落ちこぼれ測量士、亡国の姫と“敵が渡れない道”を造る/一夜で千を超える避難民を救いました
「止めろ! その荷車を橋へ乗せるな!」
ルカ・セイルが叫んだ時、避難民の先頭はもう石橋へ押し寄せかけていた。
濡れた街道を、人と荷車の列が埋めている。
毛布に包まれた負傷者。
泣く力もなく母親の胸に顔を伏せた子ども。
杖を落としても拾う余裕のない老人。
列は丘の向こうまで折れ曲がり、最後尾は見えなかった。
ベルナード王都は焼けた。
昨夜には国境砦も落ちた。
逃げてきた民は、千人を超えている。
橋を渡れば、南の旧街道へ出られる。
その先には聖王国アルディアの国境門がある。
そこまで行けば、すぐに楽になるわけではない。
それでも壁があり、兵がいて、少なくとも今ここで追いつかれるよりは生き残れる。
だから誰も、橋の前で止まりたくはなかった。
「何をしている! 進ませろ!」
馬上から怒鳴ったのは、護衛隊長のバルトスだった。
煤で汚れた鎧の肩には乾いた血が固まり、眠っていない目は赤く濁っている。
護衛の兵は百にも満たない。
まともに剣を振れる者となれば、もっと少ない。
それでも彼らが後ろを守らなければ、避難民の列はとっくに敵の軍勢に呑まれていた。
「橋が落ちます」
ルカは言った。
「昨日の雨で濡れているだけだ。脅すな、杭打ち係」
「測量士です」
「なら測っていろ。人を止める権限はない」
ルカは測量杖を握り直した。
怖いのはバルトスの怒声ではない。
自分が間違っていて、この数分で敵に追いつかれることの方だった。
だが、橋は渡れない。
橋を支えている石柱の根元から、茶色い水が細く流れている。
表面を流れた雨水ではない。
柱の下の土が削られ、川へ吸い出されている色だった。
橋の手すりに残る古い測量印も、川側へほんの少し沈んでいる。
子どもの頃、父とこの橋を歩いたことがある。
雪どけ水で川が太ると、北の石柱の下ばかりが削られる。
石が丈夫でも、足元の土が抜けた橋は、いつか身体をひねるように崩れる。
父はそう言っていた。
今、川がごぼっと濁った泡を吐いた。
「本当に落ちます。荷車を乗せたら、先頭から川へ落ちる」
「拘束しろ」
バルトスの声とほぼ同時に、いら立った御者が馬を進めた。
「橋が保つかどうかは、乗せれば分かる!」
「待て!」
ルカは走った。
荷車の横へ飛び込み、馬の手綱を掴んで力いっぱい横へ引く。
驚いた馬が前脚を跳ね上げた。
荷台で、幼い兄妹が身体をぶつけて悲鳴を上げる。
「何をする!」
御者が鞭を振り上げる。
車輪が、橋の入口の石へ乗った。
みし、と嫌な音がした。
その場の声が、いっせいに止まる。
「降りろ!」
ルカは荷台へ手を伸ばした。
妹を抱えていた少年の腕を掴み、そのまま泥の上へ引きずり下ろす。
御者も兵に引き倒され、馬の身体へ綱が投げられた。
次に、石橋の入口が割れた。
荷車の前輪が沈み、馬が暴れる。
兵たちが綱へ身体ごとぶら下がり、ぎりぎりで馬と荷車を泥の上へ引き戻した。
橋の中央が、一度だけ大きく沈んだ。
それから、崩れた。
谷の底から腹に響く音が上がった。
石の塊が川へなだれ落ち、跳ねた水が岸の兵にまで降りかかる。
さっきまで早く渡せと怒鳴っていた者たちが、何も言えずに立ち尽くしていた。
その前で、千人を超える列が止まった。
先頭の者たちは助かったことに震えている。
だが、列の後ろでは橋が落ちたことさえ分からない。
なぜ進まないのか、誰が止めているのか、怒鳴り声と泣き声がふくらんでいく。
泥に座り込んだ少年が、妹を抱いたままルカを見た。
「……僕たち、落ちるところだったの?」
「もう大丈夫だ。君の名前は?」
「ノエル。こっちはミナ」
「ノエル、ミナを離すな」
言い終える前に、街道の後ろから馬が飛んできた。
偵察兵は地面へ転げ落ちるように降り、息を切らして叫んだ。
「敵です! 敵兵の先頭部隊だけで三百以上! その後ろに歩兵の列、さらに大型兵器も来ています!」
ざわめきが悲鳴へ変わった。
敵兵。
大型兵器。
この数日で、逃げてきた者たちが何度も口にした言葉だった。
何に追われているのか、ルカにも正確なことは分からなかった。
魔物だと言う者もいた。
鉄の兵だと言う者もいた。
人の形をしているのに、血も流さず、声も上げず、ただ命令されたみたいに進んでくる軍勢だと、震えながら話す兵もいた。
分かっているのは一つだけだ。
あれに追いつかれたら、ここにいる人たちの命はない。
バルトスは崩れた橋を睨み、剣を抜いた。
「歩ける者は南の山道へ走れ! 兵は最後尾を守る! 荷車の者は――」
「その山道は駄目です」
ルカは言った。
バルトスが振り向く。
今度の顔には、怒りだけでは済まないものがあった。
「もう一度、私を止める気か」
「峠の手前が崩れています。昨日こちらへ来る時に見ました。千人が入れば、途中で詰まります」
「なら、ここで死ねと言うのか!」
「まだ道があります」
ルカは腰の革筒から、煤と雨で汚れた地図を取り出した。
王立測量院の上官には、役に立たない古い地図だと笑われたものだ。
新しい軍道だけを載せた地図なら、今はもう落ちた橋と、崩れた山道しか残っていない。
けれどこの紙には、昔使われていた道が記されている。
橋の南。
白粘原。
昔、白い土を掘っていた広い平地だ。
掘る者がいなくなったあと、荷を運ぶために固めた道だけが、原を弧のように横切っていた。
「白粘原を抜けます」
「泥地へ民を入れるのか」
「固い道が一本残っています。人なら通せます」
「敵も通るだろう」
「通らせません」
ルカは地図を握った。
「人が渡り終えたら、原を沈めます。敵兵の一部は来るかもしれません。でも大型兵器は重すぎる」
言いながら、自分の声が少し乾いているのが分かった。
固い道が本当に残っているかは、行って確かめるしかない。
古い水路がまだ使えるかも分からない。
道が一か所でも切れていれば、千人の列は平地の真ん中で止まる。
バルトスもそれを分かっているから、すぐには返事をしなかった。
「隊長、時間がありません」
「お前は王立測量院でも最低等級だったそうだな。軍道の設計試験に落ち、地図を描く術も使えず、杭を担いで歩いていた」
「はい」
「そのお前に、千人の命を預けろと?」
「俺は広い国を一度に描けません」
ルカは崩れた橋を見た。
「でも、今踏んでいい地面なら、見つけられます」
その時、人垣の中から灰色の外套を着た娘が出てきた。
止めようとした老女の手を外し、娘は泥の上へ膝をつく。
裾に縫い込まれていた布を裂くと、その裏から銀色の小さな飾りが現れた。
折れた月桂樹を抱く白鹿。
焼け落ちたベルナード王家の紋章だった。
バルトスが目を見開き、剣を地面へ立てて膝をついた。
「セレナ殿下……ご無事で……」
避難民たちの声が、波のように揺れた。
娘――セレナは、泥のついた顔のまま長い列を振り返った。
「私は三日間、名を伏せてこの列の中を歩きました。水を子どもへ譲る人を見ました。歩けない老人を、名前も知らない者同士で荷車へ乗せるところを見ました。百にも満たない兵が、千を超える民のために眠らず後ろを守ってくれたのを見ました」
最後の言葉だけ、少し震えた。
「その人たちを、歩けるかどうかだけで捨てるために、私は生き残ったのではありません」
「しかし、殿下まで失うわけには――」
「橋が落ちることを見抜いたのは、この測量士です」
セレナはルカへ向き直る。
「名は?」
「ルカ・セイルです」
「ルカ。何が必要ですか」
命令ではなく、任せる声だった。
その一言で、不安が消えたわけではない。
失敗すれば全員死ぬ。
その重さは変わらない。
けれど、立っている暇はなくなった。
「縄と杭を全部。荷車は置いていきます。板だけ外してください。担架と、子どもを運ぶ分だけに使います。歩ける人は荷を捨てる。道は俺が先に確認します」
セレナはすぐに民へ向いた。
「聞いた通りです。荷を置くのが苦しいことは分かります。けれど、命だけは持っていきましょう。向こうへ渡ったあと、また手に入れるために」
最初に動いたのはノエルだった。
妹を近くの女へ預けると、自分が乗っていた荷車の縄を外し始める。
「板、使うんですよね。僕もやります」
老いた職人が杖を放り、荷車へ寄った。
「小僧、その結び目じゃ夜が明ける。貸せ」
一人が動くと、もう一人が続いた。
荷箱を抱いて泣く者もいた。
最後まで離せずにいた者もいる。
兵に肩を抱かれて、ようやく手を離す者もいた。
ルカは地図を畳み、白粘原へ向かって走り出した。
◇ ◇ ◇
原へ着いた時には、空に月も見えなかった。
松明の灯りの先に、白い地面が広がっている。
乾いているように見えるが、踏み方を間違えれば脚を取られる。
後ろから来るのは千人だ。
ひとり沈めば、次の者が止まり、列はすぐに崩れる。
ルカは先の尖った杖を握り、地面を叩いた。
こつ。
固い。
右へ半歩。
ずぶ、と杖の先が沈む。
「ここから外へ出ないでください! 布を結んだ杭の間だけを進む!」
兵がルカの声を後ろへ送る。
固い道は、まだあった。
大人二人がぎりぎり並べる幅で、白い原を大きく曲がりながら南の林へ伸びている。
ただ、途中で三か所、土が崩れている。
そこへ荷車から外した板を渡し、担架も子どもも一列で通すしかない。
ルカは杖を突き、杭を打ち続けた。
「布!」
「はい!」
ノエルが追いつき、杭へ赤い布を結んでいく。
ルカは振り返った。
「妹のそばにいろと言っただろ」
「ミナは向こうで待っててもらいます。僕、足手まといにはなりません」
「ここは落ちたら助けられない」
「橋で助けてもらったから、分かってます」
子どもの顔に、泣きそうな怖さが残っている。
それでも手は動いていた。
「布は必ず道の内側へ結べ。風で裏返っても間違えないように、二回巻け」
「はい!」
背後では、荷を置いてきた人々が白粘原へ足を踏み入れ始めた。
泣きながら歩く女の腕には、箱の代わりに赤ん坊が抱かれている。
負傷兵を載せた担架が板を軋ませ、老人が「先へ行け」と言いながらも若者の肩へ体重を預けている。
列は進んだ。
遅い。
それでも止まってはいない。
「ルカ!」
セレナが、外した板の端を兵と一緒に押さえていた。
王女の手は泥で汚れ、指先から血が出ている。
「敵の灯りが見えました!」
北の丘の向こうに、赤い灯りが揺れ始めていた。
低い音がする。
馬の足音ではない。
もっと重く、同じ間隔で地面を叩く音だった。
白粘原へ入った避難民の間から、小さな悲鳴が上がった。
恐怖に押されて列が速くなる。
前の老人が転び、後ろの男が避けようとして杭の外へ片足を踏み出した。
「止まるな、押すな!」
ルカが駆け寄り、男の腕を掴む。
足首まで沈んだ泥が靴を呑み込み、引き抜くとずぶっと嫌な音を立てた。
「道の外へ出たら死にます! 走るより、杭を見ろ!」
声を張った直後、丘の上に敵の姿が現れた。
人影だった。
何十、何百という敵兵が、横に広がりながら下ってくる。
手には槍や長い刃を持ち、隊列を崩さず進んでいた。
さらに後ろから、大型兵器が何台も進んでくる。
車輪ではなく、太い脚のようなもので地面を踏み、泥を跳ね上げていた。
「来たぞ!」
兵たちが列の外側へ並ぶ。
バルトスが盾を持ったまま前へ出た。
「弓、構え! 近いものだけ狙え! 深追いするな!」
敵兵の先頭が白粘原へ入った。
一人が道の外へ踏み込み、腰まで沈む。
後ろの敵兵がそれを避け、杭の道へ向かって回り込もうとした。
「こっちの道を見つけられます!」
ノエルが叫ぶ。
「分かってる!」
ルカは地図を見る。
古い水路の場所。
白粘原の北端に、排水を切り替える石蓋がある。
そこを壊せば、原の中央へ水が戻るはずだ。
だが、そこまで行くには敵の方へ戻らなければならない。
「隊長、爆晶はありますか」
バルトスが振り向いた。
「砦を壊して逃げるために持ち出したものが三つある」
「三つともください」
「何に使う」
「地面に使います」
「敵ではなく?」
「地面の方が敵を止めます」
バルトスは一瞬だけ黙り、革袋を投げた。
「外すなよ、測量士」
「外したら、謝ります」
「謝る時間があると思うな!」
ルカは爆晶を抱えて、道を逆向きに走った。
「僕も行く!」
ノエルが追ってくる。
「来るな!」
「杭の場所を見失ったら、ルカさんが戻れません!」
言い返す間がなかった。
敵兵がすぐ近くで泥を跳ねた。
兵の盾に刃が当たり、硬い音が散る。
「俺の足跡から絶対に出るな!」
「はい!」
二人は避難民の横を抜け、敵へ近づく方向に走った。
ルカは杖で地面を叩く。
こつ。
違う。
右へ二歩。
ずぶ。
違う。
松明の灯りが揺れる。
泥の匂いが強くなる。
後ろでは誰かが泣いていた。
「早く……!」
ノエルの声が裏返った。
ルカは息を止め、もう一度杖を落とす。
こん。
軽い音が返った。
下に空洞がある。
「ここだ!」
ルカは膝をつき、素手で泥を掻いた。
爪の間に砂が入り、指先が裂ける。
石の蓋が現れた。
古い採掘場の印が、まだ薄く残っている。
「爆晶を二つ入れろ!」
「三つじゃないんですか」
「一つは持って走れ。道が切れた時に使う!」
ノエルが穴へ爆晶を押し込む。
ルカは火を移す紐を伸ばし、火打石を叩いた。
一度目は、湿った紐で消えた。
敵兵の一人がこちらを向いた。
弓を構える。
「伏せろ!」
矢が飛び、ルカの肩のすぐ横で泥が跳ねた。
二度目の火花が、紐へ食いついた。
「走れ、ノエル!」
二人は杭の間を走った。
後ろから敵兵が追う。
遠回りを嫌った大型兵器の先頭が、避難民の通る道を横切るように、白い平地の中央へ踏み込んだ。
それを待っていた。
爆晶が弾けた。
ずん、と原が下から殴られる。
土が盛り上がり、黒い水が裂け目から噴き出した。
最初の敵兵が脚を取られ、倒れる。
後続が避けられずにぶつかり、人の列が崩れた。
大型兵器の太い脚が泥へ沈み、抜こうとする動きでさらに身体を傾ける。
後ろの兵器が止まりきれず、前の車体へぶつかった。
白かった原が、黒い沼へ変わっていく。
「効いた……!」
ノエルが叫ぶ。
「喜ぶのはまだだ。走れ!」
敵が沈んだのは中央だけだ。
ルカたちの道は、細い固い土の上に残っている。
敵兵の何人かは、泥を避けて杭の道へ入ってきた。
そして水は、こちらの道の縁にもじわじわと染み出していた。
「急げ! 道が沈むぞ!」
ルカは避難民の列へ戻った。
最後の数百人が板を越えようとしている。
担架の一つが傾き、板の端から滑り落ちかけた。
ルカとセレナが同時に飛びついた。
「上げて!」
セレナの手が担架の木枠へ食い込む。
兵が後ろから押し、負傷者を載せた担架が板の向こうへ渡った。
「殿下、先へ!」
「最後までいます」
「あなたが沈んだら、何のためにここまで――」
「今は言い合っている時間ではありません」
セレナは短く言い、次の板を押さえた。
返す言葉がなく、ルカは次の担架へ走った。
泥の向こうでは、大型兵器の一台が砲口を持ち上げている。
半分沈みながらも、こちらへ狙いを定めていた。
「あれが撃つぞ!」
バルトスが叫んだ。
あれが列へ落ちれば、板の前に集まった者たちがまとめて吹き飛ぶ。
ルカは砲口ではなく、足元を見た。
右側は沈んでいる。
左脚だけが、黒い岩のそばの固い土に引っかかっていた。
あそこを崩せば、狙いを定める前に倒れる。
「隊長! あの兵器じゃなく、左の足元を撃ってください! 黒い岩の下です!」
「また地面か!」
「地面しか味方がいません!」
バルトスは兵から爆裂矢を奪い、弓を引いた。
矢が夜を裂き、黒い岩の脇へ突き刺さる。
小さな爆発。
硬い土が砕け、大型兵器の左脚がずれた。
砲撃が空へ逸れる。
雲の底が一瞬だけ光り、大きな車体がゆっくりと横倒しになった。
泥が波のように跳ね、近くの敵兵を呑み込む。
「最後尾、あと三列!」
兵の声が飛んだ。
ノエルの妹ミナは、もう林側へ渡っていた。
けれどノエルは、荷車を解体してくれた老職人の腕を肩へ回し、最後尾で足を引きずっている。
「坊主、俺を置け。妹が先に行ってるんだろ」
「置いたら怒られます。ミナ、そういうのうるさいんで」
「妹に怒られるのが怖いのか」
「怖いです」
ノエルは半分泣きそうな顔で笑った。
その足元で、固い道の端が崩れた。
ノエルの足が沈む。
「ノエル!」
ルカは戻った。
敵兵が杭の道へ上がってくる。
バルトスの兵が剣と盾で受け止める音が聞こえた。
敵の刃が盾を削り、火花が散る。
ルカは老職人の反対側を担いだ。
「ノエル、前だけ見ろ。三歩で板だ!」
「はい……!」
一歩。
泥が靴を掴む。
二歩。
後ろで兵の呻き声が上がった。
三歩目で、老職人の脚が抜けず、三人まとめて傾いた。
板の向こうから、セレナが縄を投げた。
「掴んで!」
「殿下、離れてください!」
「掴んで!」
縄がルカの腕に当たる。
ノエルが拾い、老職人の腰へ回した。
セレナと数人の避難民が一斉に引く。
ずる、と老職人の脚が泥から抜けた。
板へ乗せる。
ノエルが押す。
向こう側からいくつもの手が伸び、老人を受け取った。
ルカも渡ろうとした時、足元が崩れた。
右脚が膝まで沈む。
身体が後ろへ引かれ、泥の冷たさが腿まで上がった。
「ルカさん!」
ノエルが手を伸ばす。
「来るな! 板から落ちる!」
敵兵の足音が近い。
バルトスの兵が一人、ルカの前で敵を受け止め、盾ごと泥へ片膝をついた。
ルカは腰の袋を探った。
残した爆晶が一つある。
これを使えば追手は止まる。
近すぎる。
自分も無事では済まないかもしれない。
道を造る者が、その道の最後に穴を残してどうする。
「隊長! 俺の合図で、縄を引いてください!」
「何をする気だ!」
ルカは火を移す紐を短く折り、火をつけた。
「最後の道を落とします!」
爆晶を、杭の道の中央へ転がす。
敵兵がこちらへ踏み込んだ。
バルトスが倒れた兵の襟を掴み、板のこちら側へ投げるように引いた。
「引けええ!」
縄がルカの腕へ食い込む。
身体が泥から抜けるのと、爆晶が弾けるのはほとんど同時だった。
どん、と固い道の最後の一筋が砕け、泥と水が噴き上がる。
ルカは板の上を転がり、セレナとノエルへぶつかって止まった。
背後では、人が渡れるほどの道が切れていた。
追ってきた敵兵が足場ごと黒い泥へ崩れていく。
もがこうとして、さらに深く沈む。
向こう岸で、大型兵器の一台が低い音を上げて止まった。
もうこちらへ渡れる道はない。
しばらく、誰も動けなかった。
ルカは泥に伏せたまま、息を吐いた。
肺が痛い。
手のひらは裂け、足の感覚もない。
耳元で、ノエルが泣きながら笑っていた。
「渡れた……本当に、渡れた……」
ミナが林の側から兄へ駆け寄り、勢いのまま抱きついた。
ノエルは泥だらけの腕で妹を抱き締め、声を上げて泣いた。
「隊ごとに確認しろ! 原側へ残った者がいないか見ろ!」
バルトスの怒号で、避難民をまとめていた兵や村の長たちが走り出す。
「北門組、通過!」
「担架組、全員います!」
「砦負傷者組、残りなし!」
「子どもたち、確認しました!」
報告が届くたび、ルカは泥の上で目を閉じた。
最後に、原の手前を守っていた兵が、傷だらけの仲間を抱えながら板のこちら側へ転がり込んだ。
「最後尾、通過! 味方は残っていません!」
その一言を聞いた時、列のあちこちから、押し殺していた泣き声が上がった。
千を超える人々が、誰一人、泥の向こう側へ置き去りにされずに立っていた。
ルカは泥まみれの手で顔を覆った。
父が教えてくれた通りだった。
道は、偉い人間が地図の上に引く線ではない。
帰りたい人を、生きて帰すためにある。
◇ ◇ ◇
夜明け前、避難民たちは聖王国アルディアの国境門へ辿り着いた。
泥と血で汚れた千人の列が林から現れた時、門の上にいた兵たちは弓を構えた。
夜の山道から、これほどの人が一度に現れれば、敵の罠を疑うのも無理はない。
だが、先頭に白鹿の紋章を持つ王女が立ち、その後ろに毛布へ包まれた子どもたちが続くのを見ると、門は開いた。
「聖王国アルディア国境守備隊だ!」
門兵の一人が叫んだ。
「武器を置ける者は置け! 負傷者を先へ通せ! 湯と毛布を運べ!」
そこから先は、急に人の声が増えた。
湯が運ばれ、干したパンが分けられ、負傷者は床へ並べた毛布の上に寝かされた。
ルカは関所の壁際へ座り、自分の測量杖を見ていた。
先端は曲がり、目盛りの半分は泥で埋まっている。
野帳も水を吸って波打ち、書いた線の一部が滲んでいた。
捨てる気にはならなかった。
「その杖で、千人を通したのですね」
声に顔を上げると、セレナが立っていた。
肩には借りた毛布が掛けられ、髪の先からまだ水が落ちている。
王女というより、夜を越えた一人の娘に見えた。
「杖だけではありません。殿下が縄を投げてくれなければ、俺は今頃、原の向こうです」
「では、おあいこです。あなたがいなければ、縄を投げる場所まで誰も来られませんでした」
ルカは返事に詰まり、泥のついた杖へ目を戻した。
バルトスが歩いてくる。
額の包帯は巻き直され、片腕を吊っていた。
「ルカ・セイル」
「はい」
「昨日の呼び方を訂正する」
隊長は、不器用に拳を胸へ当てた。
「お前は杭打ち係ではない。測量士だ。お前の道で、千を超える民が生きた」
ルカはすぐに返事ができなかった。
王立測量院では、地味な測り方しかできないと笑われた。
遠くの地形を術で読み取れず、空から見たような地図も作れず、最低等級の札を下げられた。
昨日の朝まで、自分の杖と紙は誰の役にも立たないものだと、半分は思っていた。
けれど、関所の広間には、泥だらけのまま眠る人々がいる。
ノエルはミナに毛布を掛け、その隣で力尽きるように眠っていた。
老職人は湯の椀を持ったまま、門兵へ昨夜の話を何度もしている。
話すたびに、少しずつ自分の働きが大きくなっている気がする。
「大げさになっていますね」
ルカが呟くと、セレナが少し笑った。
「小さくされるよりは、いいと思います」
やがて、彼女は関所の外へ目を向けた。
「私は、国を失いました。城も、父も、昨日までの暮らしも。亡国の姫という名は、もう変えられないのでしょう」
ルカは口を挟まなかった。
「けれど、国を失ったからといって、この人たちまで失ったわけではありませんでした。昨夜、あの道を渡りきって……それだけは」
セレナはそこで言葉を止めた。
言いたいことがあるのに、うまく出てこない顔だった。
ルカにも、どう返せばいいか分からない。
関所の広間では、誰かが咳をしている。
湯を配る椀の音がする。
寝ぼけた子どもが母親を呼び、すぐ近くの女が返事をした。
勝ったわけではない。
助かっただけだ。
それでも、助かった。
セレナはルカの野帳を見た。
「今すぐ国を取り戻せとは言いません。英雄になれとも言いません。ただ、この人たちが今日を生きて、明日へ歩ける場所を、一緒に考えていただけませんか」
ルカは広間を見渡した。
これは勝利の宴ではない。
亡くしたものを数える余裕さえなく、逃げてきた人たちが、ようやく眠れた朝だ。
王国を奪い返すなど、まだ遠すぎる。
だからこそ、今やることは見えた。
「関所の裏に、空いている倉庫があると聞きました」
ルカは野帳の新しい頁を開いた。
「まず、負傷者を運ぶ道を平らにします。水場から寝床まで泥にならないよう、石を敷く場所も決めないと。それから、次に逃げてくる人がいるなら、同じ橋で止まらない道を探します」
セレナは目を丸くし、それから頭を下げた。
「お願いします。測量士ルカ」
「はい」
杖は曲がっていた。
紙は汚れていた。
手の傷も、脚に残る泥の冷たさも、しばらく消えそうにない。
それでもルカは、関所の壁へ寄りかかるのをやめ、床に野帳を広げた。
門の向こうで朝日が上がる。
その光の中で、泥に濡れた古い地図の端だけが少しめくれた。
白粘原のさらに南。
聖王国アルディアへ続く旧道の脇に、小さな文字が残っている。
灰冠方面旧街道。
ルカはその文字を指でなぞった。
ただの古い地名だ。
今の彼には、それ以上の意味は分からない。
後の時代、その名を持つ土地で、黒い仮面の騎士が語られることになるなど、この朝の誰も知らなかった。
ルカは新しい線を引いた。
敵を倒すための線ではない。
千人を超える人々が、もう一度、生き始めるための線だった。




