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落ちこぼれ測量士、亡国の姫と“敵が渡れない道”を造る/一夜で千を超える避難民を救いました

作者: スドタケ
掲載日:2026/07/09

「止めろ! その荷車を橋へ乗せるな!」


ルカ・セイルが叫んだ時、避難民の先頭はもう石橋へ押し寄せかけていた。


濡れた街道を、人と荷車の列が埋めている。


毛布に包まれた負傷者。


泣く力もなく母親の胸に顔を伏せた子ども。


杖を落としても拾う余裕のない老人。


列は丘の向こうまで折れ曲がり、最後尾は見えなかった。


ベルナード王都は焼けた。


昨夜には国境砦も落ちた。


逃げてきた民は、千人を超えている。


橋を渡れば、南の旧街道へ出られる。


その先には聖王国アルディアの国境門がある。


そこまで行けば、すぐに楽になるわけではない。


それでも壁があり、兵がいて、少なくとも今ここで追いつかれるよりは生き残れる。


だから誰も、橋の前で止まりたくはなかった。


「何をしている! 進ませろ!」


馬上から怒鳴ったのは、護衛隊長のバルトスだった。


煤で汚れた鎧の肩には乾いた血が固まり、眠っていない目は赤く濁っている。


護衛の兵は百にも満たない。


まともに剣を振れる者となれば、もっと少ない。


それでも彼らが後ろを守らなければ、避難民の列はとっくに敵の軍勢に呑まれていた。


「橋が落ちます」


ルカは言った。


「昨日の雨で濡れているだけだ。脅すな、杭打ち係」


「測量士です」


「なら測っていろ。人を止める権限はない」


ルカは測量杖を握り直した。


怖いのはバルトスの怒声ではない。


自分が間違っていて、この数分で敵に追いつかれることの方だった。


だが、橋は渡れない。


橋を支えている石柱の根元から、茶色い水が細く流れている。


表面を流れた雨水ではない。


柱の下の土が削られ、川へ吸い出されている色だった。


橋の手すりに残る古い測量印も、川側へほんの少し沈んでいる。


子どもの頃、父とこの橋を歩いたことがある。


雪どけ水で川が太ると、北の石柱の下ばかりが削られる。


石が丈夫でも、足元の土が抜けた橋は、いつか身体をひねるように崩れる。


父はそう言っていた。


今、川がごぼっと濁った泡を吐いた。


「本当に落ちます。荷車を乗せたら、先頭から川へ落ちる」


「拘束しろ」


バルトスの声とほぼ同時に、いら立った御者が馬を進めた。


「橋が保つかどうかは、乗せれば分かる!」


「待て!」


ルカは走った。


荷車の横へ飛び込み、馬の手綱を掴んで力いっぱい横へ引く。


驚いた馬が前脚を跳ね上げた。


荷台で、幼い兄妹が身体をぶつけて悲鳴を上げる。


「何をする!」


御者が鞭を振り上げる。


車輪が、橋の入口の石へ乗った。


みし、と嫌な音がした。


その場の声が、いっせいに止まる。


「降りろ!」


ルカは荷台へ手を伸ばした。


妹を抱えていた少年の腕を掴み、そのまま泥の上へ引きずり下ろす。


御者も兵に引き倒され、馬の身体へ綱が投げられた。


次に、石橋の入口が割れた。


荷車の前輪が沈み、馬が暴れる。


兵たちが綱へ身体ごとぶら下がり、ぎりぎりで馬と荷車を泥の上へ引き戻した。


橋の中央が、一度だけ大きく沈んだ。


それから、崩れた。


谷の底から腹に響く音が上がった。


石の塊が川へなだれ落ち、跳ねた水が岸の兵にまで降りかかる。


さっきまで早く渡せと怒鳴っていた者たちが、何も言えずに立ち尽くしていた。


その前で、千人を超える列が止まった。


先頭の者たちは助かったことに震えている。


だが、列の後ろでは橋が落ちたことさえ分からない。


なぜ進まないのか、誰が止めているのか、怒鳴り声と泣き声がふくらんでいく。


泥に座り込んだ少年が、妹を抱いたままルカを見た。


「……僕たち、落ちるところだったの?」


「もう大丈夫だ。君の名前は?」


「ノエル。こっちはミナ」


「ノエル、ミナを離すな」


言い終える前に、街道の後ろから馬が飛んできた。


偵察兵は地面へ転げ落ちるように降り、息を切らして叫んだ。


「敵です! 敵兵の先頭部隊だけで三百以上! その後ろに歩兵の列、さらに大型兵器も来ています!」


ざわめきが悲鳴へ変わった。


敵兵。


大型兵器。


この数日で、逃げてきた者たちが何度も口にした言葉だった。


何に追われているのか、ルカにも正確なことは分からなかった。


魔物だと言う者もいた。


鉄の兵だと言う者もいた。


人の形をしているのに、血も流さず、声も上げず、ただ命令されたみたいに進んでくる軍勢だと、震えながら話す兵もいた。


分かっているのは一つだけだ。


あれに追いつかれたら、ここにいる人たちの命はない。


バルトスは崩れた橋を睨み、剣を抜いた。


「歩ける者は南の山道へ走れ! 兵は最後尾を守る! 荷車の者は――」


「その山道は駄目です」


ルカは言った。


バルトスが振り向く。


今度の顔には、怒りだけでは済まないものがあった。


「もう一度、私を止める気か」


「峠の手前が崩れています。昨日こちらへ来る時に見ました。千人が入れば、途中で詰まります」


「なら、ここで死ねと言うのか!」


「まだ道があります」


ルカは腰の革筒から、煤と雨で汚れた地図を取り出した。


王立測量院の上官には、役に立たない古い地図だと笑われたものだ。


新しい軍道だけを載せた地図なら、今はもう落ちた橋と、崩れた山道しか残っていない。


けれどこの紙には、昔使われていた道が記されている。


橋の南。


白粘原。


昔、白い土を掘っていた広い平地だ。


掘る者がいなくなったあと、荷を運ぶために固めた道だけが、原を弧のように横切っていた。


「白粘原を抜けます」


「泥地へ民を入れるのか」


「固い道が一本残っています。人なら通せます」


「敵も通るだろう」


「通らせません」


ルカは地図を握った。


「人が渡り終えたら、原を沈めます。敵兵の一部は来るかもしれません。でも大型兵器は重すぎる」


言いながら、自分の声が少し乾いているのが分かった。


固い道が本当に残っているかは、行って確かめるしかない。


古い水路がまだ使えるかも分からない。


道が一か所でも切れていれば、千人の列は平地の真ん中で止まる。


バルトスもそれを分かっているから、すぐには返事をしなかった。


「隊長、時間がありません」


「お前は王立測量院でも最低等級だったそうだな。軍道の設計試験に落ち、地図を描く術も使えず、杭を担いで歩いていた」


「はい」


「そのお前に、千人の命を預けろと?」


「俺は広い国を一度に描けません」


ルカは崩れた橋を見た。


「でも、今踏んでいい地面なら、見つけられます」


その時、人垣の中から灰色の外套を着た娘が出てきた。


止めようとした老女の手を外し、娘は泥の上へ膝をつく。


裾に縫い込まれていた布を裂くと、その裏から銀色の小さな飾りが現れた。


折れた月桂樹を抱く白鹿。


焼け落ちたベルナード王家の紋章だった。


バルトスが目を見開き、剣を地面へ立てて膝をついた。


「セレナ殿下……ご無事で……」


避難民たちの声が、波のように揺れた。


娘――セレナは、泥のついた顔のまま長い列を振り返った。


「私は三日間、名を伏せてこの列の中を歩きました。水を子どもへ譲る人を見ました。歩けない老人を、名前も知らない者同士で荷車へ乗せるところを見ました。百にも満たない兵が、千を超える民のために眠らず後ろを守ってくれたのを見ました」


最後の言葉だけ、少し震えた。


「その人たちを、歩けるかどうかだけで捨てるために、私は生き残ったのではありません」


「しかし、殿下まで失うわけには――」


「橋が落ちることを見抜いたのは、この測量士です」


セレナはルカへ向き直る。


「名は?」


「ルカ・セイルです」


「ルカ。何が必要ですか」


命令ではなく、任せる声だった。


その一言で、不安が消えたわけではない。


失敗すれば全員死ぬ。


その重さは変わらない。


けれど、立っている暇はなくなった。


「縄と杭を全部。荷車は置いていきます。板だけ外してください。担架と、子どもを運ぶ分だけに使います。歩ける人は荷を捨てる。道は俺が先に確認します」


セレナはすぐに民へ向いた。


「聞いた通りです。荷を置くのが苦しいことは分かります。けれど、命だけは持っていきましょう。向こうへ渡ったあと、また手に入れるために」


最初に動いたのはノエルだった。


妹を近くの女へ預けると、自分が乗っていた荷車の縄を外し始める。


「板、使うんですよね。僕もやります」


老いた職人が杖を放り、荷車へ寄った。


「小僧、その結び目じゃ夜が明ける。貸せ」


一人が動くと、もう一人が続いた。


荷箱を抱いて泣く者もいた。


最後まで離せずにいた者もいる。


兵に肩を抱かれて、ようやく手を離す者もいた。


ルカは地図を畳み、白粘原へ向かって走り出した。



◇ ◇ ◇


原へ着いた時には、空に月も見えなかった。


松明の灯りの先に、白い地面が広がっている。


乾いているように見えるが、踏み方を間違えれば脚を取られる。


後ろから来るのは千人だ。


ひとり沈めば、次の者が止まり、列はすぐに崩れる。


ルカは先の尖った杖を握り、地面を叩いた。


こつ。


固い。


右へ半歩。


ずぶ、と杖の先が沈む。


「ここから外へ出ないでください! 布を結んだ杭の間だけを進む!」


兵がルカの声を後ろへ送る。


固い道は、まだあった。


大人二人がぎりぎり並べる幅で、白い原を大きく曲がりながら南の林へ伸びている。


ただ、途中で三か所、土が崩れている。


そこへ荷車から外した板を渡し、担架も子どもも一列で通すしかない。


ルカは杖を突き、杭を打ち続けた。


「布!」


「はい!」


ノエルが追いつき、杭へ赤い布を結んでいく。


ルカは振り返った。


「妹のそばにいろと言っただろ」


「ミナは向こうで待っててもらいます。僕、足手まといにはなりません」


「ここは落ちたら助けられない」


「橋で助けてもらったから、分かってます」


子どもの顔に、泣きそうな怖さが残っている。


それでも手は動いていた。


「布は必ず道の内側へ結べ。風で裏返っても間違えないように、二回巻け」


「はい!」


背後では、荷を置いてきた人々が白粘原へ足を踏み入れ始めた。


泣きながら歩く女の腕には、箱の代わりに赤ん坊が抱かれている。


負傷兵を載せた担架が板を軋ませ、老人が「先へ行け」と言いながらも若者の肩へ体重を預けている。


列は進んだ。


遅い。


それでも止まってはいない。


「ルカ!」


セレナが、外した板の端を兵と一緒に押さえていた。


王女の手は泥で汚れ、指先から血が出ている。


「敵の灯りが見えました!」


北の丘の向こうに、赤い灯りが揺れ始めていた。


低い音がする。


馬の足音ではない。


もっと重く、同じ間隔で地面を叩く音だった。


白粘原へ入った避難民の間から、小さな悲鳴が上がった。


恐怖に押されて列が速くなる。


前の老人が転び、後ろの男が避けようとして杭の外へ片足を踏み出した。


「止まるな、押すな!」


ルカが駆け寄り、男の腕を掴む。


足首まで沈んだ泥が靴を呑み込み、引き抜くとずぶっと嫌な音を立てた。


「道の外へ出たら死にます! 走るより、杭を見ろ!」


声を張った直後、丘の上に敵の姿が現れた。


人影だった。


何十、何百という敵兵が、横に広がりながら下ってくる。


手には槍や長い刃を持ち、隊列を崩さず進んでいた。


さらに後ろから、大型兵器が何台も進んでくる。


車輪ではなく、太い脚のようなもので地面を踏み、泥を跳ね上げていた。


「来たぞ!」


兵たちが列の外側へ並ぶ。


バルトスが盾を持ったまま前へ出た。


「弓、構え! 近いものだけ狙え! 深追いするな!」


敵兵の先頭が白粘原へ入った。


一人が道の外へ踏み込み、腰まで沈む。


後ろの敵兵がそれを避け、杭の道へ向かって回り込もうとした。


「こっちの道を見つけられます!」


ノエルが叫ぶ。


「分かってる!」


ルカは地図を見る。


古い水路の場所。


白粘原の北端に、排水を切り替える石蓋がある。


そこを壊せば、原の中央へ水が戻るはずだ。


だが、そこまで行くには敵の方へ戻らなければならない。


「隊長、爆晶はありますか」


バルトスが振り向いた。


「砦を壊して逃げるために持ち出したものが三つある」


「三つともください」


「何に使う」


「地面に使います」


「敵ではなく?」


「地面の方が敵を止めます」


バルトスは一瞬だけ黙り、革袋を投げた。


「外すなよ、測量士」


「外したら、謝ります」


「謝る時間があると思うな!」


ルカは爆晶を抱えて、道を逆向きに走った。


「僕も行く!」


ノエルが追ってくる。


「来るな!」


「杭の場所を見失ったら、ルカさんが戻れません!」


言い返す間がなかった。


敵兵がすぐ近くで泥を跳ねた。


兵の盾に刃が当たり、硬い音が散る。


「俺の足跡から絶対に出るな!」


「はい!」


二人は避難民の横を抜け、敵へ近づく方向に走った。


ルカは杖で地面を叩く。


こつ。


違う。


右へ二歩。


ずぶ。


違う。


松明の灯りが揺れる。


泥の匂いが強くなる。


後ろでは誰かが泣いていた。


「早く……!」


ノエルの声が裏返った。


ルカは息を止め、もう一度杖を落とす。


こん。


軽い音が返った。


下に空洞がある。


「ここだ!」


ルカは膝をつき、素手で泥を掻いた。


爪の間に砂が入り、指先が裂ける。


石の蓋が現れた。


古い採掘場の印が、まだ薄く残っている。


「爆晶を二つ入れろ!」


「三つじゃないんですか」


「一つは持って走れ。道が切れた時に使う!」


ノエルが穴へ爆晶を押し込む。


ルカは火を移す紐を伸ばし、火打石を叩いた。


一度目は、湿った紐で消えた。


敵兵の一人がこちらを向いた。


弓を構える。


「伏せろ!」


矢が飛び、ルカの肩のすぐ横で泥が跳ねた。


二度目の火花が、紐へ食いついた。


「走れ、ノエル!」


二人は杭の間を走った。


後ろから敵兵が追う。


遠回りを嫌った大型兵器の先頭が、避難民の通る道を横切るように、白い平地の中央へ踏み込んだ。


それを待っていた。


爆晶が弾けた。


ずん、と原が下から殴られる。


土が盛り上がり、黒い水が裂け目から噴き出した。


最初の敵兵が脚を取られ、倒れる。


後続が避けられずにぶつかり、人の列が崩れた。


大型兵器の太い脚が泥へ沈み、抜こうとする動きでさらに身体を傾ける。


後ろの兵器が止まりきれず、前の車体へぶつかった。


白かった原が、黒い沼へ変わっていく。


「効いた……!」


ノエルが叫ぶ。


「喜ぶのはまだだ。走れ!」


敵が沈んだのは中央だけだ。


ルカたちの道は、細い固い土の上に残っている。


敵兵の何人かは、泥を避けて杭の道へ入ってきた。


そして水は、こちらの道の縁にもじわじわと染み出していた。


「急げ! 道が沈むぞ!」


ルカは避難民の列へ戻った。


最後の数百人が板を越えようとしている。


担架の一つが傾き、板の端から滑り落ちかけた。


ルカとセレナが同時に飛びついた。


「上げて!」


セレナの手が担架の木枠へ食い込む。


兵が後ろから押し、負傷者を載せた担架が板の向こうへ渡った。


「殿下、先へ!」


「最後までいます」


「あなたが沈んだら、何のためにここまで――」


「今は言い合っている時間ではありません」


セレナは短く言い、次の板を押さえた。


返す言葉がなく、ルカは次の担架へ走った。


泥の向こうでは、大型兵器の一台が砲口を持ち上げている。


半分沈みながらも、こちらへ狙いを定めていた。


「あれが撃つぞ!」


バルトスが叫んだ。


あれが列へ落ちれば、板の前に集まった者たちがまとめて吹き飛ぶ。


ルカは砲口ではなく、足元を見た。


右側は沈んでいる。


左脚だけが、黒い岩のそばの固い土に引っかかっていた。


あそこを崩せば、狙いを定める前に倒れる。


「隊長! あの兵器じゃなく、左の足元を撃ってください! 黒い岩の下です!」


「また地面か!」


「地面しか味方がいません!」


バルトスは兵から爆裂矢を奪い、弓を引いた。


矢が夜を裂き、黒い岩の脇へ突き刺さる。


小さな爆発。


硬い土が砕け、大型兵器の左脚がずれた。


砲撃が空へ逸れる。


雲の底が一瞬だけ光り、大きな車体がゆっくりと横倒しになった。


泥が波のように跳ね、近くの敵兵を呑み込む。


「最後尾、あと三列!」


兵の声が飛んだ。


ノエルの妹ミナは、もう林側へ渡っていた。


けれどノエルは、荷車を解体してくれた老職人の腕を肩へ回し、最後尾で足を引きずっている。


「坊主、俺を置け。妹が先に行ってるんだろ」


「置いたら怒られます。ミナ、そういうのうるさいんで」


「妹に怒られるのが怖いのか」


「怖いです」


ノエルは半分泣きそうな顔で笑った。


その足元で、固い道の端が崩れた。


ノエルの足が沈む。


「ノエル!」


ルカは戻った。


敵兵が杭の道へ上がってくる。


バルトスの兵が剣と盾で受け止める音が聞こえた。


敵の刃が盾を削り、火花が散る。


ルカは老職人の反対側を担いだ。


「ノエル、前だけ見ろ。三歩で板だ!」


「はい……!」


一歩。


泥が靴を掴む。


二歩。


後ろで兵の呻き声が上がった。


三歩目で、老職人の脚が抜けず、三人まとめて傾いた。


板の向こうから、セレナが縄を投げた。


「掴んで!」


「殿下、離れてください!」


「掴んで!」


縄がルカの腕に当たる。


ノエルが拾い、老職人の腰へ回した。


セレナと数人の避難民が一斉に引く。


ずる、と老職人の脚が泥から抜けた。


板へ乗せる。


ノエルが押す。


向こう側からいくつもの手が伸び、老人を受け取った。


ルカも渡ろうとした時、足元が崩れた。


右脚が膝まで沈む。


身体が後ろへ引かれ、泥の冷たさが腿まで上がった。


「ルカさん!」


ノエルが手を伸ばす。


「来るな! 板から落ちる!」


敵兵の足音が近い。


バルトスの兵が一人、ルカの前で敵を受け止め、盾ごと泥へ片膝をついた。


ルカは腰の袋を探った。


残した爆晶が一つある。


これを使えば追手は止まる。


近すぎる。


自分も無事では済まないかもしれない。


道を造る者が、その道の最後に穴を残してどうする。


「隊長! 俺の合図で、縄を引いてください!」


「何をする気だ!」


ルカは火を移す紐を短く折り、火をつけた。


「最後の道を落とします!」


爆晶を、杭の道の中央へ転がす。


敵兵がこちらへ踏み込んだ。


バルトスが倒れた兵の襟を掴み、板のこちら側へ投げるように引いた。


「引けええ!」


縄がルカの腕へ食い込む。


身体が泥から抜けるのと、爆晶が弾けるのはほとんど同時だった。


どん、と固い道の最後の一筋が砕け、泥と水が噴き上がる。


ルカは板の上を転がり、セレナとノエルへぶつかって止まった。


背後では、人が渡れるほどの道が切れていた。


追ってきた敵兵が足場ごと黒い泥へ崩れていく。


もがこうとして、さらに深く沈む。


向こう岸で、大型兵器の一台が低い音を上げて止まった。


もうこちらへ渡れる道はない。


しばらく、誰も動けなかった。


ルカは泥に伏せたまま、息を吐いた。


肺が痛い。


手のひらは裂け、足の感覚もない。


耳元で、ノエルが泣きながら笑っていた。


「渡れた……本当に、渡れた……」


ミナが林の側から兄へ駆け寄り、勢いのまま抱きついた。


ノエルは泥だらけの腕で妹を抱き締め、声を上げて泣いた。


「隊ごとに確認しろ! 原側へ残った者がいないか見ろ!」


バルトスの怒号で、避難民をまとめていた兵や村の長たちが走り出す。


「北門組、通過!」


「担架組、全員います!」


「砦負傷者組、残りなし!」


「子どもたち、確認しました!」


報告が届くたび、ルカは泥の上で目を閉じた。


最後に、原の手前を守っていた兵が、傷だらけの仲間を抱えながら板のこちら側へ転がり込んだ。


「最後尾、通過! 味方は残っていません!」


その一言を聞いた時、列のあちこちから、押し殺していた泣き声が上がった。


千を超える人々が、誰一人、泥の向こう側へ置き去りにされずに立っていた。


ルカは泥まみれの手で顔を覆った。


父が教えてくれた通りだった。


道は、偉い人間が地図の上に引く線ではない。


帰りたい人を、生きて帰すためにある。



◇ ◇ ◇


夜明け前、避難民たちは聖王国アルディアの国境門へ辿り着いた。


泥と血で汚れた千人の列が林から現れた時、門の上にいた兵たちは弓を構えた。


夜の山道から、これほどの人が一度に現れれば、敵の罠を疑うのも無理はない。


だが、先頭に白鹿の紋章を持つ王女が立ち、その後ろに毛布へ包まれた子どもたちが続くのを見ると、門は開いた。


「聖王国アルディア国境守備隊だ!」


門兵の一人が叫んだ。


「武器を置ける者は置け! 負傷者を先へ通せ! 湯と毛布を運べ!」


そこから先は、急に人の声が増えた。


湯が運ばれ、干したパンが分けられ、負傷者は床へ並べた毛布の上に寝かされた。


ルカは関所の壁際へ座り、自分の測量杖を見ていた。


先端は曲がり、目盛りの半分は泥で埋まっている。


野帳も水を吸って波打ち、書いた線の一部が滲んでいた。


捨てる気にはならなかった。


「その杖で、千人を通したのですね」


声に顔を上げると、セレナが立っていた。


肩には借りた毛布が掛けられ、髪の先からまだ水が落ちている。


王女というより、夜を越えた一人の娘に見えた。


「杖だけではありません。殿下が縄を投げてくれなければ、俺は今頃、原の向こうです」


「では、おあいこです。あなたがいなければ、縄を投げる場所まで誰も来られませんでした」


ルカは返事に詰まり、泥のついた杖へ目を戻した。


バルトスが歩いてくる。


額の包帯は巻き直され、片腕を吊っていた。


「ルカ・セイル」


「はい」


「昨日の呼び方を訂正する」


隊長は、不器用に拳を胸へ当てた。


「お前は杭打ち係ではない。測量士だ。お前の道で、千を超える民が生きた」


ルカはすぐに返事ができなかった。


王立測量院では、地味な測り方しかできないと笑われた。


遠くの地形を術で読み取れず、空から見たような地図も作れず、最低等級の札を下げられた。


昨日の朝まで、自分の杖と紙は誰の役にも立たないものだと、半分は思っていた。


けれど、関所の広間には、泥だらけのまま眠る人々がいる。


ノエルはミナに毛布を掛け、その隣で力尽きるように眠っていた。


老職人は湯の椀を持ったまま、門兵へ昨夜の話を何度もしている。


話すたびに、少しずつ自分の働きが大きくなっている気がする。


「大げさになっていますね」


ルカが呟くと、セレナが少し笑った。


「小さくされるよりは、いいと思います」


やがて、彼女は関所の外へ目を向けた。


「私は、国を失いました。城も、父も、昨日までの暮らしも。亡国の姫という名は、もう変えられないのでしょう」


ルカは口を挟まなかった。


「けれど、国を失ったからといって、この人たちまで失ったわけではありませんでした。昨夜、あの道を渡りきって……それだけは」


セレナはそこで言葉を止めた。


言いたいことがあるのに、うまく出てこない顔だった。


ルカにも、どう返せばいいか分からない。


関所の広間では、誰かが咳をしている。


湯を配る椀の音がする。


寝ぼけた子どもが母親を呼び、すぐ近くの女が返事をした。


勝ったわけではない。


助かっただけだ。


それでも、助かった。


セレナはルカの野帳を見た。


「今すぐ国を取り戻せとは言いません。英雄になれとも言いません。ただ、この人たちが今日を生きて、明日へ歩ける場所を、一緒に考えていただけませんか」


ルカは広間を見渡した。


これは勝利の宴ではない。


亡くしたものを数える余裕さえなく、逃げてきた人たちが、ようやく眠れた朝だ。


王国を奪い返すなど、まだ遠すぎる。


だからこそ、今やることは見えた。


「関所の裏に、空いている倉庫があると聞きました」


ルカは野帳の新しい頁を開いた。


「まず、負傷者を運ぶ道を平らにします。水場から寝床まで泥にならないよう、石を敷く場所も決めないと。それから、次に逃げてくる人がいるなら、同じ橋で止まらない道を探します」


セレナは目を丸くし、それから頭を下げた。


「お願いします。測量士ルカ」


「はい」


杖は曲がっていた。


紙は汚れていた。


手の傷も、脚に残る泥の冷たさも、しばらく消えそうにない。


それでもルカは、関所の壁へ寄りかかるのをやめ、床に野帳を広げた。


門の向こうで朝日が上がる。


その光の中で、泥に濡れた古い地図の端だけが少しめくれた。


白粘原のさらに南。


聖王国アルディアへ続く旧道の脇に、小さな文字が残っている。


灰冠方面旧街道。


ルカはその文字を指でなぞった。


ただの古い地名だ。


今の彼には、それ以上の意味は分からない。


後の時代、その名を持つ土地で、黒い仮面の騎士が語られることになるなど、この朝の誰も知らなかった。


ルカは新しい線を引いた。


敵を倒すための線ではない。


千人を超える人々が、もう一度、生き始めるための線だった。

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