願わくは
なぜ言葉が生まれたのか。
その答えを、私たちはいつのまにか忘れてしまったのかもしれない。
少なくとも、人を傷つけるためじゃないはずだ。
本来は、人と気持ちを分け合うために、生まれてきたはずだ。
言葉や文字は、いつのまにか刃みたいにこころを切る道具として使われるようになってしまった。
ネットが広がった今は、近くにいる人にも、顔も知らない遠い誰かにも、簡単に突き刺さってしまう。
でも、それはネットという仕組みのせいだけじゃない。
私たち人間の中身のほうが、時代の変化に追いついていないだけなのかもしれない。
何か人と違うことをすると、異端者みたいな視線や、冷たい空気が降ってくる。
たとえそれが「世のため人のため」になることであっても。
だから私たちは、周りと意見が違っても、つい合わせてしまう。
それは悪いことだと言い切れない。自分を守るために必要な選択でもあるから。
こうして少しずつ、「個性」という声が飲み込まれていった。
それでも今は、少しずつ変わってきている。
自分の世界を、自分の手でもがきながら生きていく人たちが前に出始めた。
かつて「オタク」といえば、陰気で、時には犯罪者と同じように見なされることさえあったのに、
今ではひとつの文化として受け入れられている。
ゆっくりかもしれないけれど、確かに時代は進んでいる。
その流れのなかで、私たちはときどき大事なことを忘れてしまう。
言葉や文字は、人と交わるためのいちばん確かな手段だということ。
その使いかたには、自分のこころがそのまま映ってしまうということ。
「言の葉」という言い方があるように、
豊葦原瑞穂の国に生まれた私たちは、本当は言葉にとても敏感なはずなのに。
豊かなのか、貧しいのか。何を基準にするかで変わってしまうから、一概には言えないけれど。
せめて、言葉だけは、人を切る刃ではなく、誰かにそっと手渡せる葉でありたい。
そう願っています。
願わくは 世に散る言の 葉のごとく 人のこころに 影を残さじ
拙文、お読み下さりありがとうございます。




