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エイリアンズ

作者: ノグチ

少しいやらしい表現がありますが、間接的なものなので、誰でも読める作品になっていると思います。

 職員室の前に置かれた長いテーブルは、主に文化系クラブの部誌やチラシを置く場所とされている。放課後、僕がそのテーブルの上の古い会誌を新しい会誌に置き換えていると、女の子の声が左斜め後ろから聞こえた。

「すみません。超常現象研究会の人、ですよね?」

僕は心臓が強く鼓動を打つのを感じた。僕の学生生活、というか大袈裟ではなく人生において、女の子に声を掛けられる経験なんか滅多になかったからだ。

振り返るまでのわずかな間であったが、その子がどういう意図でそう聞いたのか、僕は考えずにはおれなかった。真っ先に考えられたのは嘲笑である。「超常現象研究会」とはそのような扱いを受けているクラブだった。学校中の生徒が僕等のことを、根暗で、キモい、オタクの集団であると思っていた。しかし、その想像はそれほど的外れではない。

 見覚えのない女の子だった。しかも、大変可愛い。僕は高校二年生で、今は二学期であり、この学校はマンモス校ではないから、この学校にいる誰もが薄っすら顔見知りのようなものだ。でも、見覚えがない。

そうか。二学期に入って同じ学年に女の子が転校してきたということ、その子が美人だと評判になっていたことを僕は思い出した。見覚えがなかったのはそのためだろう。美人でなくても、転校生でなくても、女の子なんか僕には無縁の存在だと初めから信じきっていた。

女の子は同じ質問を繰り返し、僕は「はい?」と聞き返した。僕はこの状況全体に対して聞き返したのかもしれない。この状況はどういうわけか、ということだった。僕は大いに混乱していた。

「あのう、それに、超常現象研究会って書いてあったから」

 僕の手にある古い会誌とテーブルに置かれた新しい会誌に、女の子は交互に視線をやった。女の子の顔に嘲笑の気配はなく、代わりに浮かんでいるのは、自分は間違ったことを言ってしまったのではないだろうかという恥じらいの表情だった。

「ああ、そうです。僕はそうです」

「僕はそうです」とは何だろう。僕ではない誰かはそうではないという意味だろうか。そんなことは当たり前のことである。超常現象研究会のメンバーは全校生徒の中のわずか五人だ。

 僕は口の中で粘ついた唾液が舌に絡むのを感じた。僕はちゃんと喋れているのだろうか。僕は彼女の顔を見たり、制服のリボンを見たり、膝小僧を見たりして、とにかく焦点が定まらなかった。赤面している。耳の端が熱い。

「やっぱり」

 女の子は安心したように微笑み、僕のネクタイを指さして言った。

「同じ学年だよね?」

「はい……みたい、ですね」

「一瞬間違えたのかと思ったよ。すごく不思議そうな顔するから」

「はぁ、すみません」

「フフフ、どうして敬語を使うの?」

「や、だって、初めて会う人なので」

「でも、同じ学年なんだし、普通でいいよ」

「や、だって、初めてだから」

 それはさっき聞いたよ。我ながら馬鹿みたいな受け答えをしてしまっている。僕の思考の速度は極端に鈍くなっていた。過度の緊張感が自意識への目配せを激しくし、目の前で起こっていることに集中することを妨げた。

「と、ところで、何の用ですか? 僕は超常現象研しゅう会の者ですけど」

「ごめんなさい。ひょっとして、私、何か気に触るようなこと言っちゃったかな?」

「へ? どうしてですか?」

「だって、さっきから怒ってるみたいな口調だから」

 ただ、緊張しているだけである。でも、それを言うと、ダサい奴と思われるかもしれないと思い、言わなかった。こんな美人できさくな子にダサいと思われるのはいくら僕でもつらい。

「全然。びっくりしてるだけだよ」

 僕はフランクさを演出するため、彼女の要求に応えてタメ口を利いた。自分の口から他人の言葉が出てきたような、物凄い違和感が密かに起こった。

「そう。なら、良かった」

「それでなんだけど、さっきもちょっと聞いたけど、君の目的は何?」

「超常現象研究会は宇宙人のことも研究してるの?」

「それはまぁ、時と場合によるよ。したりしなかったり」

 僕の知る限りでは、超常現象研究会は宇宙人のことなんか研究したことがない。と言うより、その冠に相応しい何事をも研究したことがないと言っても過言ではなかった。古い会誌でも新しい会誌でもいいが、どちらかを一読すれば、そのことはほぼ明らかだった。近所の商店街にあるゲームショップの情報が今号の主なトピックだった。前号も似たようなものだ。

 あらゆることは時と場合による。何故、そんな曖昧な答え方をしたかと言えば、場の雰囲気から、この会話が指し示す方向が僕にも何となく見えてきたからだった。にわかには信じられないことだったが。

「本当? すごいね!」

「まぁ、うん」

「この学校に来た時に先生からクラブの説明を一通り受けたんだ。あ、私、二学期になってこの学校に転校してきたんだけど」

「うん、何か、どこかで聞いたよ」

「ヒロセマユコって言います。初めまして」

「あ、はい。野田です」

 ヒロセさんが手を差し出したので、条件反射的に握手をしてしまった。僕の手は汗でヌルついていたが、ヒロセさんは嫌な顔一つしなかった。

「手、汗」

 ごめん。

「え?」

「や、な、何でもない」

 そう言えば、女の子の手を握ったのは物心がついてから初めての経験だった。柔らかくて滑らかで冷たかった。男の手とは全然違う。

「クラブの説明を受けた時から、ずっと超常現象研究会に興味を持っていたの。それで今偶然、野田君を見かけてチャンス! って思って話しかけたっていう、そういうところなんだけどね」

 何故だか自分が告白されているみたいな気分になり、僕は一層赤面し、それを隠すために俯いた。そんなこととは露知らず微笑んでいる彼女の顔を、僕は上目遣いに一瞬だけ見た。


「超常現象研究会ができたのは八十年代の初め頃らしい。年代から考えると、きっかけは『口裂け女』の流行辺りにあるのかな。それにしては少し時代遅れな気もするけどな」と会長の沼部君は言った。「『身近な超常現象を研究することは科学的知識の向上や学術的研究方法の習得に資する』とか当時の連中は言ったのかもしれない。でも、都市伝説ブームが過去に遠のいていくと共にその本義? じゃないな、ハッタリか。ま、そいつも失われて、部員の数も減り、部から会へと降格したのがおよそ十五年前になる。部を名乗るには六人以上の人間が必要だからな。その頃の会が何をしていたのかっていうと、学園祭での研究発表のみで、今のように面倒臭い会誌を三ヶ月に一回発行する必要もなかった」

「どうして、そんなこと知ってるんですか?」と僕は聞いた。

 一年以上も前の話だ。

 映画研究部の入部受付は三年B組の教室であると部活動紹介の小冊子に書いてあったので、放課後、僕はそれを片手に三年B組を訪れたのだが、そこには映画研究部員の姿はなく、超常現象研究会員の沼部君がいるだけだった。沼部君は「映画研究部は廃部になった」と僕に告げた。三月の時点で生徒会に届け出をしなかったクラブはクラブとして認められないらしい。映画研究部は届け出をしなかったため、今年からなくなったという。だからと言って、誰からも文句は出なかった。幽霊部員を大量に抱えたクラブだった。

「先輩から聞いたんだよ」と沼部君は答えた。

「一子相伝みたいなもんですか?」

「まぁ、言ったらそうだけど、世間話だよな。今みたいなもんだよ。今だってそうじゃん?」

「ええ、まぁ……すみません、話止めて。続けて下さい」

 正直に言うと、超常現象研究会の歴史に興味なんかなかった。ただ、赤の他人、しかも、年上の人間とどう接して良いかわからず、流されるように会話を続けているだけだった。その時の僕は会話の内容を聞き取ることではなく、どのタイミングで合いの手を入れるかということにのみ神経を尖らせていた。だから、この時交わされたと僕が記憶している会話はおそらく正しくない。大体、これから入会してもらおうと考えている相手にこんな嫌な話を聞かせるわけがないではないか。後になって沼部君から聞いた話が何故かこの日の会話と結びついている。この日の僕は、記憶を改竄してしまうくらいの醜態を晒してしまったということだろうか。

「えーっと、何の話だっけ?」

「え、あ……」

 何だ? 何だ? 何だ?

「あ、会誌の話な」

「そ、そうです。会誌です」

「十年くらい前の学園祭だ。その時の会長が稲川淳二の大ファンだったらしいんだけど、自分の持ってる稲川淳二の怪談ビデオを傑作選に編集して研究発表として流したんだよ。その企画を通した生徒会もどうかと思うけど、後になって非難した学校も矛盾してるっつうか何つうか、それならそうと、最初から言ってやれよって感じだよな。多分、そこまで評判になるなんて思ってなかったんだろうな。でも、普通に考えれば、評判になるのは当たり前だよ。こっちはプロのやった演目を選りすぐって出してるわけだから。残りのクラスやクラブは素人の手習いだぜ? それで、学園祭のコンテストで一位なんか獲っちゃってさ」

「あ、すごいですね」

「でも、そのせいで今の会誌の発行が始まったんだぜ、バカらしい。『超常現象研究なんて言っておきながら、全然それらしいことをしてないじゃないか』って批判が一部の教師から持ち上がったわけだ。ま、正論だけどな、遅いけどな、気付くの」

 沼部君は二年分の会誌を僕に手渡して言った。

「とは言え、それだって十年前のことだ。読めばわかるよ。今や超常現象がどうのこうのなんて何一つ書かれてない。野田君って何か趣味ある?」

「や、特にはないです」

「映画研究部に入ろうとしてたくらいだから、映画好きなんじゃないの?」

「それも何となくなんですけど」

「あ、そう。じゃあ、いいや。グルメ記事でも何でもいいから。体裁だけ整えてくれれば何の文句も出ないし。どっかの雑誌からパクってもいいよ。や、ホント。読者もいていないようなもんなんだよ。多分、顧問の中川先生だけだな。っていうか、中川先生がいていないようなもんなのか、ガハハ」

 そんなわけで、話の結びが入会してもいない僕がいきなり会誌の記事を書くよう要請されたことになっているのだから、この記憶はやっぱり怪しい。


 沼部君は二年生の時から超常現象研究会の会長だった。その社交的な性格やリーダーシップを買われたのだろう。沼部君は頼れる先輩だ。僕は沼部君に広瀬さんの話をした。

「で、その子は今どこにいるの?」

「何か今日は約束があるみたいで、すぐいなくなっちゃって、今はいないんですけど」

「俺が言うのもアレだけどさ、どうしてウチなんかに入りたいわけ?」

「その辺のことはまだ詳しく聞いてないです」

「すげえ怪しいと思う。お前童貞だよな。女と付き合ったことある?」

「や、全然ないです」

「俺もだけどさ、女って何か色々怖いって言うぜ? 俺等の間でこんな話してると、それこそ超都市伝説っぽいな。ガハハ、女は都市伝説上の生き物か? でも、俺の情報が正しければ、女ってよく嘘をつくらしいから気を付けろよ。母ちゃんはあんましウソつく印象ないけど」

「ウチの母ちゃんもそうです」

「なら、母ちゃんは母ちゃんで、女じゃないのかもな。とにかくさ、その話は怪しいっていうか。わかんないけど。勿論、入会したいなら、断る理由はないよ。ただ、その子の動機もよくわからんしなぁ」

 そう語る沼部君は見たことがないほど照れていて、僕はその身体を掻き毟るような仕草を思わず可愛らしいと感じてしまう。沼部君は百キロを優に超えるむさ苦しい巨漢である。

「春にあんなに頑張ったのにな、変なの」

 今年の入会者は一人もいなかった。そもそも、僕等の教室に来た人自体皆無だった。沼部君が「あんなに頑張った」と言うのは他の教室に乗り込んで茶々を入れたことを指している。去年みたいに、廃部になったクラブへの入部希望者を口車に乗せて入会させるような手は使えなかった。もっとも、その手が効いたのは僕だけだったわけだが。

 沼部君達先輩が会の存続を望んでいるのは、放課後に学校に居残って友達同士で遊びたいからだ。沼部君達は活動と称し、テーブルトークRPGやカードゲームばかりしている。

 超常現象研究会は僕の代で潰れるのだろう。あるいは、ゲーム同好会への鞍替えが認められれば生き残るかもしれない。「そうなったら、超最高じゃん」と沼部君は言っている。


 次の日の放課後、いつものように沼部君のクラスに行こうとリュックサックを肩に提げて立ち上がりかけると、クラスメイトの高木君が近寄ってきた。クラスメイト全員がほとんどそうなのであるが、僕は高木君とも特別仲が良いわけではなかった。でも、皆、決して悪い人達ではないと思う。僕には友達が少ないということだ。

「ねぇねぇ、野田君ってF組の広瀬さんと知り合いなの?」

「え、どうして?」

「だって、広瀬さん、野田君のこと呼んでるよ」

 慌てて教室の出入り口を見ると、広瀬さんは何気ない様子で立って手を振っていたが、僕には広瀬さんの姿が視界に飛び込んでくるという感じがした。背景にあるもの全てが遠のいてぼやけ、広瀬さんだけがはっきりとした輪郭を持っているようだった。僕は広瀬さんに会釈した。動揺や緊張を悟られてはいけない。僕ははやる気持ちを抑えるために、リュックサックを背負い直し、ゆっくり歩いていった。

広瀬さんは挨拶を交わした後、「昨日の話の続きだけど」と前置きし、「過去の会誌も読んでみたいの」と言った。既に最新号には目を通してしまったらしい。マズいことになったと思ったが、よく考えたら、入会希望者の広瀬さんは遅かれ早かれ会誌に目を通すことになったはずだから、これは予期すべき事態だった。最新号の会誌を持っている広瀬さんからは昨日の気安い雰囲気が薄れているように感じられた。落胆しているのかもしれない。もう入会する気をなくしてしまったのだろうか。話を聞くと、広瀬さんは宇宙人に関心があるようだが、僕等はその手のトピックを取り上げたことも、取り上げようと思ったこともなかった。

広瀬さんが「入会するのをやめた」と言い出しても、僕は文句を言える立場にはない。土台無理な話だった。僕が今心配しているのは、僕がオタクであることやウソをついたことがバレて広瀬さんに嫌われることだった。

 しかし、僕は促されるまま広瀬さんを二階の資料室に連れて行くほかなかった。

「会誌って大体いつもこういう風に書かれているの?」

「まぁ、うん、そう」

「野田君のことを非難するつもりはないの。でも、私の読む限りでは、超常現象の研究なんか全然していないように思えたんだけど」

 その言葉を口にしたのは広瀬さんが初めてではない。

「うん」

「超常現象研究会なのに?」

「先輩達のやる気があまりないから、そんな風になっちゃったんだ。でも、前はちゃんとしてたっていう、その、アレだから」

 先輩達を平然と売り飛している自分に、僕は自分でも驚いていた。最新号の記事のほとんどを書いたのは僕だ。僕だってカードゲームを楽しんだ。僕は卑怯者だ。

「野田君はどうして超常現象研究会に入ろうと思ったの?」

「なりゆき上仕方なく」などと言えば彼女の共感を失ってしまう。

「何となく面白そうだなって。だから、正直、今の会のあり方に疑問を感じなくはないんだ」

 僕は資料室の鍵を開けた。本来なら、会長の沼部君が管理するものなのだが、会誌の整理は僕の担当なので、一々の授受を省略し、僕が持っていることが多い。

 資料室は教室二つ分くらいの広さがあり、そこに本棚が縦に四列並んでいる、狭苦しい図書館のような場所だ。全部手に取ったことはないので、推測だが、学校やその関係団体が発行した紙媒体の情報は概ねこの中に収められているはずだ。日焼け防止のためか窓はない。

 僕は部屋に入ってすぐ右手にある電気のスイッチを手探りで押した。

 明かりがつくと、ステレス製の本棚が視界を埋める。

 僕は本棚と本棚の間を通り、広瀬さんを会誌のある一角に誘導していった。「超常現象研究会」とマジックで書かれた画用紙が資料と資料の間に挟まれていて、その画用紙から右側が超常現象研究会の歴史の全てだった。十年間で年四回発行すると考えて、会誌はおよそ四十部、その他学園祭の研究発表時に用いた資料が並んでいる。

 広瀬さんは会誌の一冊一冊に目を通していった。その間、僕もすることがないので、一緒に会誌のバックナンバーを読んだ。もっとも、広瀬さんが隣にいるから、意識の五分の四くらいはそっちへ持っていかれてしまっていて、広瀬さんのように熱心に読むのではなく、流し読みしただけだ。ただ、怒られた直後だけあって、第一号が最もしっかりした内容になっていることはわかった。年を経るごとに内容が脇道に逸れていく。沼部君は思い切りハンドルを切ったらしい。沼部君の悪戯小僧のような笑みが思い浮かんだ。

「うん、ありがとう、全部読んだ」

 広瀬さんは会誌を元に戻し、僕を見て頷いた。

 広瀬さんを先に出し、僕は資料室の電気を消し、ドアに鍵を掛けた。超常現象研究会も昔は『比較的』ちゃんとした超常現象の研究をしていたことに僕は安心していた。広瀬さんに対する言い訳の整合性は取れている。

「会長に会いに行く? それとも、もう超常研に興味はなくなっちゃったかな? そりゃそうだよね、今、あんなだもんね」

「ううん。興味は今もあるよ。昔の会誌を読んだら、面白い記事も一杯あったしね。ただ、今の会長さんとは意見が合わなそうだから、会ったら険悪な感じになっちゃうかもしれないし、それって野田君にとってもよくないだろうし」

「でも、会長も今年で卒業するから」

「そしたら、野田君が会長になるの?」

「うん。同じ学年だと、僕しか会員いないから自動的にね。っていうかまぁ、先輩達がいなくなって、来年二人以上会員を集めないと、今年で廃部になっちゃうんだけどね」

「そうなの?」

「や、そういう打算とか抜きでさ、広瀬さんみたいな真面目な人に入って欲しいって、僕は思ってたんだけど。ま、仕方ないよ、うん」

「それなら、今の会の体質を変えなきゃダメだと思う」

 彼女が真っ直ぐ僕を見たので、僕は目を逸らした。

「え?」

「友達から少し聞いたんだけど、超常現象研究会って皆にあまりいい印象を持たれていないみたいだよ? そういう変な印象を持たれちゃうのも、きっと活動内容がしっかりしてないからだよ。もし、野球をやらない野球部があったら、それはおかしいでしょう?」

「うん」

「しっかり活動していれば、変な印象も持たれないし、私や野田君みたいにちゃんと興味を持った人が入ってくるようになると思うの」

 いつの間にか一括りにされてしまっている。とても嬉しかった。

「ねぇ、野田君。今度の土曜日って空いてるかな」

「へ?」

「一緒に取材に行こうよ」

「取材って何の?」

「超常現象のだよ。それで、ちゃんと超常現象に関する記事を書いて、会誌に載せるの」

「暇は暇だけど、休みの日に?」

「あ……そうだよね。野田君にも色々用事があるもんね」

「や、今週は特には何もないんだけど」

 今週どころか、土曜日どころか、いつの日も予定はずっと入っていない。学校に行って家に帰って寝て起きて……それが僕の生活の全てだ。僕が気になったのはスケジュールではなく、何と言うか、休みの日に若い男女が外で会って何かをすることを世の中ではデートと呼ぶのではなかったか。いやいや、何を考えているのだ。広瀬さんは超常現象研究会を良くしようとしてくれているだけだ。そのための取材である。やましいことなど何もないのだ。

いくら思い直そうとしても、自然と緊張感が高まってくるのを抑えることができなかった。今日が水曜日、今日を除けば土曜日までは二日しかない。逃げ出したい気持ちと嬉しい気持ちが八対二ぐらいの割合で湧き上がってきた。

「それじゃあ、詳しいことは後で決めるとして、野田君の携帯の番号を教えてもらってもいいかな?」

 こうして僕は赤外線通信により、広瀬さんの電話番号とアドレスを手に入れた。僕は携帯を何度も開けてそのことを確認した。僕は広瀬さんと別れた後も、広瀬さんの仕草を思い出したり、広瀬さんとの会話を思い出したりしながら校内を巡り歩いた。何周もした。クラブ活動はサボることにした。それどころではなかった。


 僕の私服のほとんどはお母さんがニッセンの通販で買った服なので、デートではないにしても、女の子と一緒に外出する時に着ていくには相応しくない気がした。

僕は家に帰ると、一階の台所で夕食の用意をしている母さんの背に「一万円が欲しいんだけど」と言った。煮物が煮える、濃い醤油の匂いが玄関まで届いていた。

「一万円? 何急に。何に使うの」

「いいじゃん何でも」

「よくないでしょ、一万円も。大金じゃない」

「部活で使うんだよ」

「ふぅん、何たらかんたら研究会で?」

「そうそう」

母さんは包丁を止め、胡散臭げな目つきで僕を振り返り、エプロンで手を拭いた。食器棚の扉を開け、一番上の棚から財布を取った。小学二年生の時、僕が母さんの財布から金を盗んだことがあって、それ以来、僕が大きくなっても、母さんは小さい子供の手が届かないこの場所に財布を置いている。「使ったものを元の場所に戻さないから、お前は物をすぐになくすのよ」と母さんはよく言った。

「いいけど、部活の何に使うの」

「今度会の取材があって、皆で出かけることになったんだ。その時に来ていく服を買うんだよ」

「別にデートするわけじゃあるまいし。どうせ、沼部君と一緒に行くんでしょ?」

 沼部君は僕の家に何度か来たことがあり、母さんも沼部君を知っている。

「まぁ、アンタも年頃だし、そういうことを気にした方が良いと母さんも前から思っていたのよ。土屋君っていたでしょ、小学校が一緒だった。この間、あの子が可愛い女の子と一緒に歩いているのを母さん見たのよ。まぁ、可愛い子だったわよ」

「じゃあ、いいじゃん。ちょうだいよ」

母さんは一万円をくれた。貯めたお小遣いと足して二万円になる。これが取材費の全てだ。

 僕は制服のまま外へ引き返した。

 服を買うと決めたはいいが、どこで買ったらいいのかさっぱりわからなかったので、駅ビルに入っているユニクロに行く。

 どこで買ったらいいのかわからないくらいだから、何を買ったらいいのかはもっとわからない。別にお洒落な人だと思われる必要はないし、どんなに頑張った所で思われるわけもない。それに、広瀬さんの隣にいたら、どんな男でも個性をなくしてしまうことだろう。とにかく、小綺麗でいれば良いのだ。『清潔感は女性にとって男を見る上で重要なポイントだ』というようなことをネットで読んだ覚えがある。

結局、ジャケットとTシャツとジーパンを購入した。一万円で収まった。お店で試着するのは恥ずかしかったので、家に帰ってから着てみたのだが、それほど悪くはなっていないような気がする。大人っぽくなった感じもする。次は髪型だ。

僕は近所にある美容院に向かった。が、蛍光灯の光を反射する白い内装やガラス張りの店内にいる異様にお洒落な美容師達の姿を見ると、急速に入る気が失せていった。『お前のようなオタク野郎が何をしに来たんだ』と言われるんじゃないか、言われはしなくてもそのような視線を浴びるんじゃないか、という妄想に取り憑かれた。どうせ下町の美容院ではないか。中にはオバさんもいるし、高校生の僕が入って何がおかしい? とは言え、オバさんは女性だし、僕は男性だ。この差は大きい……。

僕は美容院の前を行ったり来たりし、コンビニに入って気もそぞろに雑誌を読んだりした。いつの間にか空は暗くなっていた。

「別に殺されるわけじゃないんだから」という沼部君の口癖を僕は思い出した。というか、僕が何をするにも躊躇い勝ちなので、沼部君から「野田は何でも考え過ぎなんだよ。別にいいじゃん。殺されるわけじゃないんだから」とよく言われる。

僕は「殺されるわけじゃあるまい」と思い切って美容院の扉を開けた。店の中を突っ切って待合の椅子に向かおうとすると、入ってすぐのところに受付があり、そこに立っていた可愛らしい女性が駆け寄ってきて「すみません、お客様、本日はご予約の方は?」と聞いた。

「し、してないです」

 僕は歩く途中の状態で固まったまま振り返った。

 受付の女性は少し笑った。微笑んだのか。微笑んだのか?

「それではそのままそちらにお掛けになってお待ち下さい」

 入り口から間違えてしまったショックで頭が真っ白になってしまい、それ以降のことについては断片的な記憶しか残っていない。いつもの逃避行動だ。

鮮明に覚えているのは、「今日はどのようにしますか」とこれまた可愛い美容師さんに聞かれ「お任せします」と言ったのに、ヘアカタログを持って来て、「こういうのとかってどうですか」と聞いてきたのに閉口したことだ。「もうよくわからないです。好きにして下さい」と言いたかった。「お客様の頭の形は」あれこれでという説明に「はぁ……はぁ……」と頷いている内に僕の髪型は決定し、カットが始まった。そして、終わった。僕が最後の客だったので、僕は美容師全員に見送られて外に出た。校内マラソンで最下位の人間を拍手で迎える残酷な光景を思い出した。その時の疲労感もマラソンのそれとほとんど同じかそれ以上だった。冷たい夜風が火照った頬に軽く触れていく。

 僕の新しい髪型は概ね好評だった。廊下で擦れ違った際に、広瀬さんが「髪を切ってグッと男らしくなったね」と褒めてくれた。それだけで全ての労苦が報われるというものだ。ところで、沼部君はというと、差し向かいで一時間以上話してからいきなり怪訝な顔つきになり、「お前、ひょっとして髪切ったか?」と聞いたのだった。


 夜の十時頃、部屋でテレビゲームをやっていたら、広瀬さんから電話が来た。僕の携帯が鳴る場合、メルマガの着信であることがほとんどなので、「広瀬さん」とディスプレイに映った名前を見ただけで携帯を取り落としそうになるほど驚いた。僕は深呼吸をし、数コール分呼び出し音をやりすごした後、あたかも今気付いたかのように電話に出た。

広瀬さんの用件は取材のことだった。当たり前だ。他に何の用があるというのだ。

広瀬さんは取材を僕の地元で行うことを提案した。初めてのデートが一方の地元というのは風情がなさ過ぎるのではないかと聞き分けのない脳味噌が主張したが、だから、これはデートではないのだとなおも言い聞かせ、それでも、僕の地元は超常現象とも無縁の町だから、やはりどうなのだろう。流行のパワースポットも有名な心霊スポットもない。数年前、暴走族だかチーマーだかチンピラだかが路上で刺殺されたことがあったし、ちょくちょく誰かが派手に死んだという話は聞く。一応、繁華街はあるので、ヤクザの事務所が地元住民なら大抵知っている場所にあるのだが、そういうことと関係しているのだろうか。ともあれ、そうして死んでいった人達に纏わる心霊体験も聞いたことがなかった。僕が広瀬さんにそのことを言うと、それなら、僕の地元の一つ手前の駅でもいいという答えが返ってきた。どこでもいいらしい。僕も広瀬さんに任せることにし、西口の駅前に待ち合わせすることに決まった。

 当日、広瀬さんはレースで飾られた黒いブラウスを着、七部丈のジーンズを履いて現れた。これと言って目立つ格好ではないが、広瀬さんの周りだけ漂っている空気が明らかに違う。下品な下町に爽やかな風が吹いた。

「待った?」と広瀬さんは言った。

 ドラマや映画の一コマのみたいだ。こういう会話は、待ち合わせをする男女の間では挨拶みたいに交わされる自然なやりとりなのだろうか。

「全然」と僕はテキスト通りに言った。

 広瀬さんが着いたのは約束の時間の五分前だったが、僕は一時間以上も前から、駅前の円形に盛り上がった広場の中央にある、大木をとり囲むベンチに座って待っていた。

 広場の注目が僕と広瀬さんに集まるのを感じた。周りからしたら僕と広瀬さんがカップルに見えるかもしれないことからくる優越感と実際はそうではないという悲しさが僕の中でない混ぜになり、何とも言いようがない気持ちになる。

「ところで今日はどこへ行くの?」

「そうだね。ここに来るまでにも何人かに会ったから、その人達でも良かったんだけど。ちょっと喉が渇いたからどこかに入らない?」

 僕は広瀬さんを近くのビルの喫茶店に連れて行った。

 エレベーターに乗り、四階で降りる。昼前だからか店内は空いていた。「煙草は吸いません……よね?」「うん」。僕達は向かい合って座った。私服の広瀬さんが僕の目の前にいる。ありえない光景だ。夢みたいだ。

「その洋服、に、に、に、似合ってるね」

「あそこにいるカップルに見える人達もそうだよ」

広瀬さんは斜向かいに座っている男女に目線をやった。広瀬さんが駅の階段から下りてきたのを見つけてからずっと言おうと思っていた台詞は、小声過ぎたこともあり、広瀬さんの言葉に被ってかき消された。

 僕はそのカップルを見ようと振り返った。

「ご注文はお決まりでしょうか」

 笑顔のウエイトレスが目の前に立っている。

「あ、僕はアイスティーで」

「じゃあ、私も同じ物」

「アイスティーをお二つ。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」

「あ、はい……え、そうって何が?」

「あの人達宇宙人だよ」

 ウエイトレスが去っていくのを見てから広瀬さんは言った。

「え?」

「パッと見、ただの人間にしか見えないけど、本当は精巧に出来た人間のスーツを着ているの。売ってるんだよ、宇宙ではそういうスーツが普通に。私達の視覚を操って人間に見せるタイプの宇宙人もいるんだけどね、彼等は一般的なタイプみたい」

僕は「え」とか「あ」とか広瀬さんの喋る合間に口を挟んだ。広瀬さんの口調には冗談めかした所は一切なく、当たり前のことを当たり前に口にしているといった自然さがあった。

「そうなんだ」

「ごめんなさい。いきなりこんなことを言われて野田君もビックリしてると思うんだけど」

「うん、正直……驚いてる」

「でも、本当のことなんだよ。この地球上には既に数え切れないほどの宇宙人がいて、私達地球人に紛れて生活しているの。ああいう風に」

「へ、へぇ、そうなんだ」

「信じられないよね?」

 広瀬さんは自嘲気味に笑った。

「や、や、信じないわけじゃないんだ。ただ、ちょっと驚いて、混乱してるだけで……だって、あの人達どう見ても普通の人だから」

「うん、うん、わかるよ。私も最初そう言われた時は信じられなかったもん」

「誰に?」と聞こうとした矢先にカップルが席を立った。

ウエイトレスが僕等のアイスティーを運んできた。広瀬さんは伝票を持って立ち上がった。

「あの二人を尾行しよう?」

「あ、注文……うん」

会計は広瀬さんが手早く済ませた。「僕が出すよ」と割り込もうとしたが、「しっ」と広瀬さんは人差し指を立ててから、自分の背後を指差した。エレベーターホールではカップルが下りのエレベーターを待っている。目立たないようにした方がいいということだ。

 エレベーターの到着が遅かったので、僕等はカップルと同じエレベーターに乗って一階へ降りた。その間、僕は二人を横目で観察していた。カップルというには少し年齢は上に見える。二人とも三十を超えているようだから、ひょっとしたら夫婦かもしれない。いや、つがいの宇宙人か?

 宇宙人達は駅ビルに入っていき、エスカレーターで地下の生鮮食料品売り場へと降りていく。宇宙人達は何か喋りながら、時々、試食品に手を出したりした。僕等も同じものを食べる。「美味しいね」と僕は広瀬さんに言ったが、広瀬さんは宇宙人に夢中で聞こえていないようだった。宇宙人達は漬物屋で真空パックにされたタクアンを一本購入した。

「私達が日本とかアメリカとか分けて住んでいる地域もね、宇宙レベルで見ると、全然違う分け方をされてるんだよ。地球はまだ未開発の惑星だから、地球で言う国連みたいなところの保護下にあって、その中でも発言権の強い星がそれぞれ取り決めた地域を管理しているの」

 広瀬さんは宇宙人達が買い物をしている間に宇宙情勢について説明してくれた。また、宇宙人達の様子をデジカメで盗撮した。慣れた手つきだった。

「彼等は地球から百億光年以上離れている別の銀河系から来た……星人ね」

「え?」

「……星人」

 全然聞き取れなかった。日本語の発音でないことが少し怖かった。

「あの人達は何が目的で地球にいるの?」

「地球は地球人だけじゃなくて宇宙人にとっても資源が豊富にある星なんだよ。地球人にはとるに足らないものでも、彼等には貴重なものだったりすることも往々にしてあるから」

「え、例えば何が?」

「お弁当のバレンがそうであることもあるって」

「え……え? ああ! バレンか……」

「彼等は調査員なんだと思う。地球にある資源を調査して、それが自分達にとって有用か否かを母星に報告するんだよ」

「タクアンを買ったのもそういう意味?」

「そうかもしれないね」

 宇宙人達はタクアンだけ買って外に出た。

 次に向かったのは駅ビルからガードで繋がっているスーパーだった。そこはこの辺りでも比較的商品の値段が高いことで知られるチェーン店だった。彼等の所得もそれなりに高いのかもしれない。

「宇宙人はああいう風に普通に生活しているものなの?」

「それはそうだよ。だって、そうしないと、私達地球人に怪しまれるし、何よりも敵対する宇宙人にバレる危険性もあるからね」

 そんなに警戒しているのなら、僕等の露骨な尾行にも気付いているのではないだろうか。

 宇宙人達は会話を楽しみながら食料品を買い込んでいった。水炊きでもやるのかもしれない。そんな感じの買い物だった。

 高所得層の新婚夫婦。それが僕の彼等に対する印象だ。

「さっきから聞いてると、広瀬さんも誰かから宇宙人や宇宙のことについて教えてもらったみたいだけど」

 僕の頭の中には美少女を騙すインチキ宗教の教祖のような人物が浮かんでいた。

「宇宙人から直接聞いたんだよ」

「アレとはまた別の?」

「そう。でも、その時のことはまだ話さないほうがいいと思う。それを話すと、野田君にも色々と話さなくちゃいけないことが出てくるから」

 少し安心したが、新たな不安も芽生えた。この妄想は彼女自身が創り上げたものかもしれないということだ。

宇宙人達はレジを通り、エコバックに買ったものを詰める。

 宇宙人達はガード下を横断し、線路沿いに歩いていった。僕が卒業した中学校の角を曲がる。広瀬さんは宇宙人を眼で追い、シャッターチャンスを伺っているので、話したいことや聞きたいことは一杯あったが、僕は無駄話を慎んだ。

秋の始め、まだ暑さは残っているものの、夏の頃の熱気に比べれば大人しいものだ。それでも、僕は脇の下に汗をかいていて、ジャケットの下はひどい状態だった。広瀬さんと一緒にいると自然ではいられなかった。身体の色々な部分に異変が起こる。

宇宙人は住宅街へ入っていった。最近建てられたばかりの新築マンションが彼等の住まいだった。当然オートロックなので、僕等の尾行もここまでだ。

「行っちゃったね」と僕は言った。

「これ以上は無理か……」

「これからどうする? もう一度出てくるのを待つ? それとも違う宇宙人を尾行する?」

 広瀬さんは腕時計に目をやった。文字盤にミッキーマウスのシルエットの入った可愛い時計だった。

「野田君これから予定ある?」

 と広瀬さんが聞いてきたので、「全然ない!」と諸手を挙げて答えたい気持ちを抑え、

「ううん」

 と控えめに答えたところ、そういうことではなかった。

「ごめんなさい。私から誘っておいてこんなこと言うのもひどいと思うけど、これから一時間後に別の約束があるの。一時間後だから、三十分くらいは続けられると思うんだけど……」

「何かいつも約束があるんだね」

 僕は素朴な感想として口にしたのだが、広瀬さんは皮肉と受け取ってしまったらしい。

「本当なら今日は一日取材にあてるつもりだったの。でも、この約束だけはどうしても外せなくて……」

「や、や、全然責めてるわけじゃないんだ。やっぱり広瀬さんは人気者なんだなぁって」

「そんなことないよ」

「うん。いいんだ」

 僕は広瀬さんを駅まで送った。改札口に向かう昇りのエスカレーターを上がる間、寂しさを悟られないように笑顔でいようとしたが、駅ビルのガラス窓に写った奇妙に歪んだ顔を見てやめた。僕がワガママを言ったら聞いてくれただろうか。優しい広瀬さんを困らせたくはない。

 広瀬さんは改札を潜る前に振り返った。

「今日の取材のことなんだけどね、写真は月曜日に渡すから、野田君は記事を書いてくれないかな?」

「え?」

 何を? どうやって?

「私、文才ないから」

「わ、わかった」

「もし、会長さんがそれを載せてくれるって言うなら、まだ可能性があるかもしれないよね、超常現象研究会復活の」

「そうだね」

「それと……本当にごめんなさい」

「ハハハ、そんな謝らなくても大丈夫だよ。記事、書くから」

 だから何を。

 広瀬さんは改札を潜り、駅のホームへ下っていき、その姿は見えなくなった。

 僕は広瀬さんがいなくなると、すぐ駅の階段を下りて家に帰った。

自分の部屋のベッドに横になる。昼寝をしようかと思ったが、広瀬さんとのおかしな会話が思い出されて眠れなかった。広瀬さんは普通の人間を指して宇宙人だと言ったり、バレンが大切な資源だと言ったりした。そして、それを記事しろと言う。広瀬さんは大丈夫なのだろうか。極めて常識的な人に見えるが、少なくともある一面において普通ではないことは確かだった。それでも、僕の広瀬さんを好きでいる気持ちに変わりはなかった。今感じている気持ちが不安なのか切なさなのか、思い出している途中でわからなくなってしまった。


 月曜日に広瀬さんからあの夫婦の写真を数枚渡された。

僕はそれを沼部君に見せた。

「何これ? 心理テストか何か?」

 沼部君は写真を繰りながら言った。

「まぁ、そんなもんです」

「コイツ等、結構金持ってんだろうな。着てるもんから何となくわかるよ」

「沼部君、服のこととかわかるんですか?」

「バカにすんなよ、ガハハ。わかんねぇけど。正解?」

「正解でしょうね」

「ほれ見ろ。そんなことはさておきカードゲームやろうぜ。お前が土曜日遊べないって言うから、こっちはずっと待ってたんだぜ?」

 僕はこの写真をもとに宇宙人の記事を書きたいという意向を沼部君に伝えず、広瀬さんには沼部君が記事の掲載を拒否したと伝えた。僕は広瀬さんにまたウソをついたわけだが、これに関しては必ずしもウソとは言えなかった。沼部君は妙な所は潔癖で、会誌にはそれこそどんな記事でも載せたが、超常現象関連の記事だけはよほど出来栄えが良い「フィクション」でない限り掲載することを見送った。

 そんな沼部君の考えるところは僕にもわからないし、広瀬さんにもわからなかったと思うが、広瀬さんは沼部君が拒否することだけは予想していたらしい。

「そっか」とあっさり言った。

「今回はダメだったけど、これからはもっと超常研に相応しい記事を書くようにするよ。そうしたら、また、入会することを考えてくれる?」

「勿論だよ」

 が、僕が超常研に相応しい記事を書くことはなく、次の会誌にも超常現象とは何の関係もない記事が載るのだろう。

沼部君は広瀬さんのことを忘れてしまったようで、彼女に関する話題はあれきりだった。

僕と広瀬さんとは友人と知り合いの間くらいの関係を保っていた。廊下で会ったら挨拶をし、雑談を交わすこともあった。でも、それだけだ。僕もそれ以上は望まなかった。広瀬さんは時々おかしなことを言った。

「あの子も宇宙人だよ。繁殖期には人間を捕食する性質があるから気を付けて」

僕の生活は微妙に変化したものの、概ね元に戻っていった。


 沼部君とは電車が違うので、帰りにはいつもホームで別れることになる。沼部君は他の先輩達を尻目に早々と指定校推薦での進学を決め、最近は僕と二人で遊ぶことが多くなっていた。

「じゃあ、また明日」

「じゃあな」

 僕の乗る電車が先に来た。

暖房の効いた車内に入った途端、眼鏡が曇った。わずかな視界を頼りに椅子に座る。手探りで鞄から眼鏡ケースを取り出し、眼鏡拭きで眼鏡を拭いた。発車を告げるベルが鳴った。

同じクラスの高木君が慌てて駆け込んできた。空席を探す高木君と目が合う。高木君は一瞬罰が悪そうな顔をした。僕と高木君は出身中学が近くて帰る方向が同じだ。親しくもない僕と会話をしなくてはならない状況になったことを面倒臭いと感じたのかもしれない。

「おう」

「やあ」

 高木君は僕の隣に座った。高木君は唾を飲み込んで荒い息を整えていた。会話の始まりは引き伸ばされる。ドアが閉まり、電車は動き出した。

 僕等はどちらからともなく学校のことを話題にし始めた。「古文の宿題やった?」「あ、まだやってない」「激ウザだよな、古文とかいって」「そうだね、古文って一体何の役に立つんだろうね」「数学とかな」。とりあえず空白を埋めるために口を開いているような状態だ。全然盛り上がらなかった。

「あ、そう言えば、野田君って広瀬さんと仲良かったよね?」

「や、仲良いってほどじゃないけどね。多少話す程度っていうか」

「あー、これって言わない方がいいかな。どうしよう。ねぇ、知ってる?」

 高木君は急に興奮したように早口になった。高木君の口調から察するに、あまりいい話題ではなさそうだった。

「何を?」

「じゃあ、やっぱり知らない? 広瀬さんの噂」

「うん」

「でも、どうなんだろう。知りたい? やー、知らない方がいいかもな」

「何何、教えてよ」

 高木君は僕のダッフルコートの袖を掴み、自分の方に引き寄せると、僕の耳元で言った。

「広瀬さんってヤリマンらしいよ」

「へ?」

「だから、広瀬さんってヤリマンなんだって」

 高木君は嬉しそうな顔をしていた。人の知り合いの悪い噂を聞かせることにサディステックな喜びを感じているのだろうか。僕はムッとしたが、表情には出さないようにした。高木君に悪意があるようには思えなかったからだ。と言いたいところだが、思えたとしても軋轢を避けるために出さないようにしたと思う。ともあれ、自分の知っている秘密を他人と共有したいというような無邪気な感じが高木君からはした。その分タチが悪いと言えば言える。

「え、けど、それって単なる噂でしょ?」

「それがそうじゃないんだよ。D組の下村っているじゃん? アイツ、俺の友達なんだけどさ、噂が本当かどうか確かめようとして聞いたんだって、本人に直接」

「『そうなんですか」って?」

「や、もっと直接的に。『やらせてくれるってホント?』って」

「ウソ……」

「ホントホント。それで、向こうが『うん』って言ったから、『じゃあ、今からやろうよ』って話になって学校でやっちゃったんだってさ。家庭科室に準備室ってあんじゃん、あそこで。すげえよな。信じられる? 俺等の学校でだぜ? もう調理実習できねぇよ」

 高木君の興奮が高まっていくのに反比例して僕の気分は冷めていった。高木君が僕と無関係なことを話しているように思えてならなかった。高木君の声が遠のき、口パクをしているみたいに見えた。高木君が隣ではなく、二三人分離れて座っているような感じがする。現実感が失せていく。

 ある瞬間、憑き物が落ちたように高木君は喋るのを止め、一呼吸置いて言った。

「悪ぃ……そうだよな。野田君、広瀬さんの友達なんだもんな。友達のこんな話、聞きたくなかったよな」

「え、それは、あの、教えてくれたのはありがたかった、よね。僕、全然知らなかったもん」

 僕も現実に戻ってきて言った。

「ホントごめん。ああ、俺、何言ってんだろ。超無神経だわ」

 高木君は空を見上げるような格好で自分の顔を両手で覆った。

高木君は何度も僕に謝った。その謝り方と自己嫌悪があまりに激しいものだったから、車内の人々が僕等を気にし出したほどだった。僕は僕でショックだったが、その場は高木君を落ち着かせることで気が紛れた。「お詫びに野田君に何か奢るわ。お詫びっていうか、それで今のがチャラになるって思ってるわけじゃないよ? でも、奢る。これは俺の気持ちとして。これはこれとして」とか何とか高木君がいきり立ち、「話自体はショックだったけど、高木君が特別何かしたわけじゃないんだから」と僕がなだめる、というようなやりとりが何度か繰り返された。皮肉にも時間はあっという間に潰れ、高木君が降りる駅に着いた。

高木君は電車を降りた後も謝り続けた。

「や、やめてよ。恥ずかしいから」

「や、や」

電車が発車する。肩を落として歩く高木君の背中が遠ざかっていった。

高木君って意外と熱い人なのかもなと僕は高木君に対する認識を改めたが、それならなおのこと仲良くなれそうにないなとも思っていた。


 数日が過ぎたが、広瀬さんの噂が頭から離れない。

その間、広瀬さんと話をする機会は二度あったが、広瀬さんはいつも通りで、僕なんかが話すことにも真剣に頷いたり、笑ったりしてくれる。高木君が話していたことは作り話なのではないかという気がしてならなかった。目の前にいる広瀬さんと高木君が語った広瀬さんが同じ人物であるとは思えなかった。でも、万が一、本当だったらと思うと怖かったので、噂の件については触れることができなかった。広瀬さんはあんなひどい噂が流れていることを知っているのだろうか。知らないのなら、教えてあげた方がいい。いいとは思う。

 妄想が膨らみ過ぎて一人で抱えきれなくなり、放課後、僕は広瀬さんの教室に行った。帰り支度をしているクラスメイトの中、広瀬さんはノートに何かを書いていたが、僕が来たことに気付いてノートを鞄にしまった。広瀬さんが一人で座っていることが少し気掛かりだった。広瀬さんは鞄を肩に掛けて歩いてきた。

「珍しいね、野田君がこっちの教室に来るなんて」

「ちょっと聞きたいことがあってさ。でも、ここじゃ人が多いからどこか別の場所にしない?」

「いいよ。面白い話?」

「あんまり愉快な話じゃないかも」

「ふぅん……じゃあ、私、いい所を知ってるから、そこで話そ」

 広瀬さんは一階の視聴覚室に僕を連れて行った。ホワイトボードに向かって階段状に下った教室の前方には巻き上げられた状態のスクリーンがあり、教室の真ん中からは映写機が下がっている。二人きりだ。僕はにわかに緊張してきた。

「うー、このくらいの季節の廊下ってかなり寒いよね」

 広瀬さんは自分の身体を抱き締め、その場で足踏みをした。僕は暖房のコントロールパネルに手を伸ばし、スイッチを入れた。

「もう冬だもん」

「だよねぇ。野田君は冬と夏どっちが好き?」

「冬かな」

「私も。夏って汗かくから嫌。それで、聞きたいことって何?」

「ホント下らない話なんだ。こんなこと広瀬さんに聞くのは失礼なんじゃないかって思う。でも、もし、知らなかったらって思うと、やっぱり知っておいた方がいいと思ったから。言う」

「うん」

「広瀬さんが色んな男の人とエッチなことをしてるって噂が流れてるんだ」

「知ってるよ」

 あまりに平然とした返答だったので、僕の方が絶句してしまった。

「あ、知ってた、の」

「うん、前の学校でもそういうの、あったしね」

「そうなんだ」

「野田君にはいつか言おうって思ってはいてたんだよ。けど、野田君は友達だから、色々心配させることになっちゃうかもしれないって思って黙ってたの」

 友達だと言ってくれたことは、僕を嬉しいような悲しいような妙な気分にさせた。

「そうなんだ。じゃ、やっぱり、ウソだったんだね。ああ、良かった。ホント心配してたんだよ。こんなことなら、早く聞いとけば……」

「噂は本当だよ」

「え?」

「順を追って話すから」

 広瀬さんは制服の裾を捲った。まさか脱ぎ出すのかと身構えたが、そうではなく、肋骨の一番下辺りで手を止めた。

「見える?」

「な、何が?」

 広瀬さんが一歩近づいてきた。

僕は一歩後ろに下がった。

広瀬さんは笑った。

「お腹のとこ。下がったら見えないよ」

「あ、そうだね。ご、ごめん」

 僕は思い切って広瀬さんのお腹に顔を近づけた。緊張が頂点に達し、脈打つコメカミの辺りで何かがぐるぐる回っているような感じがする。

 広瀬さんの肌は真っ白で、毛穴が一つも見えず、作り物みたいだった。押したら割れてホワイトチョコレートで作ったお菓子だった。となったら絶対驚くが、そんな想像が自然と沸いた。

「そこに傷みたいな痣みたいなのがあるでしょ?」

 右脇腹から臍に少し寄った所に、縦に筋が通ったような色素が沈着した箇所がある。

 僕は広瀬さんのお腹から顔を離した。立ち眩みがしていた。

「痣、あるね」

「これは痣に見えるけど痣じゃないんだよ。宇宙人にされた手術の跡なの」

「宇宙人に」


高校受験を間近に控えた頃だから、ちょうど今から二年前の話だね。学校から家への帰り道に、人通りの絶える小道が何本か枝分かれしている大通りがあるの。私は普段、大通りを通って曲がって、また大通りに出てっていう道を使ってたんだ。それが一番人通りの多くて安全なルートなの。でも、その日は喉が渇いてたから、小道に入ってジュースを買うことにしたんだよ。一番近い自動販売機は小道にあったからね。ぼんやり光ってたからね。

私が自動販売機にお金を入れようとした時だったよ。背後ですごい光がビカーって輝いたの。「何事?」って思って振り返ったよ。そしたら、そこには円盤型のUFOがあったの! でも、私はすぐに意識を失ったから、確かじゃないけど、アレは円盤型だったと思う。

気が付くと、私は硬い金属の台の上に寝かされていて、首と両手両足はベルトで拘束されて身動きは取れなくなってて。

ドーム状の銀色の天井を呆然と見ていたら、『彼女達』の顔がヌッと目の前に現れたの。グレイっているでしょ? アレの頭身を人間くらいにした……そう、昔のCMにあったペプシマンみたいな感じ、ウフフ。ま、それはいいとして、私には彼女達が宇宙人であることはすぐにわかったよ。彼女達はテレパシーを使って意思疎通を図るからね、彼女達は地球に来た目的とこれから私にすることをテレパシーで私に教えてくれたの。

 彼女達の星では男の人しか罹らない伝染病が流行って、男の人がほとんどいなくなってしまったんだって。何故、地球に来たかっていうと、私達人間と彼女達は生殖できるくらいDNAレベルでは近しい存在だから。要するに、種の保存を図る手段として、地球人の男の人を使おうと考えたんだね。でも、異種星人間の交配ってなかなか上手くいかないらしいの。それはそうだよね。こう言ったら何だけど、お互い怪物とするみたいなものだから。それに宇宙の法律で未開発惑星の住人に――この場合は地球人のことだよ――他星人の存在を知らせることは原則として禁止されているらしいの。勿論、誘拐なんてもっての他。

 そうだね。だから、これは特例中の特例なんだって彼女達も言ってたよ。でも、背に腹は変えられないもん。彼女達は私の身体に人間の技術では見ることも取り出すこともできない、微細だけど大容量の容器を埋め込んだの。私が色々な地球人の男性の精液を集められるように。それが彼女達の目的で私の使命なの。もし、容器が一杯になったら、彼女達は私の元にもう一度現れて、彼女達の星に連れて行ってくれるって言ってた。ちょっと楽しみだよね。

 嫌は嫌だけど、選ばれたんだから、しょうがないって思う。彼女達だって色々と検討した結果、私が相応しいって選んでくれたんだもん。それに、数億数十億の困った人? 宇宙人? がいて、彼等を救えるのは私だけなんだよ。テレパシーだからかもしれないけど、彼女達の生き延びたいっていう切実な思いがダイレクトに伝わってきたよ。力になりたいと思った。


 地球に来るくらい高度な技術を持っているなら、誰にも知られず、誘拐なんかしなくても、人間の精液を集めることくらい簡単なのではないかとか、広瀬さんの「物語」の揚げ足を取ろうと思えばいくらでもできたかもしれない。

しかし、僕は時々頷き、相槌を打つだけだった。広瀬さんは本気だった。余計な口を挟んだり、否定的なことを言ったりすれば、広瀬さんの態度は硬化するだけだろう。

「お医者さんやお母さん達は全然信じてくれなかったけどね。やんわり否定されたよ」

「そうなんだ」

「そういうわけだから」と広瀬さんは少し罰が悪そうに言った。「野田君も協力してくれる?」

 協力ということは、つまり、協力ということだ。広瀬さんはブレザーを脱ぎ、長机の上に置いた。制服のリボンを外す。

「ちょ、ちょっと待って。そ、そういうのはダメだよ」

 広瀬さんは不思議そうに僕を見た。

「どうして?」

「ダメなんだ。何て言ったらいいかわからないけど……ダメだ」

「野田君には彼等を助けられる力があるんだよ?」

 僕は首を横に振った。ここで広瀬さんとセックスをしてしまったら、彼女を利用した他の連中と自分が同じレベルになってしまうような気がしたからだ。

僕は広瀬さんが好きだ。でも、広瀬さんは僕を好きではない。好きでもないのにそんなことをするのはおかしい。おかしいが、してみたいと一瞬たりとも思わなかったかと言えばウソになる。というか、大いにしてみたいと思った。寸前で踏み留まれただけだ。もう一押しされていれば、僕は広瀬さんに触れていただろう。何のことはない、僕も他の連中と大差ないのだ。

 広瀬さんは僕が彼女の話を信じなかったと思ったかもしれない。あるいは、広瀬さんとセックスをした連中より僕の方が不人情だと思ったかもしれない。

広瀬さんは僕に背を向け、黙ってリボンを着け直してブレザーを羽織った。

「い、いや、あの……」

「ううん、いいの」

 広瀬さんは視聴覚室を出て行った。僕は広瀬さんが去ってからもしばらくその場に残っていた。僕は広瀬さんが他の誰かとこの場所でセックスをしている場面を想像した。僕は暖房と電気を消して視聴覚室を出た。廊下は寒かった。


 広瀬さんと話せば鬱々とした気持ちを解消できるかと思ったら、むしろ逆で一層ひどくなり、それからまた一週間くらいまたあれこれ考え続けた結果、僕は地元の駅前にあるドンキホーテのパーティグッズ売り場に行った。

鼻眼鏡やクラッカーや風船等が置かれ、原色で彩られた一角にハロウィンに使うような衣装も並んでいる。宇宙人のコスチュームもあった。銀色の全身タイツにゴム製のマスクがついていた。一万円近くする。着る前からわかったが、張りぼて以外の何者でもない。

 広瀬さんを呼び出す方法は手紙にすることにした。それ以外思いつかなかった。「午後六時、三年D組」と自室の勉強机の上でA4のコピー用紙に書いた。しかし、これでは何のことかわかりづらいと思い、「に来い」と末尾に付け加えた。「来い」だと表現が強過ぎる。「来い」は削った。普通に書くと人間味が出てしまうので、筆圧を強めて角ばった字で書く。何だか徐々にサイコじみてきたように気がする。最終的にはパソコンで打ち直した。テレパシーで会話をする宇宙人が手紙をパソコンで打つという。

テレパシーと言えば、どうやって宇宙人は広瀬さんに喋りかけるのだろう。「ワレワレハウチュウジンダ」……。

僕が宇宙人になり代わり、広瀬さんを悪夢のような妄想から解放する。そんなアイディアを深夜のベッドの中で思いついた時、我ながらいい考えだと興奮したものだが、翌朝目を覚まして現実的な手続きを頭の中でシミュレートし、あまつさえ進めていく内に、自分の想像力の貧困さが明らかになるばかりで、途中からはやめるべきではないかと思えてならなかった。

広瀬さんはおかしな妄想に取り憑かれているが、頭がおかしいわけではない。僕が宇宙人の格好をして現れたら、馬鹿にしているとしか思わないだろう。僕は広瀬さんを馬鹿にしているのか。おかしな妄想に取り憑かれているくらいだから、こんなハッタリさえ信じるかもしれないと考えているのか。

ただ、何もしないでいるわけにはいかなかっただけだ。万に一つでも広瀬さんを救える可能性があるなら。せめて、広瀬さんを思って何かをする人間がいることだけでも伝えたかった。結果的に広瀬さんに嫌われるようなことになっても構わなかった。残された時間は少ないように思う。

「考えた結果がこれか」と思わないではないが、正攻法が通じるなら僕の出番などない。

 当日、クラスの誰よりも早く登校した僕は、手紙を広瀬さんのロッカーに入れ、衣装の入ったビニール袋を自分のロッカーに入れた。授業を空ろにやり過ごし、時が来るのをひたすらに待った。閉門は午後七時だが、五時過ぎには校舎からほとんど人はいなくなる。今日は吹奏楽部の活動日ではないからだ。

僕は校舎から人がいなくなったのを見計らってからトイレに行き、宇宙人の衣装に着替えた。タイツの下にはヒートテックを装着していたが、死ぬほど寒かった。

三年D組の教室で待った。宇宙人が座っているのはおかしい気がしたから、教壇の横に立っていることにした。ドアは閉めておこう。電気は消したままだ。校庭の照明がコスチュームを輝かせ、幻想的に見えないこともなかった。暖房もつけなかった。宇宙人は寒さに強いイメージがある。が、僕は人間なので尿意を催し、慌ててもう一度トイレに行った。

教室のドアが開いた。

広瀬さんはドアに手を掛けた状態で動きを止めた。さぞ驚いたことだろう。

 僕も広瀬さんを見つめていた。喋ろうとしたが声が出ず、出そうと意識すると、喉が締め付けられたように苦しくなった。何とかしようと焦れば焦るほど、締め付けが一層きつくなり、苦しみもひどくなった。

広瀬さんの固まった表情は徐々に崩れ、後には寂しそうな微笑みが残った。

「野田君だよね?」

 いきなり言われて怯んだ。何故、わかったのだろう。

「いや、違う。私は以前君に手術を施した宇宙人だ」

 怯んだ拍子に身体の強張りが解け、地声がするりと出た。馬鹿馬鹿しさが極まった。

「野田君?」

「私達は君の他にも人間の女性数百人に同様の手術を施し、人間の精液を採集した。私達の計画は今や十分な水準に達しようとしている」

 用意した台詞を大きくはっきり口にした。狙ったわけではないが、宇宙人のものと一般的に信じられているような平板な発音になった。僕は真剣に語りかけることを心掛けた。

「ねぇ、野田君、もういいんだよ」

「野田とは誰だ」

 広瀬さんは僕を指差した。

「野田君のことだよ」

「私は宇宙人だ。野田ではない。ところで、話を続けるが……」

 広瀬さんは僕に近づいてきた。広瀬さんがマスクを取ろうとしていることに気付き、僕は身体を捻ってかわした。教壇の縁に足を引っ掛け、転びそうになる。

広瀬さんが僕の手を掴んだ。初めて会った時握った広瀬さんの手の感触が思い出された。柔らかく滑らかで、温かく感じたのは僕の手が冷たくなり過ぎていたからかもしれない。

「大丈夫?」

「う、うん」

僕は前列に並んだ机にもう片方の手をつき、バランスを整えて身体を起こした。

「ヒーター、入れる?」

 僕は頷いた。

どのような結末を具体的に望んでいたのか、僕自身も忘れてしまっていた。こんなことになることもある程度予感していたような気がする。何にしろ、成功など望むべくもなかった。

 広瀬さんは床に膝をついてガスの元栓を開け、ヒーターのスイッチを入れた。

「水入ってるかな」と広瀬さんは呟いた。「ま、いっか」

僕等はヒーターを背に並んで座った。ヒーターの内部で振動と共に機械が動き出し、温風が吹き出てきた。またおしっこがしたくなった。瞬間的な身体の震えが不随意に起きた。

「寒かったでしょう?」と広瀬さんは僕のタイツの腕の部分を引っ張った。「すごく薄いね」

「滅茶苦茶寒いよ」

「コレどこで買ったの?」

「ドンキホーテ」

「そうかなって思った。野田君の地元に行った時、駅前にドンキあったもんね」

「これでも一万円近くしたんだよ。それでこの出来栄えだから、どうなんだよって感じだよね」

「何か色々申し訳なかったね。お金も遣わせちゃったんだよね」

「それは全然いいんだ、僕が勝手にやったことだし」と僕は言った。「不思議だったのはさ、呼び出したが僕だってすぐわかったみたいだったよね。教室に入った瞬間に」

「あのことを学校で知っているのは野田君だけだから」

「え?」

「私の使命を知ってるのは、地球人ではお母さんとお医者さんと野田君だけだもん」

「それを……どうして、そんな、僕に?」

「野田君は超常現象研究会の熱心な会員だもん。それに、友達だから、信じてくれるかもしれないって思ったんだよ」

 広瀬さんは宙を見つめて言った。僕を責めているような口調ではなかったが、だからこそなのか、僕は何もかもが手遅れなことを悟った。

「広瀬さんのことが好きなんだ」

 僕はヤケクソになったわけではなかった。多分、今を逃したら、二度と言う機会がないと思ったから、今まで考えることも躊躇っていたようなことも自然と口にすることができたのだ。続いて涙が出た。このどうしようもない状況が泣けてきたのか。マスクを取れなくなった。

「それはね、何となく気付いてたよ。今日もそういうアレで、こういうことなんだよね」

「他にどうすればいいのかわからなかったけど、何かしなきゃって思って。こんなのでどうかなるって思ったわけじゃないけど、いてもたってもいられなかったから。何か、超馬鹿って感じだよね」

「そういうのはすごく感じたよ。あ、馬鹿ってことじゃなくて、気持ちの部分がね。うん。嬉しかった。嬉しかったし、ちょっと複雑な気持ちだね」

 広瀬さんは三角座りをした上履きの爪先を見つめていた。

「正直、宇宙人の話は僕にはよくわからなかった。すごく考えたけど、わからなかった。でも、広瀬さんが色々な男の人と、その、関係を持つのは間違ってると思った、絶対に」

「そうだね」

「もし、宇宙人の話が本当だとしても、広瀬さんだけがそんなつらい役割を担う必要なんかないよ。広瀬さんのお父さんお母さんも、お医者さんも、友達も皆心配してる」

「わかってる」

「わかってないよ!」

 自分の大声に自分で驚いた。

 広瀬さんは何もわかっていなかった。僕をなだめようと、その場しのぎの受け答えをしているだけだ。僕と広瀬さんの間には飛び越えられないほどの深い溝ができていて、僕が発した言葉は全てそこに落ちていくみたいだった。

「これからは野田君の言う通りにするよ。やっぱり、皆からしたら良くないことなんだろうなっていうのは、時々、私も考えるもん」

「そうじゃないんだ、広瀬さん」

「え?」

「いや、だから……」

 言うべき言葉がなくなった。ヒーターの振動する音がやけに大きく響く。僕は広瀬さんを見た。目が合ったので、やはり、僕は視線を外した。

広瀬さんは僕の肩に手を回した。僕の肩に広瀬さんの肋骨が触れた。

「泣かないで」

「泣いてない」

「ウソ。さっきから鼻水啜ってる」

 僕はタイツの二の腕で鼻の下を擦った。マスクの中で湿った感触が広がるだけだった。

僕等はどちらからともなく笑い、笑い声が途切れた時、僕は広瀬さんの腕をゆっくり解いた。

「帰ろうか」と僕は言った。「僕の用事はもう終わっちゃったよ」

「もうすぐ七時だね」

 広瀬さんは壁掛け時計を見た。

 僕はヒーターのガスの元栓を閉め、ヒーターの電源を切った。広瀬さんが先に教室を出て、僕は後をついていく。二階まで階段を降りて渡り廊下を歩いた。

「マスク、取らないの? 息苦しくない?」

「ひどい顔してるから」

「だから、見てみたいって、ちょっと思ったんだけど」

 広瀬さんは悪戯っぽく笑った。

 僕は一階の昇降口前の広間で立ち止まった。広瀬さんは昇降口へ歩いていき、ロッカーを開けてローファーを取り出して履いた。

「どうしたの、野田君?」

「僕、着替えなきゃいけないから。これじゃあ、外出れないでしょ?」

「あ、そう言えばそうだね。待ってようか?」

「いいよ、もう遅いからね。閉門ギリギリになっちゃうかもしれないし」

 広瀬さんは頷いた。

「じゃあ」と僕は片手を挙げて言った。

「じゃあね」

「うん」

 広瀬さんは昇降口のドアを押し開け、校庭のライトに照らされた犬走りを歩いていく。広瀬さんの姿が見えなくなるのを見届けてから、僕は一階の男子トイレに駆け込んで小便をした。残念ながら教室を出てからは尿意ばかりが気になって、広瀬さんとの会話に集中できてくなっていたことをここに告白しておきたい。あれが広瀬さんとの最後の別れになるとは思ってもみなかったから、今思えば、もっと色々な話をしとけば良かったなとよく考える。


 それから数日して広瀬さんは学校へ来なくなったらしい。F組の担任が同じクラスの生徒だけに広瀬さんの転校を告げた。様々な噂が乱れ飛んだ。そういう噂の結末としてよく用いられたのは、広瀬さんが誰か知らない男の子供を妊娠したというものとエイズに感染したというものだった。

 ある日の放課後、いつものように空いた教室でカードゲームをしている僕と沼部君の元に野球部の一年生が二人やってきた。揃って坊主頭だったから、野球部だとすぐにわかった。

「先輩達、超常現象研究会の人っすよね?」と一人が聞いた。

「そうだけど」と沼部君は言った。

「実は見て欲しいもんがあるんすけど」

そう言って一人はもう一人の肩を小突いた。もう一人は制服の上着のポケットから何枚かの写真を取り出した。

「広瀬先輩ってご存知ですよね? この間転校した」

「ああ、うん」と僕は言った。

「コレ、広瀬先輩が学校に来なくなる何日か前の日に偶然撮った奴です。俺等、グランド清掃で最後まで残ってたんですけど、そん時、自分偶然デジカメ持って来てたんで、たまたま撮れたんですけど」

 沼部君は野球部員から写真を受け取って、内容を確認するとけたたましく笑った。

腹を抱え、目の縁に涙を浮かべながら僕に写真を渡す。

写真には、二階の渡り廊下を歩く広瀬さんと宇宙人のコスチュームを着た僕が写っていた。校庭側からのライトに照らされたおかげで、広瀬さんであることがわずかに確認でき、ハリボテの衣装も本物らしく映っていた。

 野球部員は馬鹿にされたと感じたのか不服そうだったが、そこは体育会系、沼部君の笑顔を無表情に睨むだけだった。

「笑って悪かったな。ありがとう。情報提供に感謝するよ」と沼部君は言った。

「コレ、もらっていいかな?」と僕は言った。

「え? あ、はい」と写真を撮った方の野球部員は言った。

「何コレ」と二人がいなくなってから沼部君は写真を摘んで言った。「どういうこと? 仮装パーティでもあったの?」

「コレ、記事にしてもいいですかね? 号外みたいな感じで」

「別にいいけど」

「まぁ、できたらですけどね」

 僕等はカードゲームを再開した。

 数日後、僕が書き上げた記事を読み、沼部君は「面白いじゃん」と言った。沼部君が僕の記事を、しかも超常現象に関する記事を読んで面白いと言ったのは初めてのことだった。実質的なゴーサインが下りたわけだ。やはり、中川先生は何も言わなかった。

 職員室の前に置かれた長いテーブルは、主に文化系クラブの部誌やチラシを置く場所とされている。放課後、僕はそのテーブルの上の古い会誌の横に号外を置く。かつて、ここで僕に声を掛けてくれた女の子がいたことを僕は懐かしく感じる。だが、彼女はもういない。

 号外はおそらく会誌の発行が始まって以来のスピードではけていった。評判が評判を呼び、増刷の依頼までかかった。間もなく、僕と沼部君は校長先生に呼び出された。身近な人物に関する根も葉もない作り話をみだりに書き立てるのはマズいということだった。沼部君が軽く反発したものだから、話は会の存続にまで及んだ。沼部君は「超常現象を科学的に研究することは科学的知識の向上や学術的研究方法の習得に資する」と抗弁した。議論の末、校長先生が振り上げた拳を下ろしたのは、中川先生の「どうせ来年には廃部になることですし」という顧問のものとは思えない一言によってだった。号外は発行禁止処分を受けた。

 ところが、大方の予想に反して、超常現象研究会の存続は決定した。例の記事を読んで興味を抱いた一年生が二人入会してくれたからだ。卒業間際、沼部君は「これもお前のおかげだよ。ゲーム同好会への鞍替えは延期されちゃっただけどな」と言って笑った。「ガハハ」

 こうして僕は超常現象研究会の新しい会長となり、相変わらずテーブルトークRPGやカードゲームを楽しんでいる。あの号外のことも、広瀬さんのことも、話題にする人は今や誰もいない。それでも、時々、僕は自分の机の奥にしまった号外を読み返しては、彼女と同じ時間を過ごしたことを確かに思い出す。

『本校に宇宙人襲来! 女生徒一人を誘拐か!?』


【終】


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