『名前を呼ばれた日』
放課後の廊下には、部活へ向かう足音と、笑い声が響いていた。
私は教室の窓際で鞄を抱えながら、その喧騒を少し離れた世界のように感じていた。
窓の外には、夕方の気配。
オレンジ色の光が、机や黒板をやわらかく染めていた。
――また、今日も話せなかったな。
彼の名前は「藤堂くん」。
クラスでも人気のある男子で、バスケ部のレギュラー。
明るくて、どこか抜けてるところもあって、でも真っすぐな人。
最初に好きだと思ったのは、去年の冬。
体育館の外で雪を見上げながら、何気なく笑ったその横顔を見たとき。
空よりも白くて、まぶしい笑顔だった。
それからずっと、彼を目で追ってる。
だけど、話しかける勇気は出ない。
同じクラスなのに、彼の周りの空気はいつも賑やかで、
その中に入り込むことなんて、できそうになかった。
廊下の奥から、藤堂くんの声がした。
「じゃ、また明日な!」
部活に行く前に、友達とふざけあいながら笑っている。
私は反射的に顔を上げて、慌てて目をそらした。
その瞬間――目が合った。
彼の瞳が、夕陽を映して輝いていた。
ほんの一瞬。
でも確かに、私を見た。
「……あれ、優希?」
心臓が跳ねた。
こんな風に、名前を呼ばれたのは初めてだった。
信じられなくて、声が出なかった。
「おーい、帰んないの?」
彼が少し笑いながら近づいてくる。
距離が縮まるたび、息が浅くなっていく。
「ノート、机に置きっぱなしだよ」
「あ、あ……ありがと」
ようやく声を出せたけど、情けないくらい震えていた。
藤堂くんは机の上から私のノートを取って、
「ほら」と言って差し出してくれた。
指が少し触れた。
その瞬間、鼓動の音がやけに大きく響く。
彼は何も気づかないように笑って、
「じゃ、俺もう行くわ。がんばれよ、期末」
と言って手を振った。
その笑顔が、夕陽の中で少し滲んで見えた。
私はただ、ノートを胸に抱きしめて立ち尽くしていた。
名前を呼ばれただけなのに、世界が少し変わった気がした。
――ほんの少しでいい。
もう一度、名前を呼んでほしい。
その夜、家に帰っても、彼の声が耳から離れなかった。
あの一言が、頭の中で何度もリピートされる。
嬉しくて、苦しくて、
どうしていいかわからなかった。
翌朝、少し早く登校した。
まだ教室には誰もいなくて、窓の外では朝日が差し込んでいる。
机の上にノートを置いて、ふと呟く。
「……藤堂くん、おはよう」
誰もいない空間で、練習みたいに言ってみる。
言葉は空気に溶けて消えたけど、
心は少しだけぽかぽかしていた。
その日から、私は少しだけ変わった。
彼と目が合ったら、笑うようにした。
勇気を出して「おはよう」と言えるようになった。
返ってくる「おはよう」が、
どんな魔法よりも嬉しかった。
でも、春が来た頃。
新しいクラス発表の紙を見上げて、私は立ち尽くした。
彼の名前は、もう私のクラスにはなかった。
笑おうと思ったけれど、うまく笑えなかった。
それでも、「名前を呼ばれた日」は、
私の中で今もずっと輝いている。
届かなかった恋。
でも、たしかに恋だった。
あの日の夕陽の色と一緒に、
ずっと忘れない。
ポンって肩が叩かれた。
振り向いた先には、
藤堂くん。
「クラス、違っちゃったな」
「え、あ、うん。そうだね」
紙を見上げたままの藤堂くん。
「そのなんだ、優希のおはようが聞けなくなるの寂しいな」
「え?」
ゆっくり私を見て微笑んだ。
ぽって頬が染まって。
でも、重なる視線は外せなくて。
周りの音が一瞬消えた。
心臓の音だけが耳元で寄り添っている。
「あのさ、昼休み、屋上で待ってるから」
「え?」
藤堂くんは片手を挙げて、
さらに白い歯を見せて、
くるっと背を向けて歩いて行った。
背中に差し込む淡い光を浴びながら。
拙文、お読み下さりありがとうございます。




