大好きな場所
何か分からないけど。
耳の奥にかすかに届く音がして。
畳と懐かしい布団の匂いがして。
目を開けたら、蝉はすっかり起きていた。
まるで家の中にいるみたいな感じだった。
私は掛け布団をはいで体を起こす。
空気が肌寒くて。
枕元のリモコンでエアコンを切った。
カーテンの隙間から。
光の筋が一つ。
お母さんが畳んだ布団の上を這っていた。
両手を挙げて。
「んーっ」
伸びをする。
私は布団を畳んで。
寝癖のついた頭をかきながら。
パジャマのまま部屋を出た。
キシキシと鳴る長い廊下を進む。
連なるガラス戸から差し込む陽射しが、床を照らして温かい。
あくびをしながら。
見つめた先は絵に描いたような夏模様。
山の峰の上にはもくもくとした泡のような白い雲。
緑の山の斜面には、ブドウ棚が点在している。
廊下の突き当たり、洗面所で顔を洗う。
触れた水の冷たさで、眠気が飛んでいく。
歯を磨いて。
ぶくぶくと口をゆすいで。
鏡に向かって笑いかける。
「おはよう、純香」
鏡越しに笑いかけるおじいちゃん。
「おじいちゃん、おはよう」
私は、おじいちゃんと入れ替わるように、洗面所を後にした。
きしむ音を引き連れて。
廊下の真ん中でがらがらとガラス戸を開ける。
とたん、むんわりとした空気が草や土の匂いと共に入ってくる。
蝉の声もひときわ大きくなる。
縁側のざらざらとした板は少し熱を持っていた。
そこにちょこんと腰を下ろした。
お尻から伝わる温もりは、エアコンで冷えたからだにはちょうどいいくらい。
両手を縁に添えて、宙に浮いた足をぶらぶらさせる。
モンシロチョウやトンボが庭の花々をかすめて。
庭の先のブドウ棚に紛れ込んでいく。
ゆらりと木々を震わせて。
髪をすいていく生暖かい甘さを含んだ薫風。
「純香、ごはん食べたらブドウ取るか? 桃にするか?」
おじいちゃんはそう言いながら隣に腰掛ける。
「ブドウにしようかな、桃はちょっと痒くなる」
「そうか、そうか」
「なんか色んな匂いがするね」
「そうだな、夏は匂いが一番濃い」
「何か理由があるのかな?」
「どうだろ。命が眩しい季節からかもしれないな」
「おじいちゃん、相変わらず面白いこと言うね」
「そうか、そうか」
おじいちゃんは、薄くなった頭を撫でる。
「命が眩しいか。でも、春のが匂いは強い気がする」
「うんうん、それは匂いが生まれる時だからだな」
「ふーん。じゃあ冬は匂いはないの?」
「いや、潜めているだけだな」
「ふーん。じゃあ秋は?」
「匂いが落ちる時だな」
「よくわかんないけど、分かる気もする」
「ははは、それでいいんだ、純香は正直でいい」
おじいちゃんは、
「よいしょ」
と、整髪料の香りを残して立ち上がる。
私は両手を広げて。
足を伸ばして。
大きく息を吸う。
音も風も吸い込んで。
ふーっと長く息を吐く。
青く煌めく瑞々しい匂いがした。
お読み下さりありがとうございます。
感謝しています。




