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アルタナ    作者: 夢見無終(ムッシュ)
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2章  バレーナ王女によるイオンハブス襲撃、その翌日―――。

 2章  バレーナ王女によるイオンハブス襲撃、その翌日―――。



 ミオがバレーナの部屋に呼び出されたのは、アルタナディアが消えた翌日午前九時のことである。

 一部の騎士が起こした襲撃事件は終息させたものの、アルタナディアは逃亡してしまった。

 それ自体は問題ない。バレーナとミオの間では折込済みであり、指示通りアルタナディアには監視をつけている。さらに去り際のアルタナディアの要望と宣誓の言質をとってきたのは、バレーナにとって上々の結果だった。いくら意図的に泳がせているとはいえ、意思を把握しておく必要はあった。例えばアルタナディアが他国に亡命した場合、大軍を引き連れて戻ってくる可能性も有り得る。いや、それならまだしも………要請を受けた国が大義名分を利用し、イオンハブスとエレステルの両国を一気に奪い取ろうと画策することもあるだろう。考え始めれば最悪の状況は予測しようもない。そういう意味ではミオはいい働きをした。

 捕らえた騎士はアルタナディアに対して十分な人質となる。牢屋に放り込んでおけば要望を呑んだことになる上、アルタナディアは必ず一人で戻ってくるだろう。そういう娘だ。

 結果は実に思惑通りだったのだが―――バレーナには一つだけ不満があった。報告にきたのがミオでなく、ブラックダガーの一人であるロナだったのだ。不自然に感じて問い質すと、ミオはアルタナディアに追っ手を差し向けるための指示をしているという。そこがバレーナには引っかかった。ミオなら全てが完了してから報告に来るはずだ。人任せに途中経過を報告させることはしない……。しかし何かしらの理由があるのだろうと思い、そのまま休むことにしたのだ。

 だが翌朝、現れなかった本当の理由をこうして目の当たりにして……バレーナは少しの間、かける言葉が浮かばなかった。

「……重傷者の報告は聞いていなかったがな」

 ミオは縮こまる。白い包帯で吊った右腕を胸元に隠すようにして、

「不覚でした…」

 それだけ言うのが精一杯だった。

「あのアルタナの従者か……」

 何かと噛み付いてきた女剣士を思い出す。カリアといったか。まさかミオに手傷を負わせるだけの実力があるとは思わなかった。それとも偶然か? いや、つまりはそれが油断なのだが。

「折れたのか?」

 ミオの怪我を裂傷などでなく骨折と診たのは、包帯の下に添え木がしてあったからだ。

「腕が曲がるほどではありません。指は動かせますし、おそらくヒビが入った程度です」

「ふむ」

 バレーナは目を伏せるミオに近づくと、顎に手を添えて上向かせ、額と額をくっつけた。

「ぁ…」

 突然のバレーナの行動にミオは固まる。バレーナとミオは二〇センチ近く身長差がある。普段、こんな風に顔が近づく事は……身長に関係なく、無い。

「そんなに見つめるな。照れて、正確な体温がわからなくなるだろう」

 額を合わせたまま、こんな至近距離で照れると言われても。バレーナの美貌がミオを魅入らせるのだ。

「……微熱があるな。これから熱が上がるだろう。個室を割り当てる。しばらく休め」

「そんなっ…大丈夫です! 問題ありません! 任務に支障ありません!」

「支障ないことないだろう、その腕で。エレステルへ帰還するほうがいいか?」

「嫌です!」

「嫌と言われてもな……」 

 頑として首を立てに振らないミオにバレーナは少し戸惑う。いつもならもう少し大人しいはずだが…。

 と、気付いた。カリアに対抗心を燃やしているのか。猪みたいな従者に傷を負わされれば、さすがにミオも黙ってはいられないか。まだ少女のミオを支えているのはバレーナの側近であるというプライドであり、コケにされれば我慢もならないのだろう。悪い傾向ではないが、影響されすぎるのも困る。

「その腕で私の隣に立たせるわけにはいかんな。今日から連日、この国のカカシどもと対峙せねばならないのだ。その時にお前が傷ついた姿を見せれば、奴らに付け入る隙を与えてしまう」

「………」

「そこで、だ」

 バレーナが最近ではあまりしない、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「ミオの怪我は私の命令を履行したゆえの、いわば名誉の負傷だ。私もわがままを言った責任を感じている。だから腕が治るまでこの部屋で静養しろ」

「え…?」

 どういうことだろう……?  

 ミオがしばし思考停止していると、バレーナが身体をかがめて目線を合わせ、ポンと肩を叩く。

「利き腕をやられて不便だろう? 食事から着替え、風呂の世話まで、私が全て面倒見てやる」

「え……」

 今度は頭がちゃんと動いていた。猛烈なスピードで―――妄想していた。

「なっ……何を仰っているのですか陛下、お戯れが過ぎます。それに無様を晒して特別扱いでは、ブラックダガーの長として面目が立ちません」

 赤面するかと思いきや、ミオは冷静に受け答えする。

 バレーナとしては慌てふためくミオも見たかったのだが、いつの間にかポーカーフェイスができるようになっていたらしい。しかし落ち着きすぎている不自然さは隠しようもない。

「フッ……まあよい。そこまで言うのなら、食事と風呂に付き合うだけで許そう」

「ですから陛下…」

「プライベートの時間くらい付き合ってはくれんのか? リラックスする時間は狙われやすく、逆に気を張ってしまいがちだからな。お前がいてくれると安心だ」

「……そういうことでしたら……」

 ミオは承諾する。普段の任に就けない代わりに、食事時と入浴時に護衛をするということだ。療養しろといわれるのは仕方がない。自らの至らなさゆえだ。

 そんな風に己を責めるミオを、バレーナは見透かしていた。

「そう肩肘を張るな、治るものも治らんだろう。しばらくは私との食事での話題でも考えていればいい」

 そう言ったバレーナの唇は―――ミオの警戒を何事もなく突破して、柔らかな頬に触れた。

「え…あ、あのっ…今のは……」

「早く怪我がよくなるおまじないだ。昔もしてやっただろう?」

「子ども扱いは……その……」

「止めて欲しいか? なら、大人しくしていろ」

 もう一度キスされて、ミオはブラックダガーの寝泊りしている大部屋に帰された。


「ミオ、大丈夫だった!? バレーナ様にお叱りを………ミオ?」

 心配して駆け寄ったロナが首を捻ってミオの顔を覗き込む。考えられないくらい隙だらけだったからだ。

「バレーナ様に子ども扱いされた……」

「ふうん? ミオ、子ども扱いされるの嫌いだもんね」

 相槌を打つものの、ロナはしっくりこない。誰に子供扱いされてもミオは怒るが、バレーナ様に何を言われてもミオは構わないはず。そんなにショックだったのかと様子を伺うが、顔は青いというより赤い。目に涙を含んでいるというか、潤んでいる。どことなく、表情と言動が一致しないのだ。

「ミオ…?」

「あ…ごめん。しばらくは静養するようにと……私が負傷したせいで、皆に迷惑かける。本当にすまない」

 まかせてと胸を叩く者もあれば、やれやれしょうがないなと肩を竦める者もいる。だが誰も責めたりはしない。ミオは同世代が集うブラックダガーの中でも体格が小さく、歳も最年少だが、「生娘部隊」と影で揶揄されるこの隊において、戦闘力・忠誠心・判断能力……どれをとっても一級の戦士に引けをとらない。だからミオがやられたとなれば、それは相手が相当の腕前だったか、不運な事故だったかだ。文句はない。そう、誰しもが認めるミオだったのだが―――

「はふ……」

 変な溜息を吐いてベッドで丸まったのを見て、誰もが首を傾げたのだった。


              ○  ○  ○


 夜通し歩き、日が昇ってさらに半日歩き続け、カリアとアルタナディアがキメロンの街にたどり着いたのは、城を出た翌日の午後三時だった。

 途中で休憩を挟んだとはいえ、実に十五時間は歩き詰めだったことになる。どうしてこんな事態になったかといえば、当初の目的地に向かうのをアルタナディアが拒否したからだ。本当は事前に連絡してあったサングスト大老の元に一時的に匿ってもらい、その後の方針を考えるはずだった。ところがアルタナディアは逃亡よりも投降することを望み、計画を実行したグラード親衛隊長以下の面々は、おそらく全員捕らえられた。しかも何を思ったのか、西に向かうと言い出す。

 西―――。今のアルタナディアにとって、イオンハブスにとっては鬼門といえる方角だ。イオンハブスは東と南を海に、北と西はエレステルの領土に囲まれている。実質的な戦争状態となった今、エレステルに向かうのは自殺行為以外の何ものでもない。いくらバレーナがいないとはいえ、アルタナディア逃亡の旨は伝わっているはずだ。どうして自ら危険に飛び込もうとするのか、カリアにはいくら考えてもわからなかい。

「…今日はこの町で休みましょう」

 アルタナディアの顔にもさすがに疲労の色がみえたが、それはいつもの表情からすれば、だ。日ごろから訓練を受けているカリアですら、こんな強行軍は経験した事がない。そこにあってこのアルタナディアの気力・体力は全くの想定外だ。

「姫様、お体は――」

「姫と呼ばない」

 慌てて口を噤んだ。指摘されるのもバカバカしい、初歩以前のミスだ。しかし姫様が姫様でなければ、なんとお呼びすればいい?

 アルタナディアもそれに気付いたようだった。

「……私の呼称については一考しましょう。ですが、その前にやらなければならないことがあります」

 マントのフードを被り(道中で購入した)、頭から全身をすっぽりと覆い隠すと、まず宿を探した。中級のランクの宿を選び、一部屋手続きすると、休むことなく町中へ。

「服を調達しましょう。私もあなたも目立ちすぎます」

「はっ…」

 付き従うものの……エレステルまで向かうとなると、今のカリアの手持ちでは余裕がない。むしろ足りない。姫様は路銀のことをお考えなのだろうか? まさか王族と名乗ってツケにしろとか……自分に注意しておいてそれはないか。

 古着屋で足を止めたアルタナディアは、平民のドレスと寝巻き用のネグリジェを二着ずつ選ぶと、「あなたも自分のを選びなさい」とカリアに言った。

 まさか古着とは……。カリアは構わないが、姫様に古着は畏れ多い。やはり今後の資金繰りを考えてのことだろうか? とりあえず服と宿の支払いは自分がするとして……どこかの地方貴族に援助を頼むか、それとも少し回り道だが私の実家に寄るか……。

「まだ選んでいないの?」

「すみません、すぐに……」

 振り向いて、カリアは手を止めた。アルタナディアはすでに着替え終わっていた。白のブラウスにダークブラウンのロングスカート。デザインもこざっぱりしていて、サイズもピッタリだ。

平民の服だというのによく似合う―――いや、それはおかしいな。姫様が服の魅力を存分に引き出しているということか。

「いやいやぁ、よく似合う。センスがいいねぇ、お嬢さん」

 気安く声をかける店主にアルタナディアは軽く微笑み返してみせる。そして少し冷ややかな眼差しをカリアに―――。

「迷うのならあなたの分も私が選びます。構わないわね?」

「え? あの…」

 言う間にヒョイヒョイとチョイスした服を渡され、着替えてきなさいと試着室に押し籠められる。

 濃紺を基調とした、乗馬もできるパンツスタイルだった。どこぞの貴族の質流れ品のようだ。なるほど、これなら丈夫で動きやすいし、剣を下げていても不自然じゃない。しかも、不思議とサイズも合っているし………姫様には服を見立てる才能があるのだろうか? 失礼な話だが、用意されたものをそのまま着ているだけだとカリアは思っていた。

 カリアの姿を見て満足したらしいアルタナディアは、どこに持っていたのか、銀貨で支払いを済ませる。カリアは慌てて、店を出るアルタナディアに耳打ちする。

「支払いは私が…」

「なぜ?」

「なぜと仰られましても……」

「私は貴女の主人です。ならば私がお金を出すのは当然の事でしょう」

「しかし…」

「そのくらい手持ちはあります。無い時ははっきり無いと言います。安心しなさい」

「はぁ…」

 カリアは複雑な気分だった。確かに兵士は国から、つまりは王からの給与で働いているのだが、お守りすると誓った手前、お金を出させるのはどうにも情けない。かといって、自分の分すら危うい財布の中身である。思わず溜息が出る……。

 宿に戻って食事をし、その後の風呂は部屋ごとの時間交代制だった。アルタナディアの入浴中は風呂場の前に控えようとしたカリアだが、部屋に居ろと帰された。逆に怪しまれるからと。それはそうなのだが、一人にさせるのは不安でしょうがない。ここは王都ではない。だから王女の顔を見てもすぐには気付かれない。それはつまり、アルタナディアに畏れを抱かないということでもある。どんな不埒な輩が出てくるかわからない―――

「先に頂いたわ。貴女も入りなさい」

「は………」

 水気を含んだ髪は艶やかで、白い肌は上気して、身にはネグリジェを纏っている。その姿が目に入った途端、様々な不安がいっぺんに吹き飛んだ。そして何か別のモヤモヤしたものが胸に込み上げてくる。

「カリア。カリア…?」

「…っ! はい!」

「疲れているでしょう。早く入ってきなさい」

「は、はい…」

 視線を下ろしたままアルタナディアの脇を通り、カリアは部屋を出る。

 見てはいけないものを見てしまったような気がする……。考えれば風呂場に付き従ったことはなし、寝巻き姿を見たことはなし、まして同じ部屋で寝るなんてこと……。

 どうする? どうすればいい!? 湯桶の水面に映る自分の顔を見つめながらカリアは自問する。

 今さらだけど別の部屋に移るか!? しかし離れていると、いざというときに困るわけで……

「……あーっ!」

 頬をパチンと叩く。

馬鹿だ…! 姫様に逃げるように進言したのは私だ。その私が慌てふためいてどうする? 姫様に余計な心配をさせるだけではないか。城のときと同じように、城のとき以上に姫様をお守りしなくてどうする!

 疲れも迷いも流して部屋に戻ると、アルタナディアは綺麗な姿勢でベッドに腰掛けていた。

「長かったわね。湯当たりしたのかと、見に行こうとしたわ」

 見に……。

 姫様に裸を見られるのは、なんというか………ダメだ、冷静になれ。

心の中で深呼吸したその時、ふと違和感に気付く。

「姫様、髪を……!?」

「バレーナに切られた長さに揃えただけです」

 桜色の髪が、肩につくかどうかという長さで綺麗に切り揃えられていた。見え隠れする首筋から肩にかけての細いラインが、なんというか………ダメだダメだ、落ち着け。大体さっきから何だ? どうしてうろたえてるんだ、私は―――

「そこに座りなさい」

「は?」

「座りなさい」

 指示されるままに、部屋の真ん中にぽつねんとある椅子に腰掛けると、後ろからアルタナディアがカリアの頭をタオルでワシャワシャと拭き始めた。

「ひ、姫様!?」

「他人のことを言う前に、自分の髪くらいちゃんと拭きなさい。風邪をひくわ」

「けっ、結構です! 私の髪は短いですからすぐに乾きます!」

「今の私と大差ないでしょう。大人しくなさい」

 タオルを離したアルタナディアが今度は髪を撫でる。細い指が髪の隙間に入る感触に、カリアはぞくりとする。

「あ、あの……こんな、畏れ多い事…」

「そう思うのなら、普段からきっちりしなさい。言葉遣いや姿勢は大分良くなりましたが、身だしなみだけはいつまでたっても改善されないわね」

「……お言葉ですが、服装は気をつけておりますし、最近は誰にも咎められたことはありません」

「兵士としてではありません。女性としてです」

「女性として……?」

「私の側に立つならば、衆目にその身を晒すことも多くなります。私専属の騎士なのですから、それなりに華がなければなりません」

「…………」

 カリアは返事に詰まる。

 こう言っては何だが、自分は「女性」ではない。

 騎士団に女は数えるほどしかいない。イオンハブス軍の中でエリートとされる正騎士団員二百余名中、自分を含めてたった三人だ。その中で私は、女として意識される事の無いように努めろと厳命されてきた。オスの巣の中にメスが放り込まれるのだ、無意識でも何らかの動揺を招く。「女性」として扱われたとき、お前の騎士としての人生は終わると思え―――そこまで言われた。

 だから勘違いした男が求愛にきたとき、全て剣で打ち倒した。同僚だろうが上官だろうが返り討ちにした。最初は「女に負けるなんて」と男が笑われたが、それもいつしか「カリアだから勝てない」に変わっていった。思いがけない事だったが、そうして男に勝ち続ける事によって、ようやく認められるようになったのである。以来、自分は「女」であっても「女性」であることはないと、心に決めたのである。

 それなのに、だ―――。

「あなたは元々綺麗なのですから、きちんと手を入れれば美しく輝きます」

 正面に回ってきた姫様が前髪を優しく撫でつけて、目線を上げられない。

 私に求愛した男は皆、同じように私を綺麗だと……もっと凝った言い回しで褒めちぎってきた。いい気になることはあったが、心を動かされる事はなかった。なのに、どうしてこうも心がぐらつくのだろう? 

「右腕の具合はどう?」

 答える間もなく姫様に右腕をとられる。白い右手が手首を軽く握り、左手の細い指先が傷を撫でて――……

「っ――!」

「ごめんなさい、痛かった?」

「い、いえ…」

 痛みよりも、触れられたのが、なんというか………ああもう! 何を動揺しているんだ私は! 冷静になれ!

「き…傷は問題ありません。痛みは少しありますが、ちゃんと動きます」

「完治するまでは無理に動かさないほうがいいわ。まだわずかに血が滲んでいます」

「大丈夫です。いざとなれば左腕一本でも戦えます。私、元は左利きでしたので」

「左利き? だからあのような技を使えたのね」

 「あのような」とは、ミオを撃退したときのことだ。鉄拵えの鞘を左手に持ち、奇を衒った一撃を食らわせたのだ。

「騎士団剣技においては好ましくないのですが、グラード隊長の勧めで独自に訓練していました。特注の鞘も、許可をいただいたものです」

「そう。頼もしい限りだわ」

「いえ、そんな…」

 正面きって褒められたのは初めてではないだろうか? 照れてしまう。

 その間にアルタナディアは新品の包帯でカリアの右腕を巻いていく。丁寧で、どこか馴れた手つきだった。

 変な感じだ。町での動きも迷いが無い。姫様はずっと城暮らしだと思っていたが、案外そうでもないのだろうか。

「ところで、私の呼び方についてなのだけれど」

「はい…」

 ……忘れていた。

「あなたには兄弟がいたわね」

「はい。まだ幼いですが、弟と妹が一人ずつ」

「それでは、私はあなたの妹ということにしましょう。私もこれからはあなたを姉と呼びます」

「ええぇっ!?」

 姫様が、私の妹!?

「あなたの方が一つ年上なのだから、当然でしょう」

「でも、やはりそれは抵抗を感じるのですが…。せめて逆のほうが」

「それで貴女が私を目上と認識すれば、無意識に王女として扱いかねません。あなたの正直なところは好ましいですが、正直すぎるきらいがあります。この際、関係性を逆転させるのが一番いいでしょう」

 そうは言われても……。

「では、私はなんとお呼びすれば?」

「下手に名前を変えるとボロが出かねないから…………そうですね、ナディアと呼びなさい」

 アルタナディアの下半分で「ナディア」か。「アルタナ」でないのは、やはりバレーナを意識しているからか……。

「呼んでみなさい」

「はい……えと……ナディア、様」

「……カリア」

 姫様が溜息をつく珍しい場面を目撃したのは………もちろんいいことではない。

「へりくだってどうするのです。あなたは姉なのですよ。しっかりしなさい」

「はい…」

 とはいえ、どう客観的に見ても姫様のほうが姉役にピッタリだ。私の方が年上だとか背が高いとか、関係ないと思うのだが。

 ともかく慣れなければ………いや、慣れなくてもきっちり役割をこなせなければ。これからの姫様の安全にかかわる。

 少し深く息を吸って……気合を入れて―――!

「…ナディア」

「なんですか、姉さま」

「――――」

 喉を鳴らしてしまった。別ににこやかだったわけじゃない。姫様は単に返事しただけだ。ただいつもの威圧感がないだけなのに、どうしてこんなにも可愛らしく――――

「姉さま?」

「いえっ、何でもありません…………あ!」

 顔を背けてしまい、

「カリア…」

 さすがの姫様も、目元が苛立っていた……。

 

 それでその日は就寝した。ベッドは少し軋むが、こんなものだろう。布団はカビ臭くないし、宿のランクを考えれば上々だ。城のベッドと比べれば雲泥の差だが、カリアの実家も騎士団寮もこんなものだった。カリアにとっては日常なのだが―――唯一、隣でアルタナディア姫様が眠っているという非日常がある。

 結局のところ、姫様が何を考えているのかはわからない。あのミオの言うことじゃないが、私は従者として失格なのだろうか。こういう状況になって初めて不安になってきた。

 身を起こし……しばらく迷ったが、声をかけてみる。

「姫様、起きてらっしゃいますか」

「………何ですか」

 アルタナディアはカリアに背を向けて横になっている。そのまま振り向かず、静かな返事だけ聞こえてきた。

「あの……私は、その……姫様は私に女性としての意識を持てと仰いましたが、それでは兵士として強くはなれないのではないでしょうか。私は騎士になるために自分が女であることを捨てるように指導され、私自身もそう在るべきだと納得して今までやってきました。姫様の仰ることを否定するわけではありませんが……」

 不安なのだ、とは言えなかった。それこそ姫様を不安にさせてしまう。

 しばし沈黙の後、アルタナディアのほうが口を開いた。

「女性であることが弱いというのであれば、バレーナも弱いと?」

「あ……」

 バレーナ王女。絶大なカリスマを誇るエレステルの君主。文武に長けた漆黒の姫君。その身に猛々しいオーラを纏っているが、決して女性らしさがないわけではない。いや、むしろヒシヒシと感じるほどだ。口調こそ王のそれだが、声音は聞き惚れるほど艶やかだし、完成された肉体のラインを強調するドレスも実によく似合っている。その振る舞いは高貴であり、されど艶めかしくもある。女性としての自己を存分にさらけ出しているのだ。

「ただ実直に剣となり、盾となる……それは兵士として正しい姿だと私も思います。しかしそれだけではバレーナには、王には勝てないのです。あなたが私の剣であることを自負するのならば、鋭いだけではいけないのです。幾重にも厚みがなければすぐに折れてしまいます」

 その剣になる覚悟があるのかと、姫様は問うてこない。なぜ? 私には期待していないのか?

「……私も未熟なのです」

 ぼそりと、独り言のように聞こえた。その言葉の意味は………後悔に決まっているだろう。城を抜け出し、国を置き去りにしてしまった自分に対する後悔。ひょっとすると………懺悔しようとしているのかもしれない。

 だからそれ以上は、カリアも何も口にしなかった。不安を訴える事は、姫様にとって何よりも苦痛のはずだから。


                ●  ●  ●


 バレーナが現れて二日目の式典会場は、昨日行われた式典中よりも密やかだった。

 イオンハブスの大臣以下重役の面々が、剛堅な椅子に腰掛けるバレーナの前で跪いている。それはさながら、主にひれ伏す忠実な僕であった。

「では貴様らは、降伏すると――?」

 バレーナの威嚇するような視線を避けるように、大臣の一人は顔を伏せる。

「わ、我々はこれ以上の流血を望まず…」

「フン、流血とな。ロナ、今日までの死傷者は?」

「はい」

 ミオの代わりに側に控えるのはブラックダガーの二人。ペンとノートを小脇に抱えるロナは情報操作に長け、もう一人の背の高いマユラは男顔負けの膂力を誇る。

「最新の報告ではイオンハブスの重傷者は十五名、軽傷者六十二名、すべて兵士です。我が方の被害は軽傷八名、重傷一名です。死亡者はいません」

「戦闘ではあったが、戦争とは言えんな。我々とすれば、軽く揉んでやったというところだが……?」

 あからさまな挑発。しかしそれに乗る勇気は、この場の誰も持っていない。

「こ…これまでのそちらの出方を見る限り、殺戮が望みではないのだろう? 民草の命を保障してくれるのなら、我々は、国を明け渡す用意がある…」

「ほう。しかしアルタナは降伏しないと言ったが?」

「国をないがしろにして自らを省みない者を、我々は王とは認めない」

「……それで?」

「アルタナディア姫を国賊として差し出す所存……」

「………」

 瞬間、ロナとマユラの背筋に冷たいものが走る。バレーナの瞳が凍るように冷ややかだ。そう、まさしく氷。硬く、冷たく、触れるもの全てを切り裂くような鋭利な眼差し。ブラックダガーでさえ滅多に見たことが無い、これは――――

「…こいつらを牢へ放り込め」

「は…はっ!」

 バレーナの命により、十数人のエレステル兵が二十余名の大臣たちを囲む。

「な、なぜだ!? 降伏すら認めないというのか!?」

「黙れ。首を刎ねられたいか」

 怒りの篭った声は、イオンハブスの臣たちにとって死の足音に等しい。

「この愚か者どもが!! アルタナは主権者として一人抗う事で収めるつもりだった! 初めから自分ひとりの命を国に奉げることを望んでいたのだ! そこにおいて貴様らは……王を守る立場でありながら、姫を身代わりに差し出すか!? このたわけ共がっ!」

 立ち上がったバレーナが豪快に椅子を蹴り飛ばした。堅い樫の椅子は重い音を立ててハデに転がり、最前列にいた大臣二人にぶつかった。

「私が欲しいのは強さだ……キサマらのような虫ケラはいらぬ。どの道、アルタナがいない時点で交渉は不成立だがな」

「姫がいない!? それはどういう…!?」

「黙れゴミどもっ!!」

 マユラの持っていた長剣を奪い取るように引き抜き、バレーナはざわめく有象無象に迫る。慣れた手つきで剣を握り、おぞましいほどの殺気を放つ様は、うら若い娘のそれではない。「黒百合の戦姫」とは「戦鬼」の間違いではないのか。黒い艷姿は、絶世の美しさを絶大な恐ろしさに変える。

「アルタナも可哀相にな……このような不忠の俗物しか家臣がいないとは!」

 剣が大上段から豪快に振り下ろされる。先程までバレーナが座っていた重厚な椅子が真っ二つに叩き割られ、その切っ先はアルタナディアを差し出すと口走った大臣の心臓を指して止まっていた。今の一振りでこの大臣の―――その場にいた全ての人間の意思は、確かに殺されたのだ。

「貴様らなぞこの場で八つ裂きにして何の憂いもないが、それでは裏切られたアルタナの気が済まんだろう? 処刑方法はアルタナに決めさせてやる。あの可憐な瞳が貴様らの死を望む瞬間を想像し、恐れ慄くがいい………連れて行け!!」

 平和に満ちた幸せの国とはこのようなものだろうか? バレーナは虚しさすら感じる。アルタナが哀れだ……。

 

 夕刻、自室に戻ると、控えていたミオが心配そうな顔をした。

「どうした?」

「バレーナ様がお疲れのようですから。昼間は、大立ち回りを演じられたとか……」

「フッ……ロナとマユラは青ざめていなかったか? あんな怒り方をしたのは久しぶりだったからな」

 バレーナは椅子の背もたれに寄りかかりながら冗談交じりに笑うが、ロナとマユラのほうは冗談では済まなかったらしい。ブラックダガーは実質的な親衛隊だから、ミオほどでなくとも、誰しもバレーナとは近しい。その彼女らが真っ青になって部屋に戻ったとき、ミオはバレーナの身に何かあったのでは疑ったほどだ。

「あんな怒り方」とは、おそらく今まで誰も見たことのないバレーナ様だったに違いない。そしてその原因は無能な大臣ども……の向こうにいる、アルタナディア姫か…。

「…バレーナ様、食事の用意をさせましょうか」

「いや、先に気分を落ち着けたい………風呂の用意をさせてくれ」

「お風呂でしたら、すでに準備できております」

「ほう…」

 身体を起こし、ミオを斜に見るバレーナはニヤリと笑む。

「手回しがいいな。私と入浴するのが余程待ち遠しかったのか」

「は!? 何を、仰います…」

「よし、風呂に行くぞ」

 飛び出すように立ち上がったバレーナは嬉々としてミオの小さな左手を掴み、ぐいぐい引っ張ろうとする。

「バ、バレーナ様、困ります!」

「何が困る? ロナたちとは一緒に入っているだろう?」

 それはそうだが、それはあくまで同僚だからであって、目上の、まして国のトップであるバレーナ陛下の肌を拝むなど………違う、陛下の前で汚い肌を晒すなど、あってはならないことであって……!

「……いえ、やはりいけません。骨を折ってますから、お風呂は」

「だからだろう? 風呂に入れなくても身体を拭わねばなるまい。一人片手では無理だ」

「ですが…」

「ミオ」

 すっと雰囲気が重く変わる。機嫌を損ねたのかとミオが固まると、バレーナは真正面から覗き込んでくる。

「お前の当面の役割は、私のオモチャになることだ。手傷を負わされたことを恥じるのなら、せいぜい私の機嫌をとるように努めろ」

 ミオに反論の余地はなかった……。

 そして風呂場での四十分間―――。ミオにとってはトラウマになりそうなくらい恥ずかしいことの連続だった。あっさりと裸になったバレーナから目を逸らすのも必死だったが、それよりなにより、服を丁寧に脱がされたのが最大の恥事だった。しかも一糸纏わぬ姿を凝視される。気絶しそう……いや、いっそ気絶してしまいたかった。

 しかし、爪先まで舐めるように眺めたバレーナから出た言葉は、沸き立ったミオの頭に水を差すものだった。

「ふむ……傷はないな。兵士とはいえ、女のお前たちの体に傷をつけるわけにはいかん。ミオも自身を大事に扱え」

 バレーナがコツンと額を合わせてくる。

 愛されていると、感じてしまった。お側に置いていただいているとはいえ、幼いころからの仲とはいえ、一兵卒にこれほど気を遣って頂けるとは……いや、もしかして私が子供として扱われているだけなのか? ミオには判別できない。

 風呂場でのバレーナはまるで隙だらけだ。しかしそれだけリラックスしているのかと思えば、時折りにわかに表情を曇らせる。美しく強靭な肉体と魂を持ち合わせていても、流れる血は王のそれなのだ。苦悩から解き放たれる事は決してないのだろう……。

 やっと風呂から上がると、バレーナの自室に食事が用意されていた。そしてテーブルの脇には一人のメイドが控えている。

「いい湯加減だった」

「恐れ入ります」

 バレーナが軽く声をかけると、メイドは慇懃無礼に頭を下げる。

「席に着け、ミオ。乾杯しよう」

「はい」

 ミオは素直に従った。この期に及んで断るなど野暮極まりない。

乾杯し、グラスを傾けてワインを一口飲み下し、

「で――」

 バレーナはメイド―――ウラノに顔を向けた。

「どうだった、アルタナディアは。思うままで構わん、述べてみよ」

「はい」

 初めて言葉を交わす間柄ではない。ウラノとは、バレーナによって送り込まれた人間なのである。

「姫様は凛とした美しいお方です。これまで公の場ではお言葉が少なかったですが、その全てが正しく、無駄がありません。ご自分の漏らす一言の重みを理解した、思慮深い方とお見受けします。ご自身に大変厳しく、近しい者にも弱みを見せられることはありません………いえ、最近一度だけありましたね」

 ウラノはそれまで機械的に喋っていた口元にほんの少し意思を滲ませる。ほんの少し、薄ら笑って―――。

「昨晩、深夜です。破かれたドレスの換えをお持ちしたときに」

 バレーナのフォークを持つ手がピタリと止まる。

「貴様、なぜその時に報告しなかった!?」

 ミオが憤るのはドレスを持って行ったことについてだ。深夜に寝巻きではなくドレスとは、逃げる用意をしていたのだ。ウラノもその事はわかっていたはず。

「貴様が報告を怠らなければ、昨晩の件は事前に手を打てたんだぞ!」

「そうですね。その腕も傷を負わずにすんでいたのかもしれません」

「なに…!」

「よせ、ミオ」

 ミオをバレーナが制する。

「それで、評価としてはどうなのだ」

「王として素晴らしい素養をお持ちかと思います。しかし周りに恵まれていません。王は一人では成れません……。ガルノス王が病に伏せられた二年前より大臣をはじめとする重鎮までもが堕落しているこの国。良く治めるには強力なリーダーシップが必要ですが、残念ながらアルタナディア様には一つ、致命的に欠けているものがあります」

「何だ?」

「アルタナディア様を泣かせたバレーナ様ならば、ご存知のはずでは?」

「…………」

「貴様……いい加減にしておけよ」

 ミオがナイフを左手に握り直す。

「およそ主に対する口の利き方ではないぞ。王に対する度重なる無礼、行き着く先がわかっているのだろうな!?」

 怒り以上に殺意を含んでいる。バレーナに対する侮辱は万死に値するのだ。

 しかしウラノはミオの実力を知りながらも平然としていた。

「ミオ様、勘違いされては困ります。私はバレーナ様の部下ではありません」

「何だと……!?」

「座れ、ミオ。しばらく黙っていろ」

 ミオは肩を怒らせながらも着席する。バレーナの命だ、不服でも様子を見守るしかない。

「ウラノ、大体はわかった。あくまで例え話だが、『その時』がきたら、お前は私とアルタナディアのどちらに付く?」

 言を受けたウラノは目を細め、不快感を顕にした。

「強い方に。今はまだ、アルタナディア様付のメイドです」

「……わかった。『その時』まで、身の回りの世話を頼む。下がっていい」

「では失礼いたします、バレーナ王女様」

 一礼して部屋を出て行くウラノを最後まで睨み続け、ミオは口火を切った。

「バレーナ様、どうしてあのような物言いをお許しになるのです!?」

「興奮するなミオ。腕に響くぞ」

「あれでは増長する一方です! しかもあの女、最後にバレーナ様のことを『王女』と……奴は『反対派』に違いありません! 手元に置いておくのは危険です!」

「手が止まっているぞ。折角の料理が冷めてしまう」

「バレーナ様!」

 テーブルを越えて詰め寄ってきそうなミオから目を逸らし、グラスを空にすると、バレーナは小さく息を吐いた。

「ウラノはジレンの者だ」

 その回答にミオは目を丸くする。

「ジレンとは、あのジレンですか? 王の選定者、『絶対中立』のジレン一族……」

 ジレン一族はエレステルの次期王を決定するために、候補者の性格・能力・素行などを常に調査し、評価する役割を持つ。具体的な決定権は王と議会に委ねられるものの、緻密に収集されたデータには多大な影響力があるという。その特異性のためにジレン一族は絶対的に中立であり、徹底的な守秘義務を貫く。一族の者は総じてあらゆる知識に精通し、社会のあらゆる場所に溶け込み、常に王家を監視しているのだ。

「しかしどうしてジレンの者がこの国に……そもそも、どうやって正体がわかったのですか?」

 ミオの疑問はもっともだ。基本的に頭目であるゴラル・ジレン以下数名しか面が割れていない。一族の構成は全く不明なのである。

「正体がわかったのは偶然だ。いや、必然かな…。三年前にメイドとして城に入ってきたときに気付いた。優秀すぎたからな。この国に送り込んだのはアルタナの評価をさせるためだ。二年前に私の父が亡くなった時の経験から、今回のようなことになるのは目に見えていた。出方を判断するためにウラノには協力してもらったわけだが………まだ不満がありそうだな」

 ミオの表情は硬いままだ。

「いえ、不満というわけではありませんが、あの態度はいかがなものでしょうか? 中立とはいえ、自国の王に対する振る舞いではありません!」

「そう目くじらを立てるな。あれは私を恨んでいるのだ。面が割れたジレンは劣等の烙印を押される。ゴラル族長にウラノを使う承諾を得に行った時も、二つ返事でOKだった。ウラノにしてみれば身内に売り飛ばされたようなものだ、これ以上の屈辱はない。私も少々出すぎた真似をしたかと思ってな、協力を要請するという形にしたのだ。このことは他言無用だぞ。さあ、もういいだろう。食事にしよう」

 バレーナが料理を口に運び始めると、ミオも従わざるを得なかった。メニューは魚のオンパレードだ。ミオの腕が早く治るようにバレーナがリクエストした。

 ミオは早速、内陸のエレステルでは珍しいカジキのステーキにナイフを入れようとするが、右腕は指先が動くとはいえ、分厚い身を切り分けるには力が足りない。苦戦していると、バレーナが皿を取って切り分け始める。

「全く、ウラノの差し金だな。多少捻くれてしまったが、かゆい所に手が届くヤツだ。お前の腕のことがわかっているなら最初から切り分けて持ってくる。ただ、プライドが高いからな。私情で任務を放棄することはないが、可愛い嫌がらせくらいは受け止めてやれ」

「………」

「ほら」

 バレーナが切り身を刺したフォークをミオの口元に寄せてくる。

「そ、そこまでは……自分で食べられます」

「怪我人は甘えていいのだぞ? 一回だけだ。ほら、口を開けろ」

 それはバレーナ様がやりたいだけなんじゃ…。口には出せず、代わりに渋々「あーん」と口を開き、切り身を受け入れる。恥ずかしい……ものすごく恥ずかしい。誰かが見ている前だったら切腹ものだ―――

「……風呂場で、ずっと私を盗み見ていたな」

「んぐっ…!!」

 大きな切り身をカタマリのまま飲み込んでしまった!

「げほっ、げほっ…」

「ハハハ、そんなに動揺するな。慌てなくても、お前もちゃんと女らしい身体になる。そのためにはしっかり食べることだ。お前はただでさえカロリーを消費する役目なのだからな」

 やはり子ども扱いなのだろうか……。ミオは少し気が沈んだが、風呂場でのバレーナの浮かない表情を思い出す。

 これで気が紛れるのなら、それでいいのではないか? それが今の自分にできることだし、オモチャにされるのも………悪い気は、しない。


              ○  ○  ○


 目覚めたカリアは、重い目蓋の下から薄汚れた天井をぼうっと眺めていた。

 城じゃない……いつ騎士団宿舎に戻ってきたのだろう……?

(カリア……カリア……)

ああ……実家に帰ってきたんだっけ……? 母さんの声がする………

「カリア。いつまで寝ているのです」

 母さん、こんな上品な喋り方したっけ? まるで姫様のような……――――

「――うああぁっ!!」

 一気に目が覚めた! 宿舎じゃない、実家じゃない! 宿屋だ! 姫様と一緒に泊まった宿屋……!

「おはようカリア。うなされていたのかしら、うわ言を言っていたようだけれど」

「大丈夫っ…です! おはようございます!」

 朝から嫌な汗を掻いた……次に眠ったときは間違いなくうなされそうだ。

対して姫様のほうは、ネグリジェのままとはいえ、寝起きという気配はない。目はパッチリ開いているし、髪も綺麗に整っている。

「少しお寝坊ね」

「あ……今、何時でしょうか?」

「五時過ぎです」

「………」

 道理でまだ暗い。窓の外側の雨戸を閉じているのも原因だが、そもそも太陽がまだ顔を出していない。部屋のキャンドルに一つだけ火が点されている。

「騎士団時代でも六時起床でしたが……」

「私の近衛兵になってからは?」

「七時過ぎに……」

 アルタナディアの美しい眉間に皺が寄る…。

「あ、あの、城のベッドはとても寝心地が良くて……!」

「そう。ベッドが原因なら、騎士団宿舎と同じものを用意しなさい。許可します」

「冗談……でしょうか?」

「何のことです?」

「いえ…! 家臣たる者、主君より早く起床し、常に万全の態勢であることに努めます!」

「お願いします」

 姫様はあくまで事務的な応答だ。

 しかし……五時起きはツラい。ただでさえ朝は弱いのに、シャレにならない。

「心配しなくても大丈夫です」

「は…?」

 唐突で、なんのことかわからない。独り言かと勘違いしかけた。

「私も普段は七時前に起床します。ですが今は非常時です。早朝に発たねばならない。わかりますね?」

「はっ…!」

 そうだ、今は逃亡中の身だ! のんびり惰眠を貪っている場合ではない。幸いまだ見つかっていないようだが、追いつかれないうちに距離を稼ぐに限る。でも昨日二十四時間丸々動きっぱなしだったことを考えると、睡眠時間五時間じゃ完全回復しない。姫様はそこまでタフなのだろうか? 自分は疲労が抜けきらず、緊張感のない寝覚めの悪さ……猛省する。

 そんなことを考えながら着替えようとして。ふと、気付いた。姫様の御前で着替えなんかしていいのだろうか? いやそれより、姫様の着替えを見るほうがマズい……。姫様も気まずさを感じて手を止めているようだ。

「あの……私は外に出ていますので、その間にお着替えください……」

「いえ、それはいけません。姉妹の間柄でそんなことをすれば怪しまれます」

 そういえばそんな設定だった。私が姉で、姫様が妹。兄妹でもなければ着替えに気を遣うのはおかしいか。

「向こうを向いて着替えてください……そうしましょう」

 お互いに背向けという妥協点を見つけ、ボタンに手をかけるも…

(緊張する…!)

 ドギマギしながら、何か別のことを考えて気を紛らわせようと、カリアは昔のことを思い出す。

騎士団のときは酷かった。訓練生のなかで女は自分一人だけで、一応住み分けはされたものの、うっかり見られる、ちゃっかり覗かれるなんてのは日常茶飯事だった。入隊して半年間は本気で泣いた。なんといっても十四歳だった……。

しかしそんなことも、十六歳のある時点からなくなった。着替え中に「お前も身体が出来上がってきたな」と言って確信犯で部屋に入ってきたどこぞの中隊長を、中隊長と知らずにマジで返り討ちにしたからだ。骨折五箇所、歯を三本。素手で。「身体が出来上がってる」のだから当然力もついている。馬鹿なオヤジだったが、さすがにやり過ぎたと今は反省している…。

 ……まあそんなエピソードはともかくとして。問題は、男の側で着替えるのも任務の上でなら我慢できなくもない自分が、姫様を前にして(後ろだけど)パニックになりかけているということだった。着替えをお手伝いするのはメイドの役割であって、その他の者が姫様の肌を見ることなどあってはならず、たとえ事故であっても懲罰ものだ。いや、今は非常時だし、姫様も自分と同じ女だ。それはわかっている。わかっているのだが………。

 チラリと後ろを振り返る。ちょうど姫様の白い背中が顕になっていて、息を詰まらせてしまった。

一昨日の晩と同じ、あの背中だ。

記憶は鮮明だったが、感覚的には幻のようになっている。姫様が陵辱された、憎むべき夜だった。それは忘れていない。でも、あの一瞬だけは―――月光が満ちる中、白い背中が花開くように曝け出されたあの瞬間だけは、あまりの美しさに心を奪われた。時間が止まるように鼓動も鳴りを潜め、我を忘れてしまっていた。あんな経験は初めてだった。あれほど神秘的な美が存在したとは……。

 そして今。再び姿を現した背中は、生々しかった。キャンドルのほの暗い灯火が背中の影を肉感的に浮き出したからかもしれない。白い肌が灯りのせいで少し赤く見えて、脈々と血が通っているように……あの夜は神々しかった背中が人間らしく感じられて、自分に近しくなったように錯覚する。

 触れたい――。

 頭の中に響いた己の呟きに驚く。触れる? 姫様に? 血迷ったのか!?

 でも……。

 すっかり筋肉質になってしまった自分の体躯とは比べ物にならない、滑らかな肌。あんなに細身なのに、どこまでも沈みそうに柔らかく見える。

けっして自分と同じ女ではない。だからこそ触れたいと欲するのだろうか。あの背中に……あの髪に……全てに………。

 ―――と、姫様がピタリと動きを止めている。着替え終わったようだが、どうしたのだろうか………

「ぁ―――」

 私の姿が窓に映っている! そして窓越しに姫様と目が合った!

 姫様は、私が見ていたのを、ずっと知って――――!!

「あっ…たっ…き、着替え終わりました!」

 姫様が振り向く。心臓がはちきれんばかりに大きく鳴り、重い背徳感と罪悪感が私を襲う。私を覗いていた男たちはきっとこんな心境だったんだろう。

 しかし姫様は何も言わず、ただじっと私を見詰めるだけだった………。


「あの、姫様……」

「何か」

「いえ、あ……何でもありません」

 声は少し冷たい風に乗って、林の奥に消えていく……。

凄まじく気まずい。結局、弁明の余地のないまま宿を出て、もう太陽が真上に昇る。朝食も簡単に済ませただけだったのに、昼時になっても食事の話題は出てこない。まさかとは思うが、ずっと食べずに進むつもりだろうか。でも姫様より先に音を上げるわけにはいかないし、それ以上に大事な事もあるのだが―――。

「あの、姫様…」

「…何か」

 明らかに苛立っているようだった。それはそうだろう、特に用もなく呼びかける事十数回。無礼というか、もう単純に嫌がらせだ。

「姫様、どちらへ向かわれるのです? 王都から遠ざかるのはわかりますが、内陸への道は全てエレステルの領地を越えねばなりません。船で海から回らねば、どの国に援助を求める事もできません」

 イオンハブスの北・西はすべてエレステルに囲まれている。東と南は海だ。エレステルを通らないという選択肢は海路しかないのだが、王都を出たアルタナディアの進路はずっと西。今はまだいいが、あと三日も進めば危険だ。バレーナの命令によってエレステル軍本隊が進攻してきている可能性も考えなければならない。

 しかし、カリアの質問に対するアルタナディアの答えは―――

「エレステルの首都、グロニアが目的地です」

 ある意味、当然と言えば当然だった。まさに行く道の行き着く先だ。納得できるわけではないが。

「畏れながら姫様…」

「カリア」

「は?」

「先ほどからずっと注意しようと思っていましたが、私を姫と呼ばないように申し伝えたはずです。きちんとナディアと呼び、姉として振舞いなさい」

 今、具申しようとするこのタイミングで!? 

「あ、あう…」

「どうしたのですか、姉さま。何か言いたそうだったけれど」

 カリアは息を呑む。姫さ――ナディアはあえて下から見上げつつも、先程までの硬い空気を緩めない。むしろトゲトゲしい。何てお方だ……。でも、逆に日常会話できるいい機会じゃないのか? 現実逃避とわかっていながら前向きにそう考えてみる。

「ゴホン……ナ、ナディア、このまま西に向かうのは危険だから、別の道を考えたほうがいい……んじゃないでしょうか…?」

 無理だ………。

「カリア。あなたは弟や妹に対して、そんな自信のない話し方をするの?」

「姫様……コロコロ変わるのはずるいです」

 何だ、さっきからのこの会話。姫様らしくもない……

 ……姫様らしくない?

 姫様を注視する……おかしい。少し歩みが鈍い。

「姫様、次のサーハンの町で休みましょう。お顔の色が優れません」

「何を言っているのです。私は大丈夫です」

「いけません。お身体を壊してしまうと身動きが取れなくなります」

「大丈夫だと言っています」

「ですが姫様…」

「不要です。何度言えば…」

「―――ナディア!」

 二人揃ってピタリと足を止めた。

「お……お姉ちゃんの言う事を、聞きなさい…」

「……………」

 しばし、重い空気が流れ――……

「………宿の手配を任せます」

 それきり、姫様はまた黙ってしまった。

 我ながら驚愕発言だった……姫様も驚いたようだったが、自分自身が何よりびっくりした……調子に乗りすぎただろうか?

 サーハンの町にたどり着くと、早速この町唯一の宿屋に向かう。空き部屋を貸し出す民宿だ。客は私たちの他に誰もいなかった。

「…ずいぶん寂しい町」

 ベッドの上の姫様が呟く。少し熱があったので横になることを薦めたら、すんなり聞き入れて下さったのだ。

「王都とグロニアを繋ぐ中央街道が通る街は流通が盛んなため賑わっていますが、道を逸れればこんなものです。このサーハンの町の周辺は地形の関係で冷害を受けやすく、農作物が育ちにくい環境です。だからといって国で一番貧しい地域というわけでもなく、多少の難題があるのはどこでも同じ――……ん?」

 姫様がぽかんと口を空けている。畏れながら、大変可愛らしい。

「何でしょう…?」

「意外でしたから。カリアは剣を振るしか能がないと思っていました」

「はは…」

 苦笑いが精一杯。事実、私に学は無い。

「父の受け売りです。それもずいぶん昔でしたけど……。最下層とはいえ、私の家も一応貴族でしたから。父は地域の産業開発に余念がありませんでした」

「実家はこの辺りなのですか?」

「ここから二つ隣の村です」

 二つ隣といっても、三十キロ先だ。

「貴族とは名ばかりで、貧しい暮らしでした。ご近所に助けてもらう事もよくあって、父は受けたご恩を返すために奔走しました。でも………本当は自分が情けないのが堪らなかったんだと思います。貴族としてのプライドが現状を許せなかったんです。その上、結果を出せずに命尽きてしまったのですから………さぞかし、無念だったことでしょう」

「…それで貴女は騎士団に入隊したのですか。功績を挙げて家の名を上げるために」

「そんな大層なものじゃありません。父を失った十四歳の私が持っていたのがわずかばかりの剣の才能だっただけで、誇りを賭けるよりも生きる手段として選択しました。情けない話ですが」

「そう…。苦労したのね」

「別に不幸だったとは感じていません。私はこうして姫様に召抱えていただき、母や兄弟を養えるようになったのですから、感謝の念に耐えません……あ、長々と話して申し訳ありません。私は部屋の外で控えておりますので、ごゆっくりお休みください」

 一礼して部屋を出ようとすると、待ちなさいと声がかかった。

「言ったはずです。『姉妹』がそんなことをしてはおかしいでしょう」

「ですが、私がいては落ち着いてお休みできないのでは。それに、別に姉妹でも―――」

「姉なら、甲斐甲斐しく妹の世話をしなさい」

 ………妹のセリフじゃありませんが?

「一人になると余計なことを考えてしまう……眠れなくなるのです。何もしなくていいですから、しばらく側に居てください…」

 一転して珍しく弱気な姫様を前に、ふと思い当たる。早くに目覚めたようで、実は昨日は眠れていなかったんじゃないか? 

「わかりました。ここに居ります」

「ありがとう、姉さま……」

 姫様は目蓋を閉じると、ものの数秒で静かな寝息を立て始めた。

 姉さま、か……。ひょっとして姫様、面白がって使っていないだろうか?

 しかし、安らかな寝顔だ。王女という仮面を脱ぎ捨て……それは違うな、この方は生まれながらの王族だ。夢の中でもずっと王女であらせられるに違いない。ただ……この寝顔は「アルタナディア」の素顔だ。純粋な、彼女自身の……。

 無意識に、手が伸びる―――。

 無駄の無い造形。あるいは一つ一つがとても煌びやかだが、絶妙な調和を保っているのだろうか。その美しい目元が厳しくなることはあっても、喜びにほころぶところは滅多に見たことが無かった。

 さざ波一つ無い水面のようなその顔に、触れたい―――。

「…………っは…」

 指先が寝息に触れて、ビクリと手を引っ込める。私はいつの間に息を止めていたのだろうか。心臓が、バクバク鳴って止まらない。

「何やってるんだ、私……」

 震える足を動かし、どうにか部屋の隅に腰を下ろした。

 熱があるのは、私じゃないのか?

 姫様が隙を見せると、私の胸が苦しくなる。本来私が目を配るのは姫様に対してじゃない、姫様の周りだ。私は、姫様の盾。それなのに……。

 顔を両手で覆う。今は駄目だ、姫様を見てはいけない。家臣は弱っている主君を見てはいけないのだ。

 それなのに………それがわかっているのに。指の隙間から横たわる「アルタナディア」を覗き見る、自分がいた………。




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