わたしたい
ホームルームが終わって、教室がざわざわと修学旅行の空気に戻っていく。
机の中で、朱莉は指先だけを動かした。
小さな紙袋の、カサ、と鳴る感触。
中には、ペアのキーホルダーが入っている。
夜の水族館で、みんなが「映え〜」とか言って写真を撮っている間。
朱莉はひとり売店の端っこで立ち尽くしていた。
「これ、可愛いじゃん。ペアなんだって」
そう言ったのは、クラスメイトの誰か。
「カップルでおそろにするやつじゃん〜」
笑い声にまぎれて、そのラックの前に残ったのは朱莉だけだった。
──カップル、じゃないけど。
真ん中が少しくびれた、水色のイルカ。
片方には小さく「sunrise」。
もう片方には「sunset」。
と刻まれている。
どっちを自分にして、どっちを彼に渡そうかと、昨夜まで何度も袋を開けては考えていた。
そして、朱莉は二つのイルカをそっと切り離し、彼の分はビニールに包まれたまま紙袋に戻した。
窓際の席。
彼――
宮野くんは、友達とふざけ合いながら、買ってきたキーホルダーを見せあっている。
「ほら! 俺の、これ。浅草の雷門。渋くね?」
「ダッサ。てか、なんでそれにしたん」
「うるせ。なんとなくだよ、なんとなく」
彼のリュックには、すでにいろんなキーホルダーがぶらさがっている。
京都の狐。
沖縄のシーサー。
よくわからないご当地キャラ。
そこに、イルカがひとつ増えたところで、きっと誰も気づかない。
──だから、渡せばいいだけなのに。
朱莉は、教科書を出すふりをして紙袋を指でなぞった。
胸のあたりが、きゅうっと掴まれるみたいに痛い。
「ねえ、朱莉。昨日の自由時間、どこ行ってたの?」
隣の席の友達が、椅子を引き寄せてくる。
「あ、えっと……水族館のとこ」
「やっぱり〜! お土産袋持ってたもんね。何買ったの?」
「ううん、たいしたものじゃないよ」
笑ってごまかしながら、机の中をさらに奥へと押し込む。
見せて、と言われたらどうする?
「ペアだ」ってバレたらどうなる?
「誰とおそろにするの?」って、聞かれるに決まっている。
浮かぶ顔は一人しかいないのに、口に出す勇気はどこにもない。
「宮野〜、移動教室だってよー、早くしろー」
「はいはい、今行くって」
彼が立ち上がる。
リュックの金具が揺れて、ジャラ、と小さな音が教室に散った。
その音にかき消されるみたいに、朱莉の喉の奥で言葉がほどけて消える。
──あの、これ……修学旅行のときに買って……
練習だけは、何度もした。
ホテルの廊下で、部屋の前で、バスの座席で。
でも、彼の顔を見ると、そのたびに「今じゃない気がする」と思ってしまう。
彼が楽しそうであればあるほど、水を差したくないと感じてしまう。
「行こ、朱莉」
友達に袖を引かれて、立ち上がる。
イスの脚が床をこする音がして――
その瞬間、タイミングをひとつ失う。
廊下に出る直前、朱莉はもう一度だけ、後ろを振り返った。
宮野くんは、黒板の前で男子たちとふざけている。
彼の横顔は、いつも通りで、何も知らない。
──知らないままでいいのかもしれない。
そう思った途端、紙袋の重さが、急に現実味を帯びる。
ペアのうちの片方は、今もビニールに包まれたまま。
もう片方は、朱莉のペンケースのファスナーにだけ、そっと付けてある。
教室のドアを閉める前。
彼の笑い声と、ジャラ、と鳴るリュックの音が、ほんの一瞬だけ重なる。
もし、あのイルカがそこに混ざっていたら。
きっと、誰も気づかない。
でも、朱莉だけは、目を凝らして見つけるだろう。
──「sunrise」と「sunset」。
一緒に持っていたら、なんとなく、同じ一日の中にいられる気がした。
渡せなかったキーホルダーは、ただ静かに、机の中で眠る。
「いつか」の日付も書かれないまま、可能性だけを抱えたまま。
チャイムが鳴る。
移動教室に向かう列の中で、朱莉はポケットの中でペンケースのイルカを握りしめた。
──せめて、半分だけでも一緒にいられますように。
誰にも聞こえない願いごとが、喉の奥で丸くなって転がった。
拙文、お読み下さりありがとうございます。




