第4話:黒い軍勢
森の恐怖は、狼や熊のような大きな魔物だけではありません。 ザワザワ……ガサガサ……。 足元から聞こえる、無数の足音。 ルナの視界を埋め尽くしたのは、全てを喰らい尽くす「黒い軍隊」でした。
熱風が頬を打つ。
近づくにつれて、甘い花の香りは消え失せ、鼻を突く焦げ臭さと、鉄錆のような生臭い匂いが充満していく。
「嘘……嘘だよね……」
私は抱えていた蜜壺を強く握りしめ、煙の向こう側へと飛び込んだ。
そして、言葉を失った。
いつもなら柔らかな光を放っている里の結界は、見る影もなく砕け散っていた。
美しい緑の葉でできた家々は炎に包まれ、黒い煙を吐き出している。
そして何より、視界を埋め尽くすほどの「黒と緑の怪物たち」が、我が物顔で里を蹂躙していた。
「ギャハハハハッ!」
「ギギィッ! ギョウ!」
耳障りな甲高い笑い声。
小柄だが凶悪な顔つきをした緑色の小鬼――ゴブリンだ。
彼らは手に錆びた剣や棍棒を持ち、逃げ惑う妖精たちを追い回している。
私はとっさに近くの燃え残った葉の裏に身を隠した。
震える体を押さえつけ、隙間から外を覗き込む。
そこは地獄だった。
いつも優しく挨拶してくれたおじさんが、棍棒で叩き落とされる。
花の手入れをしていた女の子が、虫取り網のようなもので捕まり、袋の中に詰め込まれていく。
抵抗しようと魔法を放つ妖精もいるが、ゴブリンの数があまりにも多すぎる。一人が魔法を撃っている間に、横から三匹が飛びかかり、その羽を無惨に引きちぎるのだ。
「あ……あぁ……」
声を出してはいけない。見つかったら殺される。
本能がそう警鐘を鳴らしているのに、口から漏れる嗚咽が止められない。
ゴブリンだけではない。
ゴブリンよりも一回り大きく、筋肉質の体をした『ホブゴブリン』が、家々を破壊して回っている。
さらに奥、世界樹の根元には、明らかに格の違う個体たちがいた。
重厚な鎧を身にまとった『ゴブリンジェネラル』。
杖を持ち、火の玉を放って里を焼いている『ゴブリンシャーマン』。
そして、それらの中央に、禍々しい玉座のような椅子に腰掛けている巨体がいた。
身長は2メートルを超えているだろうか。
全身から立ち上るどす黒いオーラは、私の『魔力視』で見なくても肌で感じるほどに濃密で、凶悪だ。
「……ッ!」
目が合ったわけではない。ただ視界に入れただけで、心臓が凍りつきそうになった。
あれが、親玉だ。
直感が告げている。あいつだけは、次元が違う。
その時だった。
「いやぁぁぁっ! 離してぇ!」
聞き覚えのある悲鳴が響いた。
視線を走らせると、瓦礫の山の上で、緑色のポニーテールの妖精がゴブリンに腕を掴まれている。
ティタお姉ちゃんだ。
「ティタ……お姉ちゃん……!」
助けなきゃ。
体が勝手に動きそうになる。
でも、足がすくんで動かない。
今の私に何ができる?
魔法攻撃はまだ覚えいない。
あるのは『チャーム』だけ。
あんな殺意に満ちた集団の中で、私の未熟なチャームが通じるの?
もし失敗したら?
私のHPは5だ。一発でも殴られたら、いや、捕まって握り潰されるだけで即死だ。
――怖い。死にたくない。
その一瞬の躊躇が、運命を分けた。
「ギヒヒッ!」
ティタお姉ちゃんを捕まえていたゴブリンが、下卑た笑い声を上げながら、彼女の薄い羽を乱暴に掴んだ。
そして。
ブチッ。
乾いた音がして、美しい羽が根本から引き抜かれた。
「あ――」
ティタお姉ちゃんの口から、声にならない絶叫が上がる。
彼女はそのまま地面に放り投げられ、動かなくなった。
ゴブリンは興味を失ったように、次の獲物を探して去っていく。
目の前が真っ暗になった。
助けられたかもしれないのに。私が怖がっている間に。
今日、「行ってらっしゃい」と手を振ってくれた笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
悔しさと、恐怖と、自己嫌悪。
様々な感情が混ざり合って、涙が溢れて止まらない。
これが、魔物が支配する世界。
弱者は蹂躙され、奪われ、捨てられるだけの世界。
『逃げなさい、ルナ』
頭の中に、弱々しい声が響いた。
世界樹の声だ。朝に聞いた時とは違い、今は消え入りそうなほど儚い。
『もう、ここには希望はありません……。あなたは生き延びて……遠くへ……そして、いつか……』
言葉はそこで途切れた。
同時に、世界樹の幹から上がっていた炎が勢いを増し、巨木全体を包み込んでいく。
里はもう終わりだ。
私は唇を噛み締め、滲む涙を拭った。
ここで飛び出して犬死にするわけにはいかない。
私は生きるのだ。どんなに無様でも、泥水を啜ってでも生き延びて、強くなる。
そしていつか必ず――この黒い軍勢に、報いを受けさせてやる。
私は、燃え落ちる故郷と、動かなくなった仲間たちに背を向けた。
抱えていた蜜壺だけは、絶対に離さなかった。
これが、平和だった頃の最後の記憶だから。
私は煙に紛れ、夜の森へと飛び立った。
後ろからは、ゴブリンたちの勝利の雄叫びが、いつまでも聞こえていた。
【現在のルナのステータス】 Lv: 1 HP: 5/5 MP: 20/20 状態: 恐怖、絶望、決意
お読みいただきありがとうございます! 今回の敵は『キラーアント(兵隊蟻)』の大群でした。 人間からすればただの虫でも、身長15センチのルナにとっては、まさに重戦車の師団です。 一匹なら……いや、一匹でも今のルナには強敵ですね。 必死に空へ逃げたルナ。 「いつかあいつらを唐揚げにしてやる!」 そんな捨て台詞が聞こえてきそうです。 次回、いよいよ反撃開始!?




