この世界とは
もし、これを俺の意志を継ぐ私、あるいは意図に気づいた私が読んだなら、これより書かれることはどんな法則をも凌駕するものであるということを 忘れないでくれ。
今、私がどんな状況下にあるかは俺にはわからないが、決して夢をあきらめないでくれ。私は俺と同じくらい、いや、それ以上に神に近づける存在であ る。これよりは俺の世界線において俺が学んだことを書き記す。少しでも、私の頼りになれば幸いだ。
まず、一つ問うことがある。私は全知全能の神になることを望むか?いや、望まないからこれより書かれることは無為であるということではない。た だ、“そういう意識”がないことには理解がし難い内容かもしれない。まぁ、ただの教養本としても価値を発揮するであろう内容であるので損はないが 是非俺は私に神を目指して欲しい。
では、まずこの世界の基礎的な構造を説明しよう。私よ。今日はなにを学んだ?数学か、国語か、英語か、経済か、上下関係か。なんであれ何かしら 学んでいることだろう。その学習に意義を感じているか?あらゆる学習こそが神へ近づくヒントへとなる。なにとぞ精進してくれ。話を戻そう。実はこ の世界、つまり私や俺が存在している空間とは支配し支配されている空間である。私はこれまでそしてこれからの文章を読むことにより俺の支配下と なった。同時に俺は私の支配下となった。言い換えるならば、情報伝達者が使用した情報伝達方法によって教示された情報は他者に接触した瞬間他者の 独立したとされている思考に無差別に融合されるのだ。もし、俺が私に『ルサカ』という単語を伝えた瞬間『ルサカ』をはじめとする関連情報が無差別 に私の意識に追加されるのだ。その情報が利用できるか否かはさておき……。この学習の方法を俺は『絶対文明』と呼んでいる。オマケ程度に覚えてお いてくれ。
しかし、俺が最初に指した学習とはこの学習ではない。支配する自分自身をつくる方法のための学習である。
俺の近くにはよき理解者がいる。その彼と幸福について語り合っていたときの話だ。記憶に怪しいため詳しい経緯は割愛するが、彼は次元の話の時にこ のような逸話を出してきた。授業中、教師が生徒に問題の回答権を指定するとき、ある男子生徒(Aとしよう)がまたある男子生徒(Bとしよう)を強 く推したらしい。それを見た教師はAがBに気があるのではと言い出した。おまけに「三次元だぞ」と自身のあらぬ妄想を批判する言葉も添えて。この 発言を受け、またまたある男子生徒(Cとしよう)がこのやり取りを聞きしばらく考えた後こういったそうだ。「微分をすれば二次元にすることができ ます」と。教師の「三次元である」という的外れな批判にCは乗っかったのだ。結局はそのような細かい誤りはなかったかのように場は笑いに包まれた という。彼は次元というキーワードに関連したCの逸話を話したつもりであったようだが俺は別な点に興味を抱いた。三次元というと数学的にはエック スの三乗である。それを微分すると3エックスの二乗となる。Cはこの二乗の点だけに注目して発言したと思われるがそうなると3はどこへいったの か。3とは何であるかということではなくどうして3を出す必要があったのかということに興味を感じたのだ。エックスの三乗=エックスの二乗であっ ても別に構わないではないか。そこにわざわざ3を付け加える意味。まさにこれこそが世界の構造を知るヒントとなった。
そこである仮定を立てた。『自身及び世界とは、別の世界線に住む自身が自己探求のために作った仮想空間である』と。つまりこの行動をした場合未 来はどうなるであろう?という思考を現実化したものがどこかに必ず存在しているということだ。しかし、ここでいう未来というのは自然的な因果律の ことではなく人工的な結果による自身の成長を表している。この仮想空間を作る行動、つまり未来の客観的観測行為を『シュミレーション』と呼ぶこと にしよう。大抵シュミレーションというと、なるべく自身の身を置く世界に限りなく似せた世界を再現し、かつ試行がほとんどの場合で不可能な状況を 知るものを指すだろう。さて、このシュミレーションを行うには何が必要か。自身の身を置く世界ではその真実性が確かめられないがある世界、状況 (いずれも自身の身を置く世界では試行が困難である)ではその真実性が確かめることができ、かつ絶対文明学習を用いてシュミレーション結果を自身 の身を置く世界の情報に還元可能な法則が必要なのである。さしづめこれにあたるものがいわゆる普通の学習なのである。私がもし今学習において意欲 を失っているのならもう一度挑戦してみるか別な観点から神に近づく方法を考えてくれ。
ルサカとはどっかの国の首都