雲の迷い子
或る入道雲の辺です。探検家はその一角に悠々閑々と座り込んでいました。入道雲はモクモクと大きく、夕日に照らされて紅く光っています。探検家はそれから漸く立ち上がり、荷物を背負ってから、その入口にある「雲の扉」を涼しい眼で睨みました。
「あれだな」
探検家が指さしたのは、僅かに開いているだけの小さな鍵穴でした。探検家はその鍵穴に人差し指を突っ込むと、右へ左へ回し始めました。やがてガチャリという音がしたかと思うと、みるみるうちに「雲の扉」は消えていってしまったのでした。
中に入るとそこはまるで迷宮のようで、雲と雲との間を縫って進む他ありません。探検家は雲の崖を登ったり雲の糸を綱渡りしたりしながら、或る広場まで辿り着きました。
そこは入道雲の中心に位置するでしょうか、ポッカリと空いたスペース、周囲の雲に隔てられながらも整然として、しかも活気づいているのです。そしてその一隅には、雲でできた大きな時計台が巍然とした姿で建っているのでした。その時計台は今現在の時刻とは明らかに違う、明らかに過去の時刻を刻んでいました。探検家がしばらくそこに佇んでいると、別の道から誰かが歩いてくるのが見えるではありませんか。やがて探検家の元へ歩み寄ってきたその迷子の少年は、探検家の前で静かに笑い、こう言います。
「早く地上に帰らせてくれよ」
探検家も言います。
「もう少しだけ、待っていてくれよ」
「よし、じゃあ取り替えっこでもしようか」
そう言って迷子は肩から提げていたバックから石ブロックを取り出しました。探検家も自分のリュックから、一つのランタンを取り出します。
「はい」
二人は交互にそれらを交換してから別れたのでした。
次に探検家は雲の迷路に迷い込みました。彼は何も考えずに唯進んで行きます。やがて彼は迷路の折り返し地点が小さな砂場になっているのを発見しました。当然の如く雲でできており、小さな山がその中心に積まれてあるのでした。更にその小山の頂上には、一本の旗が浅く突き刺さっており、無風にも関わらず飄々と棚引いているのでした。
探検家がその旗を抜くが早いか、また例の迷い子が向かいの道からやってきました。
「もう一回?」
迷子が言います。
「うん、もう一回」
探検家も言います。
今度は迷い子は古びたロープを、探検家は純金の象の置物を、それぞれ交換しました。すると同時に周囲の迷路や砂場がみるみるうちに消えていくではありませんか。その所為か入道雲もいささか小さくなったと見え、探検家は口元の緩むのを感じるのでした。そしてもうそこに、迷い子の姿は見当たりませんでした。
探検家はそれからも休むことなく進み続けます。そして雲と雲との谷間まで来ると、雲の椅子に座り込みました。彼は暫時は考え事をしていましたが、やがて規則正しい足音が聞こえてくるのを感じて我に返りました。
「いいかい? これが最後だよ」
迷い子が座っている探検家に話しかけます。
「うん、わかったよ、じゃあこれ」
探検家はリュックから一丁のピストルを取り出すと、迷い子に渡しました。それを受け取った迷い子はバックからシース※に収まったナイフを取り出し、探検家に渡すのでした。
「このシース……抜けないな」探検家が言いました。
「抜けないことはないよ。そんなことより君、この旗をどちらが速くあの雲の頂上に突き刺せるか、勝負しようじゃないか?」
迷い子の手には探検家と同じ旗が握られていました。
「よし、良いよ。やろう、やろう」
「行っておくけど、雲は硬いんだからただでは刺せまいよ」
「わかっているとも」
そう言って二人は別れました。探検家はまずナイフのシースにロープを縛り付けると、石ブロックにも同じように巻きつけました。そして谷間の先端まで行くと、ナイフの柄を握ったまま石ブロックを雲から蹴り落としました。それと同時に探検家はナイフを思い切り手前に引き、シースをまんまと抜いたのでした。
それから探検家は一際目立つ大きな雲の山を目指して歩き出しました。途中、雲のジャングルに迷い込み雲の野獣やら蛇などに遭遇しましたが、やっとの思いで切り抜けると、大きな雲の真下まで辿り着きました。そこには頂上まで登るための螺旋階段が続き、夕日を受けて一層紅く煌めいているのでした。
探検家は一度てっぺんを仰ぎ見ると、螺旋階段を登り始めました。案外にも道は緩やかで、少しの汗もかかずに頂上まで辿り着きました。探検家はすぐさまナイフで筒状に雲をくり抜き、一瞬間をあけてから旗を深く突き刺しました。高く吹く風が彼の頬をすり抜けていきます。
「良かったね」
不意に下から聞こえてくる声があります。探検家は無意識に惰気を感じ、その迷い子の微笑を哀憐を含んだ眼で睨むのでした。
「ありがとう。お陰で僕も君もちゃんと帰れるよ」
迷い子は言いました。
「役に立たない物ばかりあげて悪かったね」
探検家が言いました。
「どれも立派なものだよ。求めるには及ばないけれどね」
「まあ、僕が貰ったものも、酷く質素だ」
「宝物だよ」
「そう思っていいのかい?」
「そう思わないと崩れていくよ、きっとね」
「…………音がしない?」
「この雲のしぼむ音さ。君が旗を刺したからね……それじゃ、さよならだ」
「うん、さようなら」
次の瞬間二人がいた入道雲は跡形もなく消えてなくなりました。探検家は地上へまっしぐらに落ちていきます。唯正面から吹き付ける風が、彼の頬をすり抜けていきます。
※シース
ナイフの刀身を包む鞘のようなもの。