」
「いらん。貴様が出すものは怖くて喰えん」
「ハリネズミみたいに気が立ってらっしゃいますね。やっぱりお腹が空いてイライラしてるんじゃないですか? 育ち盛りでしょうから」
クスクスと笑うウラノ。真似出来ない可愛らしい仕草だが、ミオからすれば悪意があるようにしか見えない。が、無視する。
「最近のバレーナ様は少しお加減が優れんようだ。今晩はあっさりしたメニューにするよう、シェフに伝えておけ」
「かしこまりました。心配ですね、バレーナ様……激務でさすがにお疲れのご様子です。先程もお休みのためにアルタナディア様のお部屋に入られましたし」
「何!? どうしてアルタナディア姫の………」
ミオの思考が停止した隙に、ウラノが耳元でそっと囁く―――。
「ミオ様もご無理をされませんように。アルタナディア様の代わりにバレーナ様をお慰めするのは大変でしょう?」
「何だと……」
ミオは自分で顔が引きつったのがわかった。ウラノの襟首を右手で掴むが………何もできない。
「くっ……いいか、くれぐれもシェフに伝え忘れるなよ!」
突き飛ばすようにして放し、ミオは足早に去っていく。その後姿を眺めながらウラノは目を細め、冷笑した。
「そんなに慌てて……姫様のお部屋を勧めたのは私なのに、勘違いなされなければいいですけど。フフフ……」
「くそっ……くそっ……!」
早くなる歩調に合わせるように、ミオは繰り返し呟く。
私がアルタナディアの代わり? そんなバカなことがあってたまるか! バレーナ様は私が傷を負ったからお心遣い下さったのだ。そのお気持ちは私だけに向けられたものであって、どうしてアルタナディアが出てくる!
しかし――。
あの夜以来、アルタナディア姫がいなくなって以来、バレーナ様がどこか変わってしまったのは確かだった。私はそれが作戦成功による一時の高揚感なのだと思っていた。
いや………そう納得しようと、していた。
アルタナディアの部屋のベッドは、バレーナが使っている部屋のものとさして変わらない。違いといえば、天蓋とカーテンが付いていることだけだ。その大きな天蓋を、バレーナはぼうっと見上げていた。
あの夜、自分はどうしてアルタナを傷つけてしまったのだろうか。独占欲を満たすために自分の跡をつけた……それは間違いないが、あんな乱暴をする必要はなかったのではないか。あの時はアルタナの「抵抗なき抵抗」に動揺していたし、カリアの闖入に頭にきていたし、何より自分自身、どうすればいいのか迷っていた。
本当は電撃作戦でイオンハブスの中枢を制圧して属国とし、その功績でエレステルの王位を獲得する。同時に、アルタナを捕虜として一生自分の手元に置いておくつもりだった。
誤算は、アルタナのほうが自分より王としての覚悟を持っていたことだ。作戦遂行に当たって、全面戦争という事態は当然予想された。ともすれば、守るべきアルタナの命を自分が奪ってしまうかもしれないと。だがそれはエレステルの王として覚悟していた……はずだったのだが……。
「ふう…」
バレーナは虚しく溜息を漏らす。
あの夜……アルタナを傷つけてしまったあの夜、優しく抱いてやればよかった。一週間でも一ヶ月でも一年でも抱き、愛を囁き続ければ、アルタナの心は変わっていたのではないか?
………無理だ。無意味だ。そんなことでアルタナが折れるはずもない。アルタナを抱きしめたのも、ドレスを裂いたのも、ベッドに押し倒して胸に歯を立てて傷つけたのも、状況に身を任せたフリをして、私の卑しい感情を吐き出しただけだ……。
寝返りを打ち、目を閉じるかどうか迷う。仮眠をとるつもりだったのだが、今眠るとアルタナの………ものすごく淫らな夢を見そうな気がする。そんな寝覚めの悪いのはゴメンだ………
「―――バレーナさまっ!!」
部屋に飛び込んできた気配に意識が覚めた。どうやら船を漕いでいたらしい。
身を起こし、何かあったのかと尋ねる前に、ミオは異様に顔を険しくしていた。
「……どうしてそんなところで眠っていらっしゃるのです」
「ん………」
自室に戻って一眠りしようとしたら、ベッドのクッションを干している最中だから空いているアルタナディアの部屋をと、ウラノが勧めてきたのだ。主が不在の部屋に入るのは気が引けたのだが、
――城主の物すべてを奪ってこそ、初めて占領したと言えるのでは?
ウラノめ、上手い事言う……。何かあるかと思っていたが、こういうことだったか。
「部屋のベッドメイクがまだだというからな。代わりにここで休んでいただけだ」
「他にも部屋はたくさんあるじゃないですか! 私には、バレーナ様がっ……」
「想い人の匂いを嗅いで、妄想に耽っているようにでも見えたか?」
「なっ……そ、そのようなことは……」
赤くなってうろたえるミオを笑ってやる。下らんことだと言い聞かせるように。
「アルタナのことを考えてはいた。私にとっては妹同然……言葉のあやではない、本当に大切な存在だった。その妹に手をかけようというのだから、感慨にもふける……」
「………本当に、妹なのですか」
「何……?」
普段のミオとは違う、少し責めるような声。内心、ドキリとした。
「どういうことだ」
「私も昔は姉と仲が良かったです。でも………あの夜の時のように情動的に抱いたり、ベッドに引き込むようなことは、姉妹でもしませんでした」
ミオの視線はバレーナの腰掛けているベッドに刺さっている。
「本当は……本当は、姉妹以上の想いを抱いていらっしゃるのではないですか? もっと深く愛していらっしゃるのではないですか?」
「何を言う、そんな馬鹿なこと…」
「私はアルタナディアの代わりだったのですか!?」
「―――――」
まずい………否定しろ。すぐに否定しろ。違うと言え。早く違うって言え……!
「私に与えてくださった優しさは、本当はアルタナディアのものだったのでしょう!?」
「そうじゃない……」
「アルタナディアを忘れるために、気を紛らわせるために私に愛情を注いでくださったんじゃないんですか!?」
「違うっ……黙れっ!」
直後、怒鳴った自分に茫然としてしまう。何だ、この有様は……。
涙目になっているミオをぐっと見詰め、大きく深呼吸する――……。
ウラノの計略ではあるのだろうが、大元の原因は私だ。私の責任だ。アルタナを、ミオを、自分自身を誤魔化した、私の責任……。
「…私が、アルタナディアの代わりになります」
「何だと?」
「アルタナディアの代わりになり、バレーナ様のお心を満たしてみせます。元より身も心もバレーナ様に奉げています。いかようにしていただいてもかまいません!」
一大決心したつもりか。しかしミオ、それは茶番だ……。
「いいだろう……試してやる。来い」
来いと命じられ、ミオはビクリと身を震わせる。
あの夜、この場にいたミオならば、ベッドに座る私の元へ来る意味を察するだろう。
身を縮こまらせ、視点を迷わせながら、ミオは少しずつ歩み寄ってくる。二歩手前で止まったミオに、バレーナは組んでいた右足を伸ばした。
「口付けろ」
ミオが目を剥く。靴に口付ける行為は服従を示す。今のバレーナは靴を脱ぎ、黒いストッキングだが、同じことだ。家臣が主に服従の意思を示すのは当然だが、それでもこれは腹心の部下にやらせるものではない。それなら手の甲だ。そこにおいて足を出す意味………それはまさに、己を捨て、身も心も委ねろという意味だ。
ややあって……。
息を呑んだミオは膝を着き、手も床に付けて這い蹲い、震えながらバレーナの爪先に口を寄せて―――……
「……止めろ」
「え…」
「失格だ」
「! 何故ですか!?」
「アルタナは抵抗しなかったが、屈服もしなかった。言っている意味はわかるな」
「あ…!」
アルタナディアと同じであるのなら、自ら膝を着いてはいけなかったのだ。
「お前にアルタナの代わりは無理だ。が、お前の代わりもまたいない。確かに私はお前の向こうにアルタナを見ていたのかもしれないが、かけた言葉の一つ一つはミオだけに向けていたつもりだ」
愕然とするミオを見下ろすバレーナは、都合のいい言い訳を並び立てる自分に反吐が出る思いだった。
「私に与えて下さったお言葉が本当なら………もう一度、抱きしめてください……」
「…………」
靴を履いて立ち上がり、己を殺してミオの横を通り過ぎる―――が、不意にこぼれた涙がミオの手に落ちてしまった。ミオが顔を上げる前に足早に通り過ぎたが、気付かれてしまっただろう。それでも平常心を保ち、堂々として見せなければならない。
「今日はもういい。明日から通常任務に戻れ。私の勝手に付き合わせてすまなかった………許せ」
ミオを残して部屋を出て、私は自らを呪った。
王ならば戯れてはいけなかった。王でないのならアルタナを連れて逃げればよかった。どちらにしろ、ミオに甘えてはいけなかったのだ……。