愛Ⅰ-Ⅰ+Ⅰα
私は若宮 彩、今年で三十歳、二歳年上の田口弘樹、弘あなたと再会した。社用で取引先の会社に行った時だった。私は、用事を終えて玄関ロビーに出た。入ってきた男の人が足をとめて、こちらを見ている。私、何の意識もなしに会釈して通り過ぎようとした。「彩ちゃん…ひょっとしして…若宮じゃないか」 私、名前を呼ばれ驚いて男の人の顔を見た。この顔、見覚えがある。昔の面影が残っていて、すぐに思い出したの。「あのぉ―…もしかして…田口、さん」 この人、私の高校時代、同級生だった田口奈美ちゃん、って子のお兄さんの弘樹さん。向こうも社用で来たばかりだと言う。十三年…かな、そうそのぐらいの再会「懐かしい」と言うよりも、びっくりしたって言う方が当たっている。
弘樹さんが私に会って最初に、まじまじ見ながら言った言葉は「女性って変わるもんだなー」だって。弘樹さんも容姿は昔の面影を残していたけれどスーツに身を包み、身なりを決めたその姿は、一段とたくましくなっていた。「弘樹さんも変ったわ。あのひ弱なボンボンがねー」と私も負けずに言い返した。「いゃ―…当時は、そんなふうに見られていたのか」 なんて言いながら頭に手を当てて参ったなーって恰好をして見せた。そのしぐさが年上だけど、「ちょっと可愛い」なんて思っちゃった。その場は、お互い名刺交換をして別れた。
数日後に弘樹さんから会いたいと言って連絡が来た。懐かしい思いに駆られ会う為に、指定の場所に出かけて行った。その近くのお店でお茶を飲みながら話す事になった。弘樹さんとは再会したばかり私の関心事は、奈美ちゃんの事だった。高校時代、何でも話せる仲良しだった奈美ちゃんは元気でいるだろうか、今はどうしているだろうか。あれから過ぎた日々、私が変わったように奈美ちゃんも変ったに違いない。「奈美ちゃん、どうしてる元気でい居るんでしょ」 「元気だよ」 「この年だもん、もうとっくにお嫁に行ってるんだろうなー」って聞いた。 「あぁ、奈美は学生時代に知り合った荻野って、今の旦那とそのまま結婚したから確か二十三だったかな。もう子供も二人いるよ」 「そうだよねー…それが当り前か…」 「当り前って事もないだろう。今は皆、結婚に対する考え方が、それぞれだから婚期は、あまり関係ないんじゃないの」 「あら、それって私をフォローしてくれてるの…」 「ハハハハ、彩、彩は気にしているのかハハハハ」 「そんなに笑うかなー」 「いや、失礼。それで彩はどうなの、独身を楽しんでるとか…」 「そんなんじゃないの、もらってくれる人が居ないもん」 「嘘だろう、そんなに綺麗なのに」 「うふぁーお世辞うまいなー、そう言う弘あなたは…あっごめんなさい、弘って呼び捨てにしては失礼だね。でも、つい親しいから…」 「いいよ、弘で、彩に田口弘樹さん。なんて呼ばれたら、こそばゆい。俺もねー嫁さん募集中なんだけど、お嫁に来てくれる女性が居なくてね」 「まっ、さかー、うっそー」 私、弘あなたが、まだ独身だと聞いてびっくり。「小母さんも、小父さんも気になっているんだろうなー」 「何が」 「何がって、弘の結婚に決まってるじゃない」 「そんなもんかな」 「そりゃーそうだよ、当り前でしょう。話は変わるけど、その後、小母さんも伯父さんもお元気…」 「あぁ元気だよ。まぁ少しは、あっちこっち痛いとは言ってるけどね。あれは齢だからしかたない」 田口家の御両親は健在だと言う事だった。私、弘あなたも奈美ちゃんも兄妹ともに、もうとっくに結婚していると思っていたのに。弘あなたが、まだ独身と聞いて…私、正直少し心が揺れちゃって、なぜかホッとしている自分に気づいてた。…何故か多津子小母さんが頭をかすめて行く。まぁ田口家の家庭事情がどうぁろと、誰がどうこう言ったって結婚は当人次第だよね。でもやっぱり御両親は気をもんでいるんだろうな。待てよ、なんで私、私おかしい、他人の誰が結婚しようが、しまいが私に関係ないのに、あれこれ詮索なんて私やっぱりおかしい…そうか、弘、私あなたが好きなのよね…たぶん、うっふふ…
私は弘あなたの事が好きなんだけれど、これ以上好きになっちゃいけないのよ。昔の奈美ちゃんのお兄さんのままでいてほしい、そう思ってたの… でも何度も会って話しているうちに、少しずつ私の中で、弘あなたへの恋しい思いが本物になって行く。私は弘あなたの恋愛の相手にはなれないのにね。
田口家の皆も知っている、私の生い立ち…私が幼稚園に通っていた頃、母親が神崎の家を出て、その後父親も何処かに行ってしまい遠い親戚の若宮の小母に育てられた。そんな私が田口家の坊ちゃま弘あなたの恋人になっても旨く行く筈がない、そう思ってる。弘あなたも全部知ってい筈、そのあなたは会って話す時、昔話はしても私の過去には触れずにいてくれる。それって私に余計な事を思い出させて私を傷つけまいとして弘あなたが、優しい心遣いをしてくれているんだよね。きっと…、あぁ、すごく優しい。その優しさが私をブレーキの効かないほど好きにさせるの…
田口家に遊びに行っていた高校時代、両親が居て親子揃っての食事、ごく普通の家庭だったけれど私には目にする事のない家族の姿だった。そこで初めて弘あなたと会ったのよね。あなたと同じ屋根の下に居る、ただそれだけで心がざわめいた。あなた会えるのを秘かに期待する乙女心、あれは弘あなたに対する淡い淡い恋心だったのかな。そんな気持ちになれる境遇じゃなかったんだけどね。でもそれが思春期の私の数少ない救いだったかも…。
当時の若宮での事情、まだ幼かった神崎の家での尋常ではない忌まわしい私の生い立ちの経緯を知っている田口家の両親が、自分達の大事な大事な息子の弘樹。その恋愛相手が、よりによって、よもや私だとは考えも及ばないだろう…
私だって訪問した取引先の会社で弘あなたと再会するまでは、あなたの事はすっかり忘れていた。再会は懐かしかったけれど正直あまり嬉しくない。思い出したくない過去が甦り昔馴染みだけど出来れば会いたくない存在だった。弘あなたも…「昔、家に来ていた知ってる女、興味があって話してみたい」それだけの事だったと思うわ…。 そう言う私が、何処でどう狂ったのか、会って会話を重ねるたびに…私、今まで会った事のない素敵な男性に見え、弘あなたの魅力に魅かれた。あなたが愛おしくてたまらなくなって行く。そんな感情を私はどうする事も出来なくなってしまった。
これ以上好きになっちゃいけない。あんな男、他にもいる。何でよりによって、今あなたなの。そう思いながらも心の底では「弘あなたが悪い、こんな私に優しくするからだよ」そう言って、あなたの胸で甘えてみたい。そんな衝動にさえ駆られる…私、変になったのかなー。
今では「あなたか好き」って大声で叫びたいぐらい好き…どうしようもなく好き。私どうしたらいいの、教えて「あなたが見せてくれる、その優しさは本物」私の事が好きだから、そう思うのは私の思い上がりかなーその優しさが本物なら言ってほしいの「お前が好きだよ」って言ってくれないなら私の方から先に言いたいぐらいなのよ「あなたか好き」って…でも言えない言ったら…あなたに嫌われるかもしれない。あぁそう思い出すと怖い…。
弘あなたに会う前の私なら考えられない。そんなに弱い女じゃない筈。これが、本気で恋をした私も男に弱い普通の女と言う事か。弘、悔しいけれど今の私は、あなたと会っている時が一番幸せなの…何もしなくてもいい、ただ会うだけでも心は浮かれる。でもお互いに仕事の都合で中々会えない、久しぶりに会う事が出来て楽しい時を過ごしても離れたくない気持ちを振り切るのが辛い。それに私達まだ昔馴染みの関係から一歩も前進していない「弘あなたは私の気持ち…分かっている筈なのに…なぜ」そう思いながら、もやもやした気分で日々過ごしている。今度の休日に夕食を一緒にする事になった。
おそらく「今までと同じパターンだろうな」と思いながら出かけた。いつものようにレストランで食事をして宵の街に散歩に出たの、腕を組んだ歩いた。少し歩いた時「私、あなたとこうしているのが一番幸せ」そう自然に言葉が出たの。そうしたらね、ようやく、ようやくよ、弘がさりげなく言ってくれた「俺も彩の事好きなんだ。近頃、彩の事が忘れられなくてね」って、今か今かと待ちに待った言葉。そしてね、そうしてね……私を見詰めて「彩は」って優しく尋ねてくるんだ。これって夢じゃないよね。私、嬉しくて…でも一生懸命平静を装って「私も、弘あなたが好きよ」そう答えたら、いつの間にか肩を抱かれていた。
心の中は動揺冷めやらず上の空みたい。十代の小娘じゃあるまいし、こんなこと初めてでもない。なのに、こんなに嬉しくて動揺するなんて…おかしい、私自身そう思いながらも「弘あなただからだよね」心のなかでそう呟いていた。そして一週間後の連休に会う約束をして別れた。私マンションに帰っても、まだ嬉しさで眼がうるる。決してオーバーじゃない、シャワー浴びて人心地ついた。その夜はルンルンで寝付かれず、少しうとうとしたら朝が来ていた。
一週間と言う日々はあっという間に過ぎた。ホテルのレストランでの食事に誘われている。今までもホテルのレストランは仕事で男の人と二人で食事をした事もある。でも今日はいつもと違う。弘あなたと二人の食事、嬉しくて…ちょっぴり…想像…ううん何でもない。朝からそわそわ落ち着かず、お昼過ぎからシャワーを浴び色々入念にチェック。時間が早い、ちょっと化粧が濃い目になっちゃったかな…またやり直し。何を着て行こう洋服選び、なかなか決まらない、下着から上着まで時間がかかる「何やってんの」って私が私に言う。
ようやく決めて…さぁ、これでいいかな、鏡に映る自分を見る。我ながらさりげないおしゃれ。男の人に誘われ食事なんて慣れているつもりだったけど何だか落ち着かず、そわそわしている私…おかしい、こんなにときめくなんて何年ぶりかしら、たぶん二十歳の頃一度あったかなーまるで初夜を迎える前の娘みたい、ちょっと例えが厚かましいか。
でも本当に久しぶり、今日は弘あなたの顔を見たら胸いっぱいで、お食事できるかしらって心配してたの。だけど、あなたに会って、あなたと話しているうちに楽しい食事になっちゃった。食事を終えて静かな場所で音楽聴きながら二人でお酒頂いたの。弘あなたって優しいムードミュージックに誘われてダンスあなたの体と私の体が密着して聞こえるのは甘いミュージックそれにあなたの吐息、その他の音は耳に入ってこない。
男の人って女の子を誘いお酒飲んでいいムード、次の事考えているよね。曲の合間にボックス席に…あなたと私。うっ…あっ!あなたの唇が私の唇に触れる。あぁ…私あなたの動きに合わせてる。しかも積極的に、うぁー。私もうどうなってもいい、あなたと私の唇が離れて、あなたに肩を抱かれていた。このままずぅーと、こうしていたい…そう思っていると、あなたは時計を見ている。耳の上で囁く声がする「今日は帰ろうね、送って行くよ」えっ!帰るの?予想外?私反射的に反応してあなたの体に一層密着した。
私の乳房があなたの絡んだ腕に触れる。あなたに気付かれたかしら、そっとあなたの顔を窺う、でも私が驚いた顔したみたいで、あなたは戸惑った様子「どうしたの嫌なの」絡んだ手にあなたの優しい力が加わった。私は首を横に振った。そしてあなたの手を優しく握り返した。うふふ…そうかそうだよね。
あなた私の子供の頃しか知らないんだ…私のその後の事は。うん知ってる訳ない今の私ってあなたの考えてるよりエッチな女かも。ふと男の感触が甦るドキッとして弾む気持ちを打ち消してあなたと一緒に外に出る。街はすっかり夜、火照った体に街路樹を揺らす風が気持ちいい街の綺麗なイルミネーションに救われてあなたの絡んだ手に一層寄り添う。タクシーに乗ってあなたの肩に私の長い髪をあずけるあなたの唇の感触が残る唇を髪が撫でる車内に居た時間はあっという間タクシーがビルの前で止まった。
私の私だけの部屋のあるマンション止まったタクシーの中で私、私自身信じられない言葉をとっさに言ってしまった「ねー寄って行く」と大胆にも私から誘惑した。でもあなたは優しい目で淡々と「今日は帰るよ、酔ったみたいだね部屋まで送って行こうか」そう言うあなたの頬に唇をあてて精一杯の愛情表現「なら、此処でいい」って一寸拗ねた言い方で、気恥ずかしさを隠し逃げるようにタクシーを下りた。振り向かずマンションの中に入る。後ろで車の去って行く音が聞こえる私の気持ちは去って行く音を追いかけているのが分かった。
少しお酒に酔った足で歩いたせいか、それとも…あなたの残り香によっているのか部屋に入りドアを閉め、そのドアに背をもたれ高鳴る鼓動の鎮まりを待つ僅かな時間が長いベッドまで辿りつき倒れるように寝転んだ。私そのまま少しの間うとうとしたみたい起き上ったけれど頭がボーとしてる着の身着のままの私、裸になってシャワーを浴びにお風呂場へ、そしてぬる目のお湯を体にかけるあなたの触れた痕が火照っているような気がする体を拭いてバスタオル巻いてお風呂場を出る徐々に頭が冴えて来ている私、鏡の前に座った。
ふむー(素っぴん)だけど見れるこの顔。鏡を眺めながらそこに置いていたケータイを取った何の気なしに取った訳ではない着信を確かめる為に、もちろん私と別れた後に弘あなたから何かメッセージが届いていないかなーなんて淡い期待なんかしちゃって、ある訳ないよね向こうだって疲れたろうし明日はゴルフだと言ってたし私と同じように帰ってバタンキュウでそのまま眠ったに違いない。でも一言でいいメッセージをくれたら嬉しかったのにな。つらつら頭に浮かぶのは弘あなたの事ばかりそのまま眠ることなく朝を迎えた。
あなたの昨夜の優しさが甦り心が体が弘あなたのこと恋しがってる。こんなにもあなたが好きなの、あなたが今の私のせつない気持ち知ったら「しつこい」って言うかな、そう思いつつも「何か一つでもいいあなたと繋がっている証しが欲しい」これって私の我が儘あんな半端な別れ方をしたから余計一言のメール着信期待した。
思いの募る私は今鏡の中に居る、まだ興奮冷めやらぬって感じの私、眼に涙いっぱい浮かべて「あなた」と呟いている。これまでこんな変な思いになった事ない私初めてベッドに戻って仰向け…天井を見ながら暫く気持ちを落ち着ける。そしてやる事やらなきゃって気分になって起きる起きて掃除洗濯しながら思い出す「あなた私の事、好きだと言ってくれた」私、頭の中で何度も繰り返した。あなたの事が私の心の中を色んな形で駆け巡り長いのか短いのかこれまで経験した事のない一日が終わった。明日からまた通常の生活に戻る。
あれから二日が経った相変わらずあなたが頭から離れないあなたからは(なしのつぶて)もう少し連絡くれてもいいのにあなたの意地悪、四日が経ち五日が経ち私から連絡が取れない仕事か忙しいのは分かるけど…気付かないのかなーそんな訳ない。
あぁ私もう駄目だよーいろんな想像しちゃう誰にでも優しいあなた、まさか…他の女の人と一緒に居る、なんてダメダメ私想像で嫉妬してる影すら見えない女に嫉妬してる私おかしいよーこんな私の心の中が全部見えたら、たぶん男の人って私の前から逃げ出すんだろうな嫌な女でも私信じてる私に優しいあなたを、何かの手違いで連絡が取れないだけだよ。そうよそうに決まってる「あなたを信じて連絡待つ事にしよう」っと余裕よ何ちゃって考えてもそれ以外できないもんね少し気楽になりながらもあれこれ悶々としているうちに眠ってしまうと言う一人の夜が続く考えて見れば元々独り暮らしのマンションこれが当り前だった。
いくら恋をしても弘あなたと再会するまではこんな気持ちになった事ないのに「これって恋狂い」ふふふふ、睡眠とって朝が来て起きる毎日何もないような顔をして通勤して行く。そしてあなたに会った夜から何日が経っただろうかいつものように朝起きてケータイ見る。あっ着信している「忙しかった、ごめんよ」だってただ面倒なかっただけだろうって気もするけどまぁいいっか。朝の窓はもうすぐ明るくなる窓と共に気分も明るくなって行く何となく窓を開けたい気分その前にシャワーを浴びた湯上り着をまとい風に当たる久しぶりに気持ちのいい朝。
今日の休日はお昼のランチ友達に会って一緒にする事になっているもちろん女の子、雑誌社に勤めてる大山恵子って言う同い年の今一番仲のいい友達、いつも行くイタリアンレストランで待ち合わせた。御食事しながらのお喋りそれでつい口が滑ってと言いたいけれど本心は恵子に弘あなたって本当の恋人が出来た事を知らせたい気持ちでいっぱいだった。
どんな反応するだろ一応あなたの事を恵子に話したそしたら恵子は「へぇーそれで彼の言葉を彩は信じてるって訳」そして上目づかいに悪戯っぽく口元に笑みを浮かべ私の顔を覗いた。学生時代からの悪友だから彼女がこういう顔をする時は、何か良からぬ事を言う前兆なのだ「見栄えのいい男の中の男って感じの男性にも中には居るんだって」何となく何を言いたいか分かったけど私わざと「何よそれ」そう言った。
「だってさ女性の彩によそれだけ気をもたせるだけ持たせてその気にさせながら…さよならって何よそんなのあり」…私が今下手なことを行って弘との本気の恋に水を差され余計な事を言われそうなので黙って聞く事にした。「それにその言い訳なぁに(明日は接待ゴルフに行くから)そんなの口実よ別にその気があればセックスしたっていいじゃん返ってその方がスッキリしてゴルフだってうまく行くんじゃない」恵子はコーヒーで咽喉を潤した。「そこまで言うか」今までの私ならこんな返事はしなかったと思う一緒になって面白おかしく話していたかな、でも弘あなたの事は言いたくない。
「彩がその男性を焦らすんなら分かるわよ。男盛りの独身の男が女の彩が本気でその気になっているのを知ってて焦らすなんて信じられない。もしかしたらもしかするぞこれは…うん」何を一人で納得してるのこの人、まぁ今の恵子の頭の中は分かってるけど、わざと聞く「もしかしたらって何よ」私憮然とした顔で恵子を見た。
「やーめたしかしそれだけ彩を夢中にさせる男性ってどんな人だろう一度会ってみたい」また私を覗く好奇心旺盛でズバっと物言う親友と言うか悪友と言うかこの恵子私と似てるような複雑な気分。まぁどっちもどっちか一言二言多いけど、それが許せて私のストレス発散するには一番いい話し相手みたい。
話してて楽しいだからかなー唯一長く続いている女友達ううぅんだからと言って全部が全部話してる訳じゃないわお互い…お昼食べてぶらぶらウインドショッピング別れ際に恵子ったら「実はね彩今晩私も彼氏に会うのこれから帰って下から上まで彼を必死にさせるおめかしよ」そう言ったあっけにとられてる私の肩をポンとたたいて「彩も頑張るのよーぉ」と彩と恵子だから通じる卑猥な言い方を残して恵子ったらせっかちもう街の人込みの中に消えて行く。
弘あなたに会ってからまだそんなに長いと言うほど経ってはいないんだけど、もう長いこと会ってないような気がする。暇になると何時もあなたの事考えてる連絡が来るのを待ってる私…弘あなたが恋しい…
数日が過ぎもやもや落ち着かないそんな時着メロが鳴るケータイ見るうわぁー着た。弘あなたからだ私あなたの声聞いたら涙が出てきた私泣いちゃった泣きながらケータイ持つ手が揺れる「何で何でメールしても通話しても音信不通…何で声を聞かせてくれないのこんなに待っているのに」泣き声が通じ「ごめんごめん…泣いてるの」本当にすまないって感じだけど私今まで溜まってた気持ちが口を衝いて出てくる。
「私の事なんか忘れていたのよね」「そうじゃないよとにかく忙しくてさ」「知らないわよ忙しいなら忙しいで一言でいいから連絡くれたら私心配しないわ」語気を強めて言った「そうかそうか、そうすべきだったね」「何も知らされずにずぅーと待っていた私が馬鹿でした」拗ねて言った言葉に「怒るなよごめん悪かったようやく大仕事か一段落したんでこれからは時間が取れると思うから埋め合わせするよ絶対にだからきげん直してよ」「そうやって全部仕事のせいにするんだから知らない!」弘あなたの声を聞いただけで嬉しくて、その後会う約束をした。
今度会う約束の場所は海岸の近くに最近できた高層ホテル「シーサイド雅」だって凄い、でもね男が大仕事してたんだから女の事なんて構っていられないそれが当然だ。あなたはそんなふうに考えてはいないと思うけど私の事が好きだったらお仕事の前に「これから仕事が忙しい終わるまで待ってほしい」それぐらいの事は前もって知らせてほしかった。それだけが残念だけどまぁ許してあげる。
私あなたに誘われた連絡してくれたのも嬉しい会う約束をしてくれたのも嬉しい。だけど何故か手放しで喜んでいいものやら分からなくなってきている、前みたいに浮き浮き気分じゃない。このまま弘あなたを愛して離れなくなっていいんだろうか、元々愛しちゃいけないと言い聞かせてきた人じゃない今まで浮かれ過ぎていたんじゃないか今ならまだ間に合う別れるなら今かも胸がジーンとなって涙が出そうになる。
ケータイ見てたら自然に恵子の名を押していた「もしもし恵子、私どうしたらいい」ケータイの中から明るい恵子の声が心に沁みた「馬鹿だなー彩らしくないぞ。今までの彩は何処へ行った! しっかりしろ何を躊躇してるの彩は本当に好きなんだろ。だったら彼の胸に飛び込むしかないじゃない。ぼやぼやしてたらいい男みたいだから私が盗っちゃうよ、うふふ」「駄目だよそんな恵子」恵子の御蔭で気楽になった。私気楽になったとはいえまだわだかまりがスッキリ取れた訳ではないでも私…弘あなたに会いたい会いたくてたまらない弘あなたが本当に好きなんだもの…
約束の日が来た。会うのは新しくできた高層ビルのホテル。私シャワーを浴び着替えを済ませてマンションの前に出て待つ事に風に髪が少し揺れる私の気持ちと同じように、心の中をすべてからにして今はただ弘あなたを待つ車が私の前にすぅーと止まった。弘あなたが運転席に居る私あなたの横の助手席でシートベルトをする。あっ!あなたの手が手が伸びて私の私の手を取って優しく「ごめん彩ゆるしてくれる」私もう駄目。にっこり笑んであなたの男らしい指を握り返した。
あれだけ色々悩んだのにあなたの優しい一言で今はとっても幸せ気分。自分でもなんだかおかしい車は海辺を走っている。そして「シーサイド雅」へあなたが優しくエスコートしてくれる。前評判通り立派なホテルフロントでチェックインして、あぁ私もう胸がドキドキしてる。何なのかしらこの期に及んでよぎる不安、原因は分かっている。 社会人になってからは公私共に、どんな事が起こっても動じる事なく生きてきた。
弘に再会して弘あなたか好きで好きで好きでどうしようもなくなった。ううん…今も私あなたに夢中なの弘が私の様子を見て「どうしたの怖い」って聞かれちゃったあなたに分かってしまった。私の心の動き、う~んあなたの聞いた怖いと、私の不安とは全然違うような気がするけど、まァどっちでもいいや。
それにしてもあなたってとっても慣れているこうやって何人の女性を泣かせたのかな。お部屋に入るとっても素敵なお部屋、窓の外に街や海が見える。その上に広がる徐々に暮れゆく空。増してくる街の明かり。光るワイングラスに注がれたワイン。私よもやと思って想像していた、部屋に入るなりいきなりなんてのも、ありかななんて事も、だけどあなたムード作りもとっても上手私少し酔ったみたい。私、窓際まで夜景を見に行く。
とっても綺麗な夜景、あっあぁ…あなたが私の背後からそっと抱きしめて耳元で囁く、囁きと共に息が頬をつたう…私のあずけた体を支えながら、あなたの唇が首筋に這う息が肩をかすめてお乳に触れる。眼を瞑ってあなたになされるがまま体を返され眼と眼が会った。すぐに眼を閉じた私、私のあずけた体、体が宙に浮いてあなたの唇が私の唇を奪う、私もあなたの唇を求める。私の背中からあなたの腕が手が下へと向かう。唇が離れ私あなたに抱えあげられベッドへ…あぁ私の下着が剥がされている。あぁもう喘ぐ吐息が漏れる私たち、もう裸の男と女絡んで揺れる……
あの日のホテル「シーサイド雅」以後もあなたとの関係続いてる。何時もあんな所でって訳には行かない。あれは弘あなたが、私との初めての夜の為の優しい心遣い。あれからは何時も私の部屋。私も三十の今まで色んな男性とお付き合いはしたけれど、私の部屋には誰も入れなかった。私の部屋に入った男性は、弘あなたが初めてよ。
いくら遊んでもこの部屋にだけは絶対に入れなかった。弘あなたが私の部屋に通うようになって私の手料理を、喜んで食べてくれる。私も嬉しくて一生懸命に作った。夜いつものように抱かれた時「彩結婚しようか」そう言ってくれた。私もあなたと過ごす一日は、もしも結婚できたらいつもこんな感じかな、なんて思っていた。だから素直に頷いていた翌朝あなたが帰った後、ちょっぴり後悔した。
本当はあなたとの結婚なんて考えちゃいけないのにね。それから半年が経った頃だった。「彩俺達のこれから暮らすのにちょうどいいマンション見つけたよ」気の早いと思ったけど言わなかった。そんな事しても、あなたのお家の人達が気になって「私達の事許してもらえるの」と聞いてみる。「そんな事今気しなくてもいいよ」そう言って私を抱きしめる。抱きしめられてあなたの鼓動を聞く、抱きしめられると私ダメなの。あなたはちゃんと考えているんだよね。それからはもう聞くのが悪い気がして聞けなくなった。本当は私聞くのが怖かった。
決してすんなり行くとは思えない、あなたとの結婚。本来物事に動じない私が、真正面から向き合わなければと思うけれど、躊躇していつもの私じゃなくなる。そうこうするうちに月日だけが過ぎて行く、あなたは結婚の事は言わなくなったその代わり「此処が二人のスイートホーム」と言って新しく見つけたと言うマンションに連れて行ってくれた。
そこまで考えてくれているんだと思うと嬉しかった。そしてもう「許してもらえるの」とは聞けなくなる。もしも弘あなたが「お家の人に反対されて困っている」のなら無理して聞かなくてもいい、そう思う事にした。そうすれば結婚しなくても、このままの状態でも会っていられればそれでいい。私もうあなた無しのこれからの人生なんて考えられない。弘あなたと再び巡り会って私、身も心も変った。
今までの私は「結婚して普通の家庭を」なんて考える前に諦めていたそれが「もしかしたら結婚を」なんてちょっぴり考えている私は私の生い立ちから考えて普通の幸せなんて私には無縁だと思っていた
私は幼かったけれどもう物心の着いた小学校に上がる直前の幼稚園児。両親が何処かに蒸発私は捨てられたのだ。それから遠い親戚の小母の許へに預けられた。
その時の忌まわしい事実から逃れようたって離れる事なんて出来ゃしない。私に一生ついて回る私に何の罪があるって言うの、すべて周りの思惑で翻弄されている。そう思って今まで虚勢を張って生きてきた。弘あなたと付き合うようになって、あなたに愛され、私は愛する事に目覚め、虚勢を張って生きる、それって間違っているように思えてきた。
両親に捨てられたと言う事を覗けば…育ての母親の良子が居るじゃない、母良子との生活は幸せだった。辛い別れはしたけれど我が子以上に、母の良子は私に愛してくれた。それなのに私は素直になれずにいた。だけど今は素直になれる。気付くのが、少し遅かったかなって感じだけどね。思い出したの愛する人の傍に居る事が、どんなに幸せか。私は今、あなたと居ると幸せ感じさせてくれる。だからあなたとの幸せ、このまま続けたい。愛されていたい。あなたと幸せ感じる日々が続く時、ふぅーっと父の出て行った頃の幼い私が甦る。
誰もいなくなってガランとした神崎の表札がかかった家、中に父親の俊夫に置き去りにされ一人になった私、陽が落ちて薄暗くなって行く家の隅に一人うずくまっていた。私はただだ恐怖におののきながら、なすすべもなかった。弟俊夫の失踪を知った伯父の神崎泰司が真っ先に駆けつけてきた「どうなってんだこの家は、八重子が間男を作って駆け落ち、一族皆に大恥をかかせたと思ったら、今度は俊夫まで」泰司は憤懣やるかたない様子で、吐き捨てるように言った。伯父の泰司は恐怖におののいている私の前に座った。
涙目の笑顔で「彩すまないなー本当は伯父ちゃんの所で引き取ってやるのが本当だろうが、伯父ちゃんの所にも事情があってなー」私また置き去りにされると思った。伯父は続けた「遠い親戚筋に若宮と言って今一人暮らしの小母さんが居る、その小母さんが彩を引き取りたいと言っている。彩これから小母さんの所に行こうか」私は言われるままに、伯父について行くしかなかった。泰司に若宮良子と言う人の所に連れて行かれて初めて見た小母と言う人は女盛りの綺麗な人だった。
私は母の八重子が男と駆け落ちして家に居なくなっても、まだ大好きな父の俊夫が家に居てくたので救いがあった。その頼みの綱だった父の俊夫に置きざりにされたと知った時、なすすべもなく幼心にしを感じさせ恐怖で言葉を失っていた。そんな私に小母の良子はニコニコしながら迎えてくれた。私は何を言われても無表情で言葉も出ず無表情だった。
良子は表情もなく黙っている私に笑顔を絶やすことなく世話をしてくれた。ただ仕事をもっていたので昼間は近くの施設に預けられた。そこでは良子が事情を話、相談をしてあって出来るだけのケアを心がけてくれた。でも深く傷ついた私の心は癒えることなく不安でいっぱい、食事も喉を通らなくない状態で倒れて病院に運ばれた。
病院から帰った時、それまでニコニコ黙って見守っててくれていた良子が
「彩、小母ちゃんは彩が強い子だと思って黙って見てきた。小母ちゃんの思った通り強い子だったね」そう言って私を優しく抱きしめた。「よく今まで頑張ったね、辛かった…辛かったね、うん、小母ちゃんの前では安心して泣いてもいいんだよ…思いっきり。今日からは小母ちゃんの子供になるんだ…もう何も心配しなくてもいい。だから、ご飯をたくさん食べて元気にならなくっちゃね」小母は優しく抱きしめたまま頭を撫でてくれた。
初めて小母の胸で私は泣いた…泣きじゃくった。そして涙が乾いた私に「小母ちゃんも一人彩も一人。小母ちゃんは今まで一人で生きてきた。彩も強い子だから一人で生きて行けるようになるんだよ」そう言われ私、泣くのをやめ頷いた記憶がある。小母は私の行末を考え伯父の泰司と相談して私を養子縁組し私は神崎彩から若宮彩になった。そして小母の良子は名実ともに私の母となった。
後になって「父が失踪する前に彩は良子の所へ頼むと伯父泰司に託していた」と良子から知らされた。知らされた時に少し救われた気になったのを覚えている。良子は何事につけてもカッコ良かった。しかし万能な人間はこの世に居ないらしい、一応家の中は片付いている…料理も作るには作るがあまり得意ではないようだった。
私は幼心に何かお手伝いをしなければ「遠い親戚で養子縁組してくれたといえども義母良子は初めて会った人」幼い頭で考え、ありったけの気を使い良子に気に入られるように家事を覚え一生懸命手伝った。そして小学校の高学年になった頃には家での食事はほとんど私が作った。
そんな私が良子には健気に映ったのか何かにつけ「彩、彩」って可愛がってくれた。そんな日々の間に色んな勉強をさせてもらって良子との蜜月月は続いた。狭い難関を突破して有名大学に進学率の高い名門校に合格した時など我が事のように喜んでくれた。そんな良子の変化に気付いたのは高校二年の時だった。それまでも良子は綺麗ではあったけれど、その頃からメイクが変わって急に瑞々しい綺麗な女になって行った五十路の良子の恋。
相手は小坂礼二と言う人だった。母良子が産みの親であったら、嫌だと反抗したかもしれない、でも母の良子は私を拾って育ててくれた命の恩人「祝福してあげよう」そう思った。
小坂と言う人が度々家に来るようになって泊ってゆく回数が多くなった。高校三年の頃…慣れて来るにつれ良子の目の届かぬ場所で、私を見る小坂の視線が嫌らしくなって行くのを感じていた。そして次第にその視線が嫌らしくて耐えられないようになった。
良子に相談する訳にはいかないので困って同級生でとっても仲のいい奈美ちゃんに相談した。そしたら奈美ちゃんが少し考えて「じゃ、私の家においでよ」そう言ってくれた。私は今まで遊びには行って知ってはいるが、やっぱり遠慮や不安そして母良子の顔が浮かび頭の中を交錯し「でも」と躊躇した。「いいから、おいでよ。お母さんもお父さんも彩の事みんな知ってるし遠慮はいらないよ。狭いけど私の部屋で一緒に寝ればいい事だしね。それに一緒に勉強すると言えば誰も何にも言わないよ」そう奈美ちゃんに言われるままに甘える事にした。そして奈美ちゃんの両親も快く迎えてくれた。その時だったね弘あなたと初めて会ったのは…背が高くて何となく素敵だと思って、多感な私の胸が高鳴ったのを覚えている。
奈美ちゃんと勉強すると言って外泊する私に良子は何も言わなかった。大学には入学のが決まって若宮の家を出る事になる正直ホッとした。大学の所在地に良子は私を連れて行き大学の近くにワンルームマンションを借りてくれた。送るのに大変なベッドや布団なども色々購入してもらい後は、身の回りの物を送るだけにした。
三月半ばのよく晴れた午後は、窓越しの太陽は温かかった。気分もよく身の周りの荷づくりに精出している私、そこに小坂が入って来た。危険を感じた私は振り向く…母良子の愛人小坂は、笑みを浮かべより一層いやらしい視線で見ている「出て行ってくれませんか」思い切って私は言った。小坂は「彩ちゃん、そんなに嫌がらなくてるいいじゃないか」そう言いながら私のすぐ後ろに腰を落とす「彩ちゃんにも会えなくなるなー」小坂が私の髪を撫でる「嫌ぁー止めて!お母さん呼ぶよ」外に聞こえるように私は、思いっきり大声を出して手を振り払おうとした。 小坂は肩に手を掛けて手に力を入れ私を押しつぶすようにして「お母さんは出掛けた。買物だって」そう言って顔に薄ら笑いを浮かべていた「嘘っ…」私は立ちあがって逃げようとするが腰砕け、押し倒されて必死に抵抗し揉み合って力尽きようとしていた。その時母の良子が入ってきた。振り返った小坂の力が抜けた隙に小坂を撥ね退け私は立ちあがった。衣服の乱れを直している私に、良子は近づき私の頬をぶった。そして良子は小坂の方に振り向き「あなた、向こうへ行ってて早く!」叫んだ。
びっくりして座ったまま見ていた小坂は良子の叫びに立ちあがってすごすごと出て行った。良子が私に手を挙げたのは、最初で最後私の生涯で一度の事だった。何故私がぶたれなきゃならないのか分からない心の中で「私が悪いんじゃない」そう叫んだ。良子は私を見ることなく横を向いて両手をだらりと下げたまま胸の辺りで呼吸が乱れていた「彩…この家から出て行ってちょうだい、すぐに仕度してマンションの方に行ってちょうだい。用意してある荷物も、まだ残っている物も一緒に、ちゃんと送るから」その時は母良子の本当の気持ちは分からなかった。
すぐに着替え家を出て最寄りの駅から列車に乗ってた私は、口の中で「彩は悪くない」そう言い続けていた。その時は母の良子が理不尽だと思い詰めていた。
私の産みの母、八重子は家庭を捨てて駆け落ちした。母親を放棄した私には憎しみの対象でしかない。それに引き換え私を育ててくれた母の良子はキャリアウーマンで私には、この母良子が眩しいほど輝いて見えていた。物事が適格に判断が出来て何時も理性を失わない人だと思っていた。私は良し悪しは分からないけれど小坂の出来事が起こって以来、母良子もやっぱり「女は女でしかないのか」って感じ、それは別として私をこれまで育てて大学まで入れるようにしてくれたのは母良子だ。感謝する以外の何者でもない。只それさえも抹殺してしまうほどの小坂の行為だった。
目的のこれから住むマンションに着いた。この部屋にあるのは当初購入した真新しいベッドと布団だけが目立って浮いている、送って来る筈の荷物はなく殺風景だ。フローリングの床にペタンと座った。まだようやく春の気配を感じる季節になったばかり住む住人のいない夜、部屋の床は冷たかった。私はふ―吐息を吐いて寝転ぶ私の今には、この殺風景さや床の冷たさは心地いい、一切の束縛から解放された心持になった。
三日後に母の良子が送ってくれた私の荷物が届いた。その荷物の中に母の良子のメッセージが一緒に入っていた。要約すると「これから四年間入った大医学を卒業するまでは、学費も生活費も一切面倒見る。彩がこれから四年間どのように過ごそうと口は出さないが四年後に、きちんと自立できるようにしなさい」と言う事だった。その他の感傷的な事には一切触れてない、これが母良子の良子らしい別れ方かもしれないと私は思った。
私は「あと四年で自立」その言葉だけは胸にきっちりと収めた。それが今まで普通の親でさえできないような何不自由なく育ててくれた母の良子の教えだと理解した。その他の事はまだ割り切って考えられないで混乱しながらも目先の大学入学の手続きや準備に追われた。
私は学生生活にも慣れた。独り暮らしは過去の呪縛から解放された気分にさせた。それでも母の良子の言いつけだけは忘れることなく四年間で自分のやりたい仕事を見つけた。会社に入り社会に出た。その間、若宮の家に帰る事もなく母の良子とは、就職先が決まった時、小坂に居場所を知られないように恐る恐る公衆電話で電話口の人物が母の良子であるのを確かめ連絡をした「そう、それは良かったね。これからも彩の思い通り頑張ってくれたら言う事はないから…色んな事を乗り越えて大人に育ってくれたね。ありがとう彩…」そう言って母は送り出してくれた。あのワンルームに着の身着のまま出てきたときからも母の良子と顔を合わせる事はなかった。
会いたくない事はなかったけれど、その前に小坂の顔が浮かんで会う気になれなかった。母は母で思う所あっての事だろう遠くで見守っていたくれた。やがて今居るマンションに引っ越した。
これで幼いころから高校時代までの忌まわしい過去とは、おさらばだと思った。仕事を人一倍した後の時間を若さに任せて親友の恵子と遊んだ。仕事が遊びが、どんなにきつくても私の私だけのマンションに帰って休めば翌朝は、すがすがしい気分で会社に行った。
仕事も面白い、遊びも面白い、時々恵子と出かける合コンそこで出会った男との一歩間違えばすべてが吹っ飛ぶリスクのある遊びもした。その頃、私たちが遊んでいる事に薄々気づいた男が居た、私の上司の笹井恒夫だ。笹井は私が恵子と会社に居る所を見ていた。居酒屋に誘われついて行ったその時「そんな事していたら駄目だよ」と私と恵子に忠告した。笹井はその時歳は三十過ぎの独身だった。笹井が話している間、優しい話の端々に男の本性を垣間見せる。恵子も私も額面通りに信じずに面白がって聞いていた。とは言え笹井は私の直近の上司話す機会も多く無意識のうちに笹井に優しくされ笹井に好感を持つようになり笹井のペースにハマった。笹井の飲み会に恵子と一緒に誘われてたが恵子は急用で来られなくなった。私も止めようと断ったが顔を潰さないでくれと懇願されてついて行った。
飲み会の後二人で飲み執拗に口説かれそのままラブホで…抱かれた。私にとって笹井も私の体をと通り過ぎて行った男の一人であってそれ以上でもなければそれ以下でもない。もしも世間の人が知ったら「そんな女の気がしれない」と非難するだろう。その頃の私は仕事に夢中になればなるほど、ふぅーと襲ってくる心にポッカリ開く空洞を埋めてくれれば、それがたとえ偽りの優しさでもよかったのだ。
それは決して後味の良いものではない、好きになっては別れ、好きになっては別れを繰り返す私は、いつの日か私を捨て男を作って家を出た実の母親の所為にしていた「私も、あの母の血が流れているんだ」と八重子への憎しみに変えていた。
笹井に資産家の婚約者が居る事が明確になった時も強がりでなく驚かなかった。私は特に感慨もなく会社を辞めて行く笹井を見送った。久々の休日に一人になって心身共に体を休める。そんな時にテレビ新聞や雑誌などで幼子の虐待、それにレイプなどの事件を目の当たりにすると敏感に反応してしまう。そして日常は皆無と言っていい絶対に見せる事のない私の暗くて悲しい顔がのぞく。
いくら年月が経とうと親に置き去りにされた恐怖がフラッシュバックしてくる。嫌な思い出が次々思い出され、居たたまれなくなって逃げ場を探す。そんな時に私の心に現れてくるのは「この子を、どうしても一人で生きて行けるようにしてやらなければ」と育ててくれた母良子の優しい笑顔だった。
初めて抱かれて聞いた「彩は強い子だから…」その言葉は、今も心の中にセピア色になってハッキリ残っている。こんな時は、抱きしめて命を救ってくれた母に会いたくなるけれど、なぜか二の足を踏んで思いとどまるのだった。
懐かしい憧れと淡い恋心を抱いた人、その人が十数年の歳月を経て私の眼の前に居る。その弘あなたを愛してしまった。あなたの両親、田口家の人々にすんなり受け入れられる事のない弘あなたと私の愛。それでもあなたは「結婚しよう」そう言ってくれた。嬉しい、でもこれから先の事を考えると浮かれられない私。あなたが私の部屋に来て、その夜に抱きあってお互いのから他を求め合っている時は全てを忘れさせてくれる。
あなたの帰った後一抹の不安と同時に思い出す。両親に捨てられた私、若宮の家で起こった養母の愛人、小坂との事「すべて私は悪くない」そう私は言い続ける。それは他人には格好の話題で面白おかしい事なのだ。そんな私が対面を重んじる田口家の一人息子、弘樹と離れられなくなるほど愛し合うなんて、全ての経緯を知りながら彩と弘樹を引き会わせるなんて神様の悪戯としか思えない。
海辺のホテル「シーサイド雅」で結ばれた弘と私の二人、それ以来もう身も心も離れられなくなっている。私は二人の愛さえあれば容易に一緒になれるとは思わないけれども、こんなに辛いとは「私達の結婚を田口のお父さんやお母さんの多津子さんが許してくれるの」とあなたに聞いてみる。あなたはその話になると口を噤み話をはぐらかす。たぶん弘あなたも辛いのよね、独りでひたすら黙ってじっと耐えているような気がする。
私にも少しは話してくれれば、私もあなたも気持が楽になるかも、なんて私は安直に思った。でも…何とか親御さんに私との結婚を認めてもらおうと親と私の間に立っているんだから私に打ち分けるなんて出来る訳ない、少し考えれば分かる事、ごめんね…弘。その後も悶々とした気持ちの長い日々が続いた。
明日は二人の休日、私今夜あなたに抱かれる。男盛り女盛りの男と女、抱えた行く先の不安が、ほとばしる欲望になって、より強くより激しく体を求めて燃えあがる。そして…あなたの腕の中で暫く余韻に浸る私、その時、弘あなたの弱々しい声が聞こえた「彩、俺達もう結婚するって親に言おうと思う」「えっ」私体を少し起こしてあなたの顔を窺う。
待っていたけれど長い苦しい時が流れ、もう諦めにも似た気持ちが渦巻いていたのも事実「妹に知られた。親も知っていると思う。…それから奈美に叱られたよ。兄貴、早く何とかしろよ、そんな大事な事どっちにしても、このままずるずるしてちゃいけないと、彩の気持ちになれよ…ってね」「奈美ちゃんが!」本当ならもう一度あなたに抱きついて喜びを表してもオーバーじゃないのにできなかった。「彩もいつかはこの日が来ると思っていたと思うけど」そう言う弘、何気なく「奈美ちゃんどうして知ったのかなー」と言った私。言った後「しまった」とすぐ気付いた。弘あなたが奈美ちゃんの力を借りたくて話したのね…おそらく…今まで一人で説得しようとしてたのね「弘、ありがとう」と小声を出した。それに応えるでもなく「やっぱり奈美より先に俺が言いだすべきだったね、ごめんよ彩…」私首を横に振って「ううん、そんな事ない嬉しい」そう言って、あなたに軽くしがみついた。あなたの腕に力が入るのが分かった。お互いに意思表示をして確認し合ったような気がした。
弘あなたが帰ってからも不安な気持ちが執拗に襲う、弘のお母さん多津子小母さんの顔が頭を過ぎる。そりゃぁ私奈美ちゃんとは仲良しの同級生だった。無理言って泊らせてもらっていた。その時は「よく来たね」って何時も優しく迎えてくれた。まだ子供そして「複雑な育ちでかわいそうだから」そう思って同情してくれていた。それに甘えていただけ、そんな私が、弘あなたと「結婚したい」なんて言ったら、とんでもない事になるわ…きっと。あーぁ次から、次から…こんな取り越し苦労したくない。
開き直りたい「二人がよけりゃそれでいいじゃない」ってこのまま入籍して、あなたが用意したマンションで二人一緒に暮らせば立派な夫婦じゃない。いっその事そうしてしまいたい、でもそれを言っちゃいけないのよね。
着メロが鳴ってケータイ見ると恵子だった。そして会う事にした。今落ち込んでいる私には一番いい話し相手、二人の会話は同年代の興味ある事、私は今弘あなたと一緒になれるかなれないかの瀬戸際に追い込まれているような気がしている。その事で頭はいっぱい、だから恵子の男談義をぼんやり聞いていた。
「彩、どうしたの元気ないじゃん」「でもないけど、あなたの方はどうなの」私、彼女の方へ話を振ってみる。この前のデートの話も興味あったし「私、私ねー…あの男どう言うんだろう、彩と彼みたいにラブラブじゃない?しなー二人とも楽しんでるって感じかな…二人とも適当に遊んでるって感じだよね。…うん」何時もの通りセックスを楽しんでいるみたい「新しい彼と、気楽に楽しんでるって訳…」「そうだよ、人生…楽しまなきゃ。
彩も前はそうだったじゃん」そう本当の事をズバリ言われ、言い知れぬ嫌悪感を覚え「もう昔の話は、よそうよ」そう言った「ふふふ、本命の彼氏が出来て、もう卒業って訳…ふふ。あっそうだ、この前、彩の彼に会ったよ。イケてる、イケてるぅー私、ふらふらっと…なんちゃって、嘘だよ。会ったのは事実だけど」「うっそぉー…またまた悪い冗談を」「彼に首ったけの彩に嘘なんか言わないよ」「会ったの本当に?」「うん偶然、偶然。しかし世の中、広いようで狭いね。この人の多い中、不思議だねー」「何所で」「仕事、仕事でさ建築関係の取材。その相手…?…なによ、その顔。クスクス(笑)心配しなさんなって、これからも会うけど彩の大事な、大事な男を盗るほど、こっちも不自由してないから…ぷっハハハハ」「何も、そんなこと言ってないよ…笑うな!」と言ってみたものの、この人(女)なら…と、ふと頭をよぎった。
「彩、気になるんでしょう私が彼に会った事が…」私、見透かされている「いいや、全然…私、彼の事を信じてるもん」「そうだよなー、彩も彼と結婚するんだもんね…で、その後どうなってんの」会う前は、色々話して発散し、気分転換しようと思って出てきたけど、話がここまで来ると例え恵子といえどもうかつには言えない。
「うん、まあ色々あるし結婚できればいいな、とは思っているのんだけど…」「だって二人はラブラブなのに?あっそうか、彼の親か問題は「まだ、そこまではって…ところかな」私が困っているように察した恵子は「彩、先に子供を作っちゃえ」この人無茶苦茶。でも私、頭の隅では…恵子とはショッピング街で別れて帰った。翌日の私は、昨日恵子と話したせいか気分が軽かった。
私、職場でこの頃時々言われる。綺麗だって…今日も私を慕っている入社間もない若い男の子から言われた「チーフ今日は綺麗っすね」「こら!今日はですか…言葉には気をつけよぉーさぁ仕事、仕事」「すんません、今日も…でした」首を竦め舌をちょこんと出したのが見えた「分かりゃいい…ハイこれも!」書類をもってそそくさと自分の席に行った。あの子とっても可愛いから若い女の子にもててるみたい。でもあの子、私に興味しめしてる。私が(弘あなたに)身も心も焼き尽くすほど恋しくて、こんなに苦しい思いをしているのに…他人から見れば、恋の炎ってそんなに綺麗に見えるのかしら…。さぁこんな事ばかり考えている場合じゃない、これから重要なプロジェクトの先頭に立って結果を出さなきゃ。戦いの場に私情は禁物、仕事、仕事さぁ頑張ろうっと。
私、待ちに待ってようやく週末、首を長くしてた日が来た。あぁ弘あなたに会える嬉しい、こういう嬉しい時って自分じゃ平静のつもりでも周りの人には分かるものなのね。無意識に歌なんか口ずさんじゃったりして浮かれてる。今日は久しぶりに、あなたが私のお部屋に来るの…だから今日は朝から大忙し、まずお部屋を綺麗にお掃除して、お昼からはお買い物。あなたと一緒に夕食、私の手料理でおもてなし材料仕入れに行かなくっちゃ。あなたは喜んで食べてくれる、私お料理のほかにも色々一生懸命に習い事した可愛い女になる為に。そして待ちに待っていたら夕方五時過ぎ恋しい弘がラフな格好でやって来た。
いそいそと作ったお料理を並べる、箸をつけながら「これ…みんな、彩が作ったの」と美味しそうに口に運んでいる「そうよ、美味しいでしょう」と口の先まで出かかったけど、そう言う眼をして黙って「うん」って頷いただけ。私も一緒にお酒頂いて、久しぶりにベッドへ……あぁッあなたの感触、私の身体があなたを夢中で求め始め…吐息が漏れるベッドがきしむ…あぁ弘…そしてそのまま、あなたの腕の中で…幸せの余韻に浸る時間が過ぎて行く。残る余韻を噛みしめながら眠りの中へ…。
翌朝早く目覚めて裸の上半身を少し起こして、あなたの顔を覗いた。まだ眠っている、そっとすり抜けてベッドから離れる狭い部屋だから傍に掛けてあったあなたのカジュアルな洋服に私の肩が当たって洋服がドサッと落ちた。終ったと思ってあなたの顔を覗いた。あなたは気付かず眠っている音がしないように洋服を元の位置に掛け直した。足元を見るとハンカチが一枚落ちている、そっと拾い上げた「何これ、女物じゃない」ファンデーションの匂い何故、振り向いて眠っているあなたを窺う。
ベッドに背を向けて朝早い薄明かりの中そっとハンカチを広げて見る可愛い花柄の四隅の一角にK・Oのイニシャルが赤い糸で刺繍してある。K・Oって誰、急いで頭を回転させてみる。あっ居る!居るには居るけど…まっさか違うだろ。あの子(女)、弘と私の恋愛の経緯も知っていて、応援すらしてくれている。口では冗談に色々言ってるけど、そんな事する人間じゃないわ。それに、あの刺繍の文字イニシャルかどうかも分からない。違う、違う!私の今一番の友達じゃない。恵子、疑ってごめんね。私、心の動揺を沈めなきゃと思った。
だけど次の瞬間とっさに私そのハンカチを手近にあった小物入れに入れてしまう、あぁ私やっぱり心が動転している…ハンカチが無くなっちゃったら弘あなた気付くかしら気付くよね…きっと…こんなものポケットに入れてくるからだよ。無神経、馬鹿、馬鹿…だけど忘れて来るくらいだから覚えちゃいないわ、きっと、よしんば分かったとしても、あなたから私に言い出せる訳ないわ…この私に…苛立つ、叩き起して問い詰めたい、でもあなたの寝顔見てるとそんなこと出来ない。
気を取り直して朝食の準備に取り掛かる。おみおつけの、いい香りが狭いキッチンに充満した。「いい匂いだなー」ってキッチンに、あなたが顔を出す「もう少しだから待ってて」エプロン掛けて手を動かす何もかも忘れられる幸せな一瞬だった。それからドライブに出て私の小さなマンションに帰ってきたのは夕方近くだった。あなたはハンカチの事は何も言わない、気付いていないだと思い込もうとする自分に後ろめたさを感じつつ別れた。
本当にあなたを信じているならハンカチの事は、あなたが目覚めた時に直接聞くべきだったと思うけど今となってはもう後の祭り、ハンカチの事もあるが他にも色々な事を恵子と会って話して見たくなった。
弘あなたのお母さん多津子さんに会わなきゃいけない時がもう間近に迫っているのよね。多津子お母さんってピンとこない、私の中では今でも昔の呼び名、奈美ちゃんちの小母ちゃんだけどな。これからは「小母ちゃん」そう呼ぶ訳にもいかないだろう、漠然と迫って来る重圧感を今から感じる。
近頃時々あなたが私達の為に用意したマンションに風通しと掃除に行く、ハンカチの件があってから何か変わった事はないか特に注意深く見るようになった。でも特に変わった様子もなく私以外の女が来ている気配はない。ホッとして見渡すマンション内、あなたと私は結婚してここで一緒に住むんだよね…その日が待ち遠しい。私の過去のトラウマは、あなたを信じて、あなたと一緒に解決すればいいんだ。
そう考えると気分が楽になって、このマンションでの生活を想像し夢見る。炊事洗濯お掃除しながら私このまま此処に住めば、私あなたの奥さんだね。あなたの胸に抱かれて何もかも忘れ、このままいつも一緒に居たい。私あなたと居れば幸せ、あなたと再会してから時間はあっという間に過ぎた。これからも楽しい思いでいっぱい此処で作りたい。
幾日か過ぎ今日は私、自分の部屋でくつろいでいる。あなたを待つのも慣れたのかな久々にくつろいでのんびり過ごしてるって感じ。普段着のカジュアルなスカートにブラウスね余裕じゃないけど、ベッドに寝転んで女性週刊誌を開いていたら眠気が差して、うつらうつら…あなたの事を想いながら気持ちいい、そして徐々に眠りの中へと誘われて行く。
何か音がする…滲んだ人影がまばらに見えてくる。ここは何所、見た事があるような、私の生まれた神崎の家…何なの息苦しい。人影が近づく「誰、誰なの」必死なのに声が出ない、怖い逃げようにも逃げられない逃げようともがく私の体は金縛り、怖い「あぁ誰か助けてー」答えもなく人影は近づき襲ってくる。
滲んだ人影は、皆見覚えがあるような気がするけれど思い出せない。人影は次から次へと襲ってくる。逃げようともがけばもがくほど衣服が絡む、押さえつけられてネグリジェが捲れる。人影の中に弘あなたが居る、こっちを見ている「あなた、あなた早く助けてー」あなたに縋り着こうとするけど人影が、人影が私の体を襲う。あなたは私の手の届きそうな所に居るのに何故助けてくれないの…苦しい、助けてーあなたー叫ぶ…思いっきり叫んだら…
ぼんやり意識が、窓に陽は明るく僅かに外のざわめきが聞こえる。俄かに私、今どう言う事態か「私のベッド」そう「私のマンション」「私のベッドの上」…なのだ。ハッキリと目が覚めて「ふぅー夢か」…
たわいない夢、たいていはすぐに忘れてしまうもの、それが妙に新鮮に脳裏に沁みついていた。これって不吉な知らせかしら、私の心の焦りがそう思わせるのか、弘と私は、ただ二人て一緒に暮らしたいだけなのに遅々として何も進まぬまま時だけが過ぎ去って行く…。何を言ってるの「元々一緒になれっこない」って始まった恋じゃなかったっけ。それを頑張ってこれまでになったんだよ。今更泣き言、言っても始まらない、それとも弘のこと諦める事が出来るの。そんなこと出来ないよー。だったら弘のことを信じて待つしかないじゃない。
世間や家族の事を全く気にせずに二人だけで役所に婚姻届を提出すれば戸籍上法的には、れっきとした夫婦になれる。私は天涯孤独な身の上だと思っているからそれでもいい、だけど弘あなたは違う、あなたには大切な家族が居る。祝福される事のない私の為に最低限家族の了解だけは得たい、その思いは至極当然の事、弘あなたは私の為に一生懸命どうアプローチしたらよいものか苦しんでいるのに…私ったら何を考えているの、馬鹿みたい…あの夢の所為…早く忘れよう…。弘あなたは、今何所に居るの、早く私の所に帰って来て私を抱きしめて…お願い…
朝目覚めた私は普段の仕事人間に戻っている。会社に出勤して仕事、仕事で追われようやく一区切りつけて帰ろうとした時にケータイの着メロ、見知らぬ番号が並んでいた。少々緊張感をもってケータイに耳を当てた。
ケータイの中から男の声が「彩…ちゃん。元気、元気のようですねー」馴れ馴れしい言い方。
すぐに分かった。あまり嬉しくない男「彼方も変わりなさそうだね」「久しぶりに、こっちに来たもんだからさー、懐かしくて…明日昼食でも一緒に食べないか」って誘われた「おかしいなー彼方が私の番号知ってる筈ないんだけどなー」「蛇の道は何とやら…ふふふ」笹井って男、嫌な含み笑い。
笹井は結婚してもうだいぶ経つ子供ももう大きい筈。何の話か知らないけど昼休みの昼食なら無下に断る事もないんじゃない。それに知らない筈のケータイ番号、どうしたのか確かめなくっちゃ。そう思って次の日、約束通り会社の近くのお店に出かけて行った。
私お店の入り口付近で見回す、何年ぶりかに会う笹井を探した。お店の奥の方で手を挙げている中年の男が居る。奥の席に行き「この人変わったなー」と私しみじみ思いながら前の席へ座った。思わず「ぷふっ」っと吹き出しちゃった。
「おいおい、いきなり人の顔見るなり「ぷふっ」かよ、そりやないだろう」「でもさーふふふ、で突然現れて、何をたくらんでるの」「失礼な、たくらみなんて純粋に彩ちゃんは元気かなと思って、ただそれだけだよ」「ただ純粋にね、信じられない。でも…変わったねーふふふふ」「笑うかなー、そりゃーね、おでこも多少広くなって、お腹も若干出てきたよ」「若干ね…だって、あれからまだ五、六年だよ。それでそれだけ変わるんだ…ふふ」「そんなに驚くほど変わったかよー」「うん、変わった、変わった、すっごく変わった。これも奥さんの愛のたまものよね」「すっげえ嫌味。そう言う彩だって変ったぞ」「そうね、いつしか小じわが増えちゃって」「いや、そうじゃなくてさ、一段と色っぽくなっちゃって…くらくらしそう」「おやまあ、御上手な事そんなに持ち上げても、なぁーんにも出てこないわよ」そう言うと笹井はニヤニヤ「ところで彩ちゃん、今晩どう」「何を馬鹿言ってんの」私、笹井を睨んだ。
昔から冗談か本気か分からない人「冗談、冗談、冗談だってば、そんなに怖い顔しなさんなって」「いつまでもそんなこと言ってたら奥さんに言いつけるから」また睨んだ「ところで結婚するんだって」「誰に聞いたの、そんな事」「誰だっていいじゃないの、めでたい事だから」「誰だって良かないの。それに私のケータイ番号教えたのは誰、今日はそれを聞きに来たの」笹井は悪戯っぽくニヤッとして「気になる」「当り前でしょう、まさか…恵子じゃないでしょうね…」「そう、そのまさかですよ。でも恵子には悪気があった訳じゃないからね。恵ちゃんを怒りなさんなよ」笹井はそう言った。彼方に言われたくない。やっぱり恵子だったのか何で、おしゃべり女が、そう思ってやるかたない憤懣がふつふつ湧いてきた。時間がそろそろ無くなってきたので笹井と一緒に店を出た。笹井は最寄りの駅へ、私は会社に戻った。
仕事を終えるまではと頑張って、何とかその日の仕事を片付けた。すぐに恵子にケータイ入れる。恵子はこの時間まだ仕事をしている筈、彼女の仕事は何時あいているか分からない、今日は運よく繋がった「ああ、彩…どうしたの急ぎの用、こんな時間に」「どうしたじゃないわよ。あなた、あの笹井に私のケータイ番号教えたでしょう」「あぁ教えたよ」「あぁ教えたよじゃないわよ、困るんです。どうしたのよ恵子らしくもない個人情報をベラベラと」「何をそんなにカリカリきているの、笹井は昔からの知り合いだから」「あのねー例え知り合いでも嫌な人もいるの」「あっ、ちょっと待ってね彩、今、私仕事の待ち合わせしているの。その人、今着いたみたい」「もしもし」「彩、ごめん、悪い、これから大事な人に会うから、また後でね」ケータイ切っちゃった。恵子じゃないとは思うけどハンカチの件だって聞きたかったのに…。
笹井に会ってからしばらく経った。恵子からはまだ連絡はない。あの日の私、少し神経がピリピリしすぎていたかも、このごろの私、おかしいって自分でも思う。
何日かぶりで待っていた弘あなたが私のマンションに来た。いつものように愛し合い二人で横になって寝転んでいた。その時、弘あなたが「彩、実は母が彩に会いたい…そう言うんだ。まだいつになるか分からないけど一応心の準備だけはしといてくれないか」「うん分かった。でも何だか怖いな」「何で…俺達、別に悪い事してる訳じゃないし怖がる事なんてないよ」そう言ってもう一度抱いてくれた。
あなたが帰ってからも、あなたの優しさが嬉しかった。だけど私の心の棘は、一層私に痛みを感じさせる。あなたのお母さん、神崎の家での出来事も若宮の事も私の過去は全部知っている。それに若宮の母良子とは古くからの知り合い。高校時代の外泊も奈美ちゃん家だから小言一つ言わずに許してくれた。その私の事をよくよく知ってる弘あなたのお母さんの多津子さんが、大事な一人息子の恋愛相手として私に会う、しかも結婚相手の候補として…。
弘あなたのお母さんにしたら、よもや…家に居る事が出来ずにいた女の子が、もっともふさわしくない形で会う羽目になろうとは思ってもみなかったに違いない。私だって弘あなたの母親ならそう思うと思うわ。悪い方に考えて行く私、普段の私じゃなくなってるけど仕方ない。不安と苛立ちで一杯、それでも私を信じ味方になって優しく愛してくれる弘あなたが居るから立ち向かえる。
弘あなたと一緒に居ると、ふと私いけない事を想像する。このまま、いっその事あなたと逃避行したい。出来れば誰もいない知らない街で二人っきりで暮らせたらそう思う。それが無理なことは分かっているけど「ねー、あなたのお母さんに私達の結婚…絶対に許してもらえないよね。もしそうなったらどうする」「そんなに分からず屋じゃないと思うよ」「私あなたのお嫁さんになる資格ないって分かってる(涙が出てくる)だけどね弘、私あなたと別れたくない」あなたの腕が私を抱き寄せる。
「もしもの話はよそう、父は分かってくれたんだし母にも彩の事充分に話した。心配しなくても大丈夫だよ」そう言う。優しく言ってくれるあなたを信じてる。後は私自身の心の問題かな、不安をかき消す為にも、こうしてあなたに会っている時に色々聞く事はあるのに何時もあなたにはぐらかされ何か聞きそびれているような気がした。でも恵子の事やハンカチの事は聞きそびれている訳ではない。もしも私の悪い予感が当っていたら、この幸せが音を立てて崩れて行く。そんな気がした。そんなの絶対嫌だ!黙っていれば、少なくとも今のままこんなに愛し合えるんだもの。
私、弘あなたのお母さんと私達二人の結婚の話で会う事になった。会う日はお母さんの方から連絡が来ると言う事で日取りはまだ決まっていない。私は現状を一歩でも進める為に、ひたすら連絡が来るのを待って、ケータイの着メロが鳴るたびに緊張してる。もう遠い日になったけど高校時代に行った田口家の幸せな家庭を思い出す。
お父さん、お母さんが居て、弘あなたと奈美ちゃん四人の家族が、私を笑顔でいつも迎えてくれた。そんな仲の良い家庭に生まれた奈美ちゃんが羨ましかった。私は世間知らずの子供だったから、いつの日か私もこんな家庭を作れたらいいなー…なんて夢見た。
しかし大人になって見た人の社会は、そんなに単純ではなかった。母良子が言ったように懸命に仕事をしながら生きていれば、年月が経ち何時の日か私の幼い頃の不幸は消えるのではないかそう思っていた。それがいかに甘い考えだったか。
私の心からも消えることなく私の行く所に着いて回った。あからさまに言う人は居ないが、他人には私の不幸やトラウマは時として面白おかしく興味を持ち、ややもすると人の不幸を盾に社会から抹殺すると言う事もやりかねない所だと知った。そんな私の預かり知らぬ所の思考で動かして行く世間も見た。
愛し合う二人が、いざ結婚と言う時に親や周りの人々が嫌だと思う相手を断る手段の一つとして最も有効に用いられる事も今まで見聞きしてきた。弘あなたのお母さんがそうだとは思いたくはない、そうでない事を祈ってる。これから私、田口弘樹の結婚相手として母親の田口多津子と会う。まるで知らない相手なら私も手放しで喜んで会えるかもしれない。しかし皮肉なことに、田口家は私の生い立ちや子供の頃から全部知っている。私が弘あなたの親の立場で素直に私との結婚を受け入れる事が出来るだろうか。やっぱり二の足を踏むだろう。そして許す事はないだろうと私は思う。
ケータイの着メロが鳴った。今まで経験のした事のない緊張感、ケータイを耳に当てる。意を決して私の名を丁重に告げると「もしもし彩、久しぶり…分かるかな私が」あっお母さんの声、とっさにそう思った。「もしもしお久しぶりです」声が上ずっているかも「彩…私、私よ、母さんと間違えてない?」私ちょっと戸惑ったけど、奈美ちゃんと分かった。
「うわぁー奈美ちゃん、奈美ちゃんでしょ…いゃー懐かしい」ケータイの声で親子の区別がつかなかった。それとも私の思い込みが強いせいか。若宮の家を出てから田口家とも疎遠になっている。奈美ちゃんの消息は、弘あなたから聞いて知っていた。学生時代に知り合った男性と結婚して、もう二人の子持ちになってるって「彩、何年ぶりかなー」子供の声が聞こえる「何年になる…十三年。いやもっとかな、お子さん傍に居るんだね」「そうなの二人もね、兄貴に聞いた」「うん、聞いた。幸せしてるって、良かったね。奈美ちゃん」「何やかやと大変だけど、子供は可愛いし…やっぱ、幸せしてるのかな」「そうなんだ。いいな」「それより、びっくりしたよ。彩が兄貴と再会してるって聞いた時、まさか会ってるとは思わないもの」「私も、お兄さんに会えるなんて思ってもみなかった。こんなになっちゃって…ごめんね」「謝る事なんてないわよ。私、応援してるから」「うん…有難う」とは言ったものの、奈美ちゃんが言った「応援してる」の言葉が胸に刺さった。
許されてないのが確信できた気がして、ざわざわ胸騒ぎが広がる。だけど「私の考えすぎだよ」と自分に言い聞かせた。私の心の中に一瞬の空白が出来、久しぶりに積もる話がいっぱいある筈の奈美ちゃんとの会話も途切れがちになった。「聞いての通り子供二人、上の子は女の子で九歳、下の子はまた三歳で騒がしいけど…彩、良かったら家に遊びに来て」「うん、有難う。また、そうさせてもらうね」それでケータイは切れた。
私、分かっている。田口家の両親に許されて結婚できるなんて思ってなんかいない。そんな中で応援してくれる奈美ちゃんの気持ちは嬉しい。しかし私にとって残酷な現実が心の中に、小さな闇の空間を作って徐々に広がって、その中を、弘あなたが遠ざかって闇にまぎれて消えて行く姿が見える。追いかける術すら分からず閉ざされる。
「今はただ、弘あなたを信じていればいい」そう思いなおした。時々ふと寂しさが襲ってくるが、そんな気持ちは億尾にも出さず会社で仕事をしながら日々過ぎる。母親に会うと言う私の気持ちの重苦しさを察してか、弘あなたは近頃、都合をつけて会うようにしてくれる。今日もあなたと一緒に居る。私、奈美ちゃんと電話で話した事を言った。
「相手が私でなく普通の家庭のお嬢さんなら、あなたもこんなに苦しむ事もないでしょうに…」と思う時がある。そう言うと「彩が勝手にそう思い込んでいるだけだ」そう叱ってくれるのは、弘あなたの愛情だと思う。そんな殊勝なことを考える一方で辛い思いに負けて、私、昔の自由に暮らしていた時の悪い女が顔を出す。一緒に住み婚姻届さえ出せば誰が何と言おうといいじゃない。弘あなたを好きになり愛した時から、私の中のもう一人の私が囁き続けている。私あなたの傍でそれとなく言ってみる「ねぇー、私達の事どうしても分かってもらえなかったらどうする」「焦らなくても少しぐらい時間がかかったっていいじゃないか、まだ話を詰めても居ない事だし」それって詰められるの、なぁーんて意地悪、私言わない。まだ円満ではないにしても親を説得できて一応の許しが得られるものと信じてるみたい。
お母さんに会う事が決まって、私イライラ普通じゃなくなる時がある。「弘、抱いて」私の方から、あなたを押し倒す。あなたの上になって抱かれる、二人の息が荒々しく部屋に響く、あなたも苛立っているみたい私も不安な気持ちを払拭するように注がれた油に火がついたように、私、あなたの動きに燃えあがる……。
女として私は咲いて、花びらを精一杯広げ…このまま散ってしまうのか、せっかく咲いて実を結ぶことなく…あなたか帰った後、私いつも思う。周りの今の状況は、何時晴れるか分からない雲に覆われている。私の涙の雨が降りそう。
私、母の良子のように強いキャリアウーマンにはなれなかったけど、それなりに仕事のキャリアは積んで誰にも負けない自立した女になったつもり。でも今の私は、あなたの考えに合わせようとお母さんの多津子さんから何時来るやもしれない連絡を待っている。「早くしろよ」と心の中で思いながら、そう言う胸の内など億尾にも出さず普段と変わらぬ顔をして通勤していた。
まだ何の動きのないまま重苦しい二三日が過ぎて行った。いつものように仕事から帰って来ると私の部屋のあるマンション、その出入り口で女の人が行ったり来たりしている。若づくりはしているけれど、どう見ても六十がらみの女の人に見えた。このマンションの住人に用事があるのかなと近づいた。
近づいて眼と眼が合った。「あっ」と思わず声が出た。すぐに誰だか分かった。二十五、六年も会ってはいなかったが忘れようにも忘れる事の出来ない顔、私を見てニコニコ近づいて来る。その笑顔はこわばって見えた。恐る恐る「彩、彩だね」そう言う、私は黙ったまま声が出なかった。「いい女になって」緊張が少しほぐれた声がそう言った。黙ったままの私、女の腕の部分を掴んで近くにある子供の公園の空き地まで引っ張って行った。
幸い人はもう誰もいなかった。私が凄い勢いで引っ張ったらしくて「待って、待ってよ痛い、痛いじゃないか」空き地に着いた女は、私の手を払いのけ痛そうに掴まれた手を垂らし擦っている「ふぅー乱暴だねー」「何なの今頃現れて」私は完全に冷静さを失っている。その女と言うのは、私と父を捨てて他の男と一緒に家を出て行った…実の母親八重子その人だった。八重子が重い口を開いた「それがねー、彩」そう言いかけた言葉を、断ち切るように遮り私は語気を荒げ「私が、お前を産んでやった母親だとでも言いに来たの…それともお金」「そんな事じゃないよ。実はね彩」母は続けようとしたが、それも遮った。
「彩、彩って馴れ馴れしく呼ばないで、あんたの口から聞くのも汚らわしい」母の眼は「そうだね」と言いつつ「いくら汚らわしいと言ったって、彩お前…」必死に「聞いてくれ」と懇願の眼差しを向けている「それが嫌だってい言うの」私は顔色が変わって鼓動も早くなってる「出来る事なら今すぐにでも、今私の体内を流れている。あんたと同じ淫乱の血液を、そっくり入れ替え、あんたと同じ血を 一滴残らず私の中から無くしたい」母は私の剣幕に諦めたかのように「そうだよね…あんな酷い仕打ちをして置いて、今更何も言えた義理じゃない」唇をかんだ。私は頭に血が上ったままで言葉か出ない。母は静かに「やだやだ、やっぱり歳なのかねー。一生会うまいと思っていたけど良子さんの許しを得て会う気になった。でも彩、ありがとう嬉しいよ。元気で真っ当な暮らしをしていてくれて…お父さんも喜んでいるよ…ありがとう」そう言ってハンカチで目頭を押さえ鼻をすすった。
さっきの剣幕はどこえやら母良子の名前を聞いて落ち着いた私は何故かしんみりした。母八重子は「じゃ…これからも元気でね」そう言って行こうとした。「待ってよ、さっき言いかけといて何なの」と止めた「もぉいいよ、みんな私がまいた種だ。年端もいかぬ彩とお父さんを置き去りにして身勝手に出て行って苦労をかけ今頃のこのこ現れて悪かった…父さんが彩を置いて出て行ったのも元はと言えば私の所為。決して許されるもんじゃーない」ハンカチを鷲掴みにした手が震えている。
私は邪険に「何を、さっきからゴチャゴチャ言ってるの」と言った。母八重子は思い直して静かな口調になった。「彩に知らせようか迷った所を、若宮の良子さんに私から伝えなきゃ駄目だと言われてね…お父さん三か月前に心不全で逝ったよ。今お骨になって神崎家のお墓でご先祖様と一緒に居る。ご先祖様には、こっ酷く叱られている事だろうよ」「……」私すぐに言葉が出なかった。
「彩…元気でね、さようなら」そう言って私のいるマンションの反対方向に歩いて行った。私は言葉なく黙って後ろ姿を見送った「もう会いには来ないよ」還暦前の母八重子の後ろ姿はそう言っていた。私は「あの父が死んだ」そう呟きながら胸に込み上げてくるものを感じながらマンションの部屋へ帰った。
部屋に帰り「あの父が死んだ」と繰り返したが涙は出ない。母の出て行った後、酒を飲んで荒れた日々が続き、私を置いて出て行った父の顔が脳裏をかすめた。関係ない、今の私にどうしろと言うの…置き去りにされ憎悪すら抱き続けている母の八重子が父俊夫の死を告げに来た。「それが、なぜ今なの」言い知れぬ思いに居た堪れなくなった「私は、今が一番大事な時期なのよ」めちゃくちゃ大声で叫びたい気持ちになっている感情の昂りは収まる様子はない。
八重子、俊夫の両親の行為がいまだに私を憎しみから解き放ってくれないばかりか、今、大きな障害となって私に重くのしかかっている。しかし夜になってベッドに横になって落ち着くと、何故だろう思い出す父の顔は…遠い昔、私の誕生日に欲しくて仕方なかった着せ替え人形を買って来てくれて、それを開いている私をニコニコしながら見ている父の笑顔。母が出て行った後に、酒を飲みながら涙をためてぼんやり外を眺めている父の顔が交互に思い起こしている。さして悲しくも同情する気持ちも起らないけれど、「やっぱり親は親か」と思う。その次の瞬間その気持ちを打ち消そうとしている。私の心から抹殺しようとしても、それは出来なかった。
父の俊夫の僅かな思い出、若づくりはしていても老いを背中に感じさせながら、その背中で「もう会いに来ないからね」そう言って立ち去る後姿の母八重子。いくら今日、父の死を知らされ老いて行く母の後ろ姿を見せられても私の憎しみが変わる事はないだろう。私は今まで親達への憎しみが生きる糧だったような気がする。そんな事はないかもしれないが、それは私を強く鍛える為だったのかもしれない。そう思うと言い表す事の出来ない寂しさが襲う。これが肉親と言うものだろうか私は初めてそれを知ったような気がする。この事はこれから先、私の心の中から消える事はないだろう。
今の私は、そんな感傷に浸れる時ではないと思う。弘あなたにも言えない気がする。今はばこのままそっと私の心の中にしまっておこう。
弘あなたのお母さんからの連絡いつ来るんだろう、いつ来るか分からない状態で私の気持ちは落ち着かないの。だからって訳じゃないけれど、弘あなたに会いたい。もしもこのまま連絡が来ない日が続いたら、と思うと…私はどうしたらいいか、あなたに会って催促したって無理なんだろうなー。
仕事の都合がついてようやく弘が来てくれた。待ちに待って、あなたに抱かれりゃその時だけは落ち着ける。あなたの顔を見ていると「考えちゃいけない」と思いながらも「どうしても、僕達が一緒になるのに母が反対なら反対でいいから俺達だけで一緒に暮らそう」と言ってくれないかな、なんて。うううん…分かってるのよ、あなたは説得したいのよね、お母さんを。
今日は、私の休みの日。あなたは来ない日なんだけれど、久しぶりに爽やかな気分。さぁお部屋のお掃除、それから洗濯…鼻歌なんか歌っちゃってルンルン気分。「さぁーて」と買い物にでも行こうかなー、待てよ「冷蔵庫の中は」っと今日は有りそう。ケータイが鳴っていますよ~ハイハイすぐに出ますよ~っと調子に乗って出たのはいいけれど、うっかりケータイ掴んで誰か確かめずに出てしまった。
「もーし、もーし彩でーす」「彩ちゃんね、元気そうね」奈美ちゃんの声だ「何言ってんの、こないだ話したばっかじゃん」「ふふふふふ、彩ちゃん…間違えているのかな」あっ多津子小母さん…、どうしよう大変だ。落ち着け、落ち着け、恐る恐る「もしもし、誠に失礼いたしましまして、すみません小母様ですね、その節はお世話になりながらご無沙汰ばかりしています」「ふふ、そんなに改まらなくても昔のように小母ちゃんでいいのよ」そうは言われても今は弘のお母さんとして対峙しなくては「先日、奈美ちゃんとお話ししました。その際の声と小母様のお声がよく似ていたものですから、ついつい奈美ちゃんと間違い本当に失礼しました」「電話は奈美とよく間違えられるのよ、母娘ってよく似ると言うれど、やっぱり本当だね」私、過敏になりすぎかな。母娘が似ると言われ幼い私を捨てた先日の母が脳裏を過ぎる。
「ケータイ受けた時に気付くべきでした。すみません」「いいのよ、そんなに気にしなくても。それより彩ちゃん、弘樹がお世話になってるんだってね」ついに来ました。来ましたよ「お世話だなんて、そんな…ただ…」と詰まった。 多津子小母さんに「ただ…」無言でただ何ですかと問い返された。先方は次の言葉を待っている。
えーい、言っちゃえ「ただ…一年半ほど前、偶然に再びお会いして御つき合いさせて頂いています」「偶然にねー、神様の思し召しかしらねー」どう言う意図かしら「そうかもしれません、弘樹さんも私も、たまたま社用でお邪魔した会社で、弘樹さんにお声をかけて頂いた時は、本当にビックリ…まさか、こんな偶然があるんだなって私も弘樹さんも驚いて俄かには信じがたいほどでした」「さすが若宮のお母さんに育てられただけの事はあるわ、しっかりしてる。彩ちゃん」誉めてる訳ないからね。これって皮肉。
私を育ててくれた母良子には感謝している。そしてキャリアウーマンとして一人自立した道を貫いて生きている姿は立派だと思う。そうした生き方は手本にしたいと思うけど、仕事一筋で婚期を逃し年を取って男の人に夢中なんて、私は真っ平。私は弘あなたと一緒に平凡な家庭を築きたい。ただそれだけの事なのに、私の生い立ちを盾に反対している、弘あなたの母親、多津子さんには負けたくない。今一番大事な時…
「もしもし…彩ちゃん、どうかしたの」「いえ、若宮の母のことを言われたので…ちょっと」「あっ、そうそう彩ちゃん若宮の家に帰ってないんだって、良子さんも待ってるだろうに。たまには顔を見せてあげたら」そろそろ急所にじわり…か。「はい、そうは思っているんですが」「そうよねー、若いから仕事も遊びも忙しいよね」それって嫌味。「そう言う訳でもないんですけど」「久しぶりで、ついついお喋りしてしまったね。彩ちゃん、彩ちゃんのの都合のいい時でいいんだけどね、何時か会えないかと思っているんだけど」ついに来るべき時が来た。
ボールは私に向かって投げられて、また投げ返す。まずは電話のキャッチボールから肩慣らしなの。これからは、どんな強いボールが来ても逃げないで受け止めなければいけないのよね。私はどんな事を言われても、どんなに辛くても…弘あなたさえ信じていてくれたら…私、頑張る。
あぁ…あなたに会いたい、会って話したい。そして、今までに経験のない…この得体の知れぬ不安と一緒に、私を離さないように強く強く抱いてほしい。でも、弘あなたは出張で仕事の最中、すぐには会えない所に居る。だからケータイして話したいけど、夜のプライベートタイムしか話せないと言われている。時間が来たらすぐに話せるようにメールを入れとこうっと「私の弘…今日あなたのお母さんから電話連絡があったよ。お仕事が終わったら今夜ケータイして。待ってるから…弘ー会いたいよー」
あなたにメールした後。電話を一言一句思い出しながら多津子さんは何も特別なことは言っていない普通の会話だろう。むしろ私の方が素直じゃなかったような気がしていた。そこに、また多津子さんから電話がかかってきた「もしもし先程は失礼しました」私丁重に出た「あっ彩ちゃん、さっきはどうも…彩ちゃん明後日はお休みだったわよね」「はい、休日ですが」「私ね、さっき電話し終わって考えたんだけど、明後日が彩ちゃん休みだと気付いたの。それで、こういう話は早い方がいいと思って…彩ちゃんの予定は」「今の所、これと言って予定は有りません」「そう、それじゃあ明後日お邪魔していいかしら」「私の方は構いませんが」そう答えて、明後日に決まった。じわり、じわり真綿で締め付けられるように息苦しい時計の針が止まったかのように時が経たない。
私は弘あなたと話したくて、昼からずーっと待って待って、待ち侘びていた。夜の九時過ぎやっとの事で弘からのケータイが鳴った。待ち侘びていた割には「弘…」と言っただけで詰まってしまう「遅くなった―ごめん。お袋が電話したんだって」仕事が終わって伸び伸びした感じ、私なんだか許せない気分。
でも弘の声を聞いて涙が…「何だ、どうした。泣いているのか」「だって…」「何か言われたのか」「いや…そんな事はないけど」「だったら、なんで?」「弘の馬鹿、無神経」「そう言われてなー、それで会う日は決めたの」「うん、最初は彩の都合のいい日でって言ってたんだけど、気が変わったらしくて明後日だって」「明後日か、急だなー…彩は休みなんだよなー」「弘あなた一緒に会ってくれるんでしょ」「明後日か……明後日は無理だよ。帰れないもの」「だったら、あなたから、日を変えるように言って」「それじゃ、一応言ってみるわ」「あっ待って、そんなこと言ったら私が、あなたに頼んだってバレバレじゃん。今の取り消し、でも独りで会うのは絶対に嫌だからね。なんとかしてよ…お願いだから」「分かった。分かっているよ、分かっているけど、もしも、もしもだよ。明後日、独りで会う事になったら、(何を言われても、どんな事があっても弘樹と一緒になる。そう弘樹と決めている。例えお袋であっても誰が何と言おうと二人の気持ちは変わらない。)それで押し通せよ。それで納得すると思う、後で俺と一緒に念を押せばいいだろ…なっ。」「それ、私一人に言えって言うの、そんなに強く私か言える訳ないしゃない。」「うーん…言えないか」
「来る気が無いのね。それ私に言わすより、二人でお母さんの前に揃って頭を下げて、あなたが言えば済む事でしょう、あなた来てよ…お願い…」「泣くなよ、彩の言う事は良く分かる。俺の気持ちは、お袋にはちゃんと伝えてある。泣くなって、行くよ、行くってば。もしもって言ってるじゃないか…なっ。」ケータイ切ってしばらく、ぼんやり天井を眺めた。弘…私もう、あなたを忘れて別れるなんて出来ないんだよね。悔しいけど…。冷やかに通り過ぎる不安、弘あなたに相談したら不安は消えると思っていた。消えるどころか先の見えない冷たい霧に覆われたみたい。「弘の意地悪…何を考えているんだろう、独りで会う事になったら」と呟く。
えぇーい、何とかなるわ。そう思って眠ろうとしても結局、眠れず。朝方少しうとうとして朝を迎えた。そして一日半の長い時が過ぎるのを待つ。昨日の多津子小母さんと、電話した時だって素直に聞けば、何らきつい会話じゃないんだよな。むしろ、私の方が素直じゃなく思い込みで聞いたんだよなー、今は、そう思っている。
私も良い方向へと考えようとするけれど、多津子小母さんにしてみれば、私と息子の弘樹が結婚するとなると快く受け入れてくれるとは考えにくいし、反対されている方が強い。その事は奈美ちゃんとの話や弘あなたとの会話でヒシヒシと伝わってくる。そんなマイナス思考のプレッシャーの中で、私は近頃体調を崩したみたい。でも今はそんな事を言っている場合じゃない。
マンションのチャイムが鳴った。ドアを開ける、そこには昔懐かしい田口の小母ちゃんの姿があった。十数年の歳月は流れているが、やっぱり奈美ちゃん家の小母ちゃんが、ニコニコ笑顔で居る。懐かしさのあまり何らかのリアクションを起してもいいのに、何だかよそよそしい雰囲気。これって私が作り出しているのかしら。でも私、小声で「小母ちゃん」って自然発生的に言った気がするけれど声になっていたかどうか…
「久しぶりね、彩ちゃん」「ご無沙汰しています。小母様もお元気そうでなによりです」「彩ちゃん、本当に綺麗になって…弘樹が夢中になるのも分かるわ」
多津子小母さんの言葉を聞き流しながら急いで確認する。弘あなたの姿を…弘の姿はない。お母さん一人だ。
動揺を隠し「あっ、どうぞ狭い部屋ですけど」部屋に入った。小母さんは、弘の母親の目になっていた。部屋に入って部屋の中を見回す。「きちんと片付いて、綺麗なお部屋ね」そう言いながら、小さなぬいぐるみ気に入った可愛い装飾品と一緒に飾ってある、弘と私のツーショットの写真に目をやったが、黙って目をそらした。私は小母様の好みのレモンティを出し、お菓子を器にのせて添えた。私は「小母様どうぞ」と言った後、どう対応して良いものやら不安を抑えるので精一杯。二人の間に緊張感が走った。
口調柔らかに口火を切ったのは小母様だった「彩ちゃん、私が今日ここに何を話に来たのか、分かっているよね」「はい、弘樹さんから聞いています。弘樹さんと私の結婚の話しだと…」「そうねー、彩ちゃんハッキリ言っていい」「どうぞ、仰ってください」「私なりに考えたんだけどハッキリ言って反対なの」「小母様、私が弘樹さんのお嫁さんに相応しくない事は、分かっています。御宅には不釣り合いの家族だし、私の実の両親は、人様にお話できないほど恥ずかしい親達です。でも小母様、私の弘樹さんに対する想いは決して浮ついた気持ちではありません。これから一生のパートナーとして、ず~と一緒に生きて行きたいんです…これは弘樹さんも同じ想いです。弘樹さんはお母さんにその旨、充分に伝えてあるのでをた一人でお会いするようにとの事でした」「そう、私も弘樹からそう聞いています。そうだよねー結婚する前は誰でも皆そう思うものなのよ。でもね彩ちゃん…貴女を育ててくれた…若宮のお母さんと仲のいいままお母さんの良いところを学んで今に至っていれば反対しなかった」「…」私もそうしたかった。と言いたかったけど何故か口を噤んだ。
「勘違いしないでね。そりゃー彩ちゃんも今まで一人で苦労したと思う、人は齢を重ね色んな事を経験して行くだから、あの頃の無垢なままで、って意味じゃないのよ」「…」「彩ちゃんは若宮の家を出て独りの考えで暮らした。だから生活が荒れた時期があったんだね」「私、そんなに」「何でそこまで他人の私に言われなきゃいけないのか、そう思ってるんでしょ彩ちゃん」「…」黙って聞くしかない「損得抜きで大学まで出してもらって、それっきりその後連絡もとってないって言うじゃない」「それは母と私の問題です」「そうね、あなた達親子の問題と言われればそうだよね。その良子さんも定年だ」しみじみ言う。指摘された母の事は私自身母にしてもらった事に見合うような事は何もしてないので甘んじて受けるしかない。
「彩ちゃんは時代遅れと笑うかもしれないけど弘樹が結婚したいと言うから彩ちゃんの事を少し調べさしてもらった。日頃の彩ちゃんがよくやってる事は、この部屋を見せてもらっただけで分かる」何を調べたと言うの…「そこでちょっと気になる事が」手提げバッグから封筒を出し写真を一枚取り出し目の前に置いた「この人とお付き合いあるの」写真を見た「これは」と言うしかない。この前、突然連絡が来てランチを共にした笹井とのツーショット。さもくっついて歩いているように撮られている。実際はかなり離れていたのだが、よくもまあこんなに撮れたものだと感心する。いずれプロの仕業だろう、此処までやられたら「もういいや」そう思う。
「ああ、笹井さんですね。以前一緒の職場で働いていた人です。それがこの前、近くまで来られたとかで会社の近くのお店で昼食をご一緒しました。五、六年ぶりでしたが故郷の九州で結婚されてお子様にも恵まれお幸せそうでしたよ。それにしてもこの写真よく出来ていますね。少し離れて歩いていたんですが…」まだ言おうかと思ったけど過去に何もない訳でもないので気取られてはと思いやめた。多津子さんがどう感じたかは知らないが「そうでしたか」と意外にすんなり収めた。収めた後はもう私の事には触れず奈美ちゃんの旦那や旦那の実家の自慢話で締めくくって帰って行った。分かった事は「彩と弘樹は一緒にさせたくない」その固い意志だけは強烈に伝わった。
私は精一杯やった。それよりも弘あなたが来てくれなかった事はショックを通り越して不信感が湧いてきている。弘あなたへの思いは残っているものの、今まで心に仕舞いこんでと思っていた事が沸々と私の心に湧いてきた。「弘…、やっぱりあなた達親子は、まだ親離れ子離れしていないんだ。そう考えれば今日、あなたが来なかった事も今までの不可解さも説明がつくわ。そんな田口家の一員に私はなれない」それより私は疲れているのが私自身よく分かる。弘…あなたは今日は仕方なかったんだよね。
お仕事で「弘、すべて終わったよ。私の気持ちを書いて部屋に置いときます」そうメールした。そして、そそくさと便箋を取り出して置き手紙を書いた。
「 弘、私あなたに会えて幸せでした。一度目は、あなたのお家でしたね。再会は思いがけない偶然でした。再び巡り会って愛し合った、愛おしい幸せいっぱい日々は、一生忘れる事はないでしょう。弘ありがとう。 此処に手紙と一緒に置いてあるハンカチは、以前あなたのポケットから落ちたものです。お返ししようと思いながらも、今までお預かりしていました。ごめんなさい。イニシャルの女性と幸せになって下さい。弘、さようなら。本当にありがとう 」
そう書いてペンを置く、まだ外は明るかった。もう何の躊躇もない、身支度を綺麗に整えてマンションを後にした。夕日のさす歩道橋の中ほどで止まる、ビルの谷間に赤い大きな太陽が沈んで行く、足を止めて沈む太陽の下の方向を眺める「あの辺りかな」弘と二人で住む筈だったマンション。目頭が熱くなり溜まった涙を我慢した「私もう泣かない」そう呟いた。
私は今まで過去にこだわって私自身のルーツである神崎の家や掛け替えのない母が居る若宮の家から逃げていた。逃げずに私の原点を、しっかり見詰め直して強くならなきゃ、そうしないと…これから生まれてく子供に叱られるからね。父が逝ったと伝えに来た、あれも紛れもなく母親。実家か、一時の迷いに狂わされた人達だけれど、今は皆私を想ってくれている。私には、そんな立派な実家が二軒もあるじゃないか。
日が暮れて闇の中を走る列車の中に居た。すこぶる気分も体調も悪い、目的の駅名のアナウンスが聞こえ、その駅で降りその足でタクシーに転がり込んだ。行く先を告げて走り出したタクシーのミラーでチラチラと見ていた運転手が「お客さん、大丈夫かい」と聞いた「大丈夫」と答え、しばらくして一軒の玄関口ににタクシーは着いた。やっとの思いでようやく辿り着いた玄関の呼び出しチャイムを押した。その家の玄関の表札には「若宮良子。併記で彩」と書かれてあつた。
母良子が出て来て私の顔色の悪さに驚いていた「ただいま母さん、まだこの家に彩の居場所あるかなー」「そろそろ帰って来ると思って置いてあるよ」母らしい答えが返ってきた。玄関に座りこんだ私を見て「こりゃ、駄目だ」とすぐに救急車で病院に運ばれた。瞼の裏の幽かな明かるさで気付いた「彩、気がついたね」母良子の声だった。ニコニコ笑顔の母、幼い頃の記憶が甦り涙が込みあげてくる「良かった…会えて」と自然に出た私の言葉に母良子は「それを彩が先に言うか、本当にもう、こっちが先に言うセリフだぞ。こら」眼が潤んでいる「馬鹿だねーこの子は、無茶して経緯は全部聞いた。それで別れる決心は着いたののかい」私、頷いて「聞いたって誰に」「弘樹さんだよ、他に誰が居る」「来たの彼」「そりゃー探しまくったって来るだろうよ、変な手紙を置いてりゃ」
「彼、私の妊娠知ったの」「此処は病院だよ、知れるわ、それに何時間眠ってたと思ってるの、一日半だよ」「そんなに眠ったの」「極度の心労、それに妊娠が重なった為だって、これから当分の間ゆっくりしなきゃいけないんだよ。まだ出来たての孫の為に、のんびり家に居ればいい」「母さんたら…出来たての孫だなんて、他にもっとマシな言い方ないの。それで彼はどうしたの」「かわいそうに寝ずに駆けずり回って眠らずに会社に行ったよ。終わったらすぐ帰る、来たら聞いてみるといい、あの手紙ぜんぶ彩の思い込みと誤解だと言っていたから、さあ…これで伝える事は伝えたよ」私が「そう…」と答えると母も眠ってないらしく家に帰って来ると言って家に帰った。「母さん、ありがとう」そう呟いて見送った。夕方、母良子が来た。
弘も母の後しばらくして病院に来た。母は席を外した「心肺かけてごめんね」「本当だよ、彩は妊娠を知っていたの」「確かめて言おうと思ってた」「そんなの早く言えよ、まったく」「ごめんね、こんなになるとは思わなかったもの」「俺も一人で会わせたのは悪かったけどさ」「私が悪いの、ごめん」「でも、無事で良かった…それから例のハンカチ、荻野佳代って恋人だよ」「荻野…」「そう奈美の娘、おしゃまな姪っ子」「奈美ちゃんの娘さん…」「そう、当年九歳です。連れてこようか」「もういいの」「奈美の持ってる物が欲しい年頃だって、早く言ってくれればいいのに」
弘あなたは、いつもの眼差しで私を見ている。しかし私の、あなたを見る目は変わっている筈、私、思い切って切り出した。「弘、もういいよ。ごめん…あのね弘、怒らないで聞いてほしいの。私達…別れよう…今ならまだ傷が浅いような気がするんだ」「突然、何を言い出す。母に言われたからか」「私ね、こうなるんじゃないかって、あなたを好きになった時から、いつも思い続けてきた。誤解しないで、私は弘のこと本当に好きで真剣に愛した事だけは真実だから」「子供はどうする。俺達の子供は…」「産むわ、産んで私が育てる。あなたに迷惑かけない」「彩、お前…本気でそんなこと言ってるのか」「本気よ。あなたのお母さんが言っている事が正しいの、だから分かって…私の気持ちは、もう変わらない。お願い弘、このまま別れよう」「何でそうなるんだよ。これまで俺と彩は上手くやって来た。それに嘘はない、だから俺があの家を出るっていってるじゃないか」「そう言う問題じゃないの」「じゃ何故、無茶苦茶言うな。これからお袋を引っ張って連れて来る。それからもう一度話し合おう…な」そう言い残し急いで出て行った。それが出来るぐらいなら、こんな事にならなかった。
やや冷めた私は思う。席をはずしていた母の良子が入って「どうしたの、あんなに急いで」入って来たばかりの出入口を見ながら言った。「別れるって言ったら多津子小母さんを連れて来るって」「そう、それじゃ多津子さんは、これから彩と別れるように弘樹さんを全力で説得だろうよ。これまでの話では弘樹さんは多津子さんに逆らえない。…彩、大事な事だからもう一度確かめるよ。彩は、もう弘樹さんと一緒に暮らせなくていい、それでいいんだね」と静かに言って、母良子は私の手を取った。私、しっかり頷いた。「彩の気持ちは分かった。これから先は私に任せときなさい」良子の顔は優しい笑顔だったが、言葉には鋭さが籠っていた。
「母さんは強いなー、独りで強く生きている。それ比べ私って、弱いなー」私、弱音を吐いた。母の良子は「母さん独りなんかじゃないよ。私には彩が居る、それに孫の顔も見せてくれるんだろ…、私と、もう一人のお母さん神崎の八重子さんに。彩もこれからお腹の子と一緒に強く生きるんだ。皆と一緒にね…決して独りじゃない」良子の言葉の奥底を私は理解していたか「それから八重子さんから渡してくれって預かってた。
お父さんの遺言だって」不格好な封筒かが渡された。開け中を開けた。中には彩名義の通帳と印鑑、メモ紙一枚に「彩、ごめん罪滅ぼしにもなるまいが、父さん彩の事は忘れた事はなかった」と書いてあり通帳を開けると一万円の数字が亡くなる前までの二十五年間ずらっと並んでいた。私、思わず呼んでいた「父さん…」 了