同じ空を見た夜
しゃり、しゃり。
雪を踏む音が、こころに沈む。
ピーンと張った、シーンとした空気。
――「会いたいよ」
一人でいると、必ず行きついてしまう思考。
駅から少し離れた住宅街は、夜になると途端に暗くなる。
まばらに落ちた街灯の明かりが、積もった雪に反射してあたかも昼間のよう辺り浮かび上がらせている。
普段は闇に包まれて、見えない筈の景色を。
「ふうー」
吐いた息が、白く。
寒さに飲み込まれて消えた。
マフラーを鼻のあたりまで引き上げながら、私はコンビニのビニール袋を片手に、アパートまでの道を歩いていた。
しゃり、しゃり。
足元の積もった雪。
人が通ったところだけ、無数にへこんでいる。
「……さむ」
独り言が、夜気の中ですぐに消える。
スマホには、最後に彼から来たメッセージの通知が光っている。
『こっちはまだ雪降ってないよ〜
そっち大丈夫? 転ばないようにしてね』
タイムスタンプは、二時間前。
ゼミが長引いて、返信を打ちかけたままポケットに突っ込んで、そのままになっていた。
大丈夫だよ、って返したら。
そこで会話終わるんだよね。
だいたい。
指先が冷えて、文字を打つのがおっくうなのもある。
でも一番の理由は。
打ちたい言葉と、実際に送る文字のあいだに、いつも大きな距離があること。
ほんとは、こう打ちたい。
「大丈夫じゃない。会いたい」
でも、送れるのはせいぜい。
『大丈夫〜そっちこそ風邪ひかないでね』
みたいな、温度の低い優等生みたいな文。
アパートの前の細い道を曲がったところで、ふと空が開けた。
低い建物ばかりだから、その一角だけぽっかりと夜空が見える。
立ち止まると、靴底が雪を噛む音がきゅっ、とした。
見上げれば、黒々とした空には光を揺らす星々。
大学に入って一人暮らしを始めてから、この場所が、ひそかな「星見スポット」になっている。
あっちでも、見えてるのかな。
西の方角は、なんとなく彼のいる街の方向のような気がして。
そちらに顔を向ける。
地理的に合っているのかどうかはよく分からない。
でも、そう決めてしまった方が、少しだけ近く感じられた。
スマホが小さく震えた。
画面をつけると、彼からのメッセージがひとつ増えている。
『今、外? 寒いから早く帰りなさい〜』
その一文だけで、喉の奥が少し熱くなった。
見られてるみたい……
もちろん、見えているはずはない。
ただ、私がよく「帰り道で星見てた」って話をするから。
なんとなく想像がつくだけなのだろう。
ビニール袋ひじに掛け、指先をこすり合わせる。
冷たさで少し痺れた人差し指で、メッセージ入力の画面を開く。
「今、星見てた。そっちは?」
一回消して、打ち直す。
「今、帰り道。寒いけど、星きれい」
送信ボタンを押してから、ちょっとだけ後悔する。
「星見てた」の一言が増えただけで、ずいぶん素直になったような気がして、急に恥ずかしくなった。
返事が来るまでのあいだ、空を見上げる。
冬の星空は、どこか痛い。
澄みすぎていて、こちらの心の中までぜんぶ見透かされてしまいそうだから。
会いたい、って言ってもいいのかな。
遠距離になってから、もうすぐ一年。
高校までは当たり前みたいに毎日顔を合わせていた人。
でも今は、電車を乗り継いで何時間もかからないと会えない場所に移ってしまった。
最初の頃は、毎日ビデオ通話もしたし。
週末のたびにどっちがどっちの街へ行くか相談していた。
でも、授業やバイトやサークルが増えて。
気づけば「今週はちょっと無理かも」が当たり前になっていた。
「遠距離ってさ、こういうふうに“自然に”会う回数が減っていくんだ……」
友達に言ったら、「それが普通だよ」って笑われた。
普通、なのかもしれない。
でも、普通と一緒に、「特別」までちょっとずつ薄まっていくんじゃないかと怖くなる夜もある。
スマホがもう一度震える。
『星? こっちは雲でぜんぜん見えない。いいなー、写真送ってよ』
思わず笑ってしまう。
「写真?」
この暗さで、スマホで星を撮ろうとしても、きっと黒い画面にノイズが浮かぶだけ。
それでも、カメラを起動して、空に向けてシャッターボタンを押す。
滲んだオレンジの街灯と、かろうじてひとつ二つ、よく見れば星かもしれない光の点が写った画像を、そのまま送信した。
『全然写ってないでしょ』
すぐに返事が飛んでくる。
『でも、見てるんでしょ? 同じ空』
たったそれだけなのに、心臓をぎゅっと掴まれたような気がした。
ずるいなぁ……
そういうところが好きだ、って言えない。
たぶん、言ったら、「何急に」って照れ笑いされるだけだ。
指が勝手に動いて、「会いたい」と打ち込んでいた。
画面の上に、その四文字が並ぶ。
送信ボタンだけが、やけに明るく光っている。
送っちゃえばいいじゃん。
心のどこかが、軽く背中を押す。
別の声が、それを引き止める。
言ったからって、すぐ会えるわけじゃないし。
現実的な事情が頭の中を通り過ぎる。
彼も期末レポートで忙しいと言っていたし。
自分だってバイトを休めるわけじゃない。
「会いたい」は、すぐには叶えられない願いだ。
言葉にしてしまったら、その叶わなさごと、目の前につきつけられてしまう。
でも、言わなかったら、なにも伝わらないまま……
息を吸い込む。
冷たい空気が肺の中まで入り込んで、内側から身体をきゅっと締め付ける。
親指で、送信ボタンをそっと押した。
画面に「送信しました」の小さな文字が出る。
取り消しボタンに指を伸ばしかけて――
やめた。
少しのあいだ、時間がゆっくり流れる。
アパートの外階段の前まで来ているのに、上がれない。
ただ、スマホを握りしめて立ちすくんでいる。
数秒か、数分か。
体感の時間が伸びていく頃。
ようやく画面の上に新しい吹き出しが現れた。
『俺も。めちゃくちゃ会いたい』
短いのに、妙に真っ直ぐな言葉だった。
いつものふざけたスタンプも顔文字もなくて、それがかえって心に響いた。
続けて、もう一通。
『今すぐは無理だけどさ。冬休み、そっち帰るから? 雪、いっしょに見たい』
視界がじんわり滲む。
マフラーの中で隠れていた唇が、内側から熱くなっていく。
冷えた頬のあたりが、内側から熱くなっていく。
「……バカ」
小さく呟いて、白い息が途切れ途切れに笑った。
遠距離だからって、ドラマみたいに劇的なことは何も起こらない。
画面の向こうで、彼はきっといつも通り、散らかった部屋でジャージ姿でスマホをいじっているだけだろう。
それでも、
同じ星空を見ていると信じられる夜と。
「会いたい」をちゃんと受け止めてくれる誰かがいることだけで。
世界は少しだけあたたかくなる。
『来て。冬は星めっちゃきれいだから。また、一緒に見よう』
震える指で、そう打って送信する。
白い一欠けらの結晶が指に触れる。
「あっ……」
階段を上がる途中、もう一度だけ空を見上げた。
さっきよりも、星が増えた気がする。
降り始めた雪が街灯の光を受けて、ふわりふわりと落ちてくる。
その白い粒の向こうに滲む星を見ながら、マフラーの中でそっと息を吐いた。
――冬の星空の中で、やっと言えた「会いたい」を、
彼がちゃんと「会いたい」で返してくれた夜のことを、
たぶんずっと覚えている。
拙文、お読み下さりありがとうございます。




