染まって
その日の図書室は、いつにも増してシーンとしていて、少し息苦しかった。
梅雨前の、湿った空気と、古い本の匂いが混ざっている。
私、中学二年生の森野雫。
窓際のいつもの席で、数学の参考書と格闘していた。
「はぁ……」
つい小さくため息をついちゃった瞬間、顔を上げたら。
視界に――
「あ、やばい」
って思う光景が飛び込んできた。
なんと、私がいつも座っている席の真正面に、あの杉原律くんが座っている。
律くんは、クラスは違うけど、学年で一番目立つ人。
顔が良くて、運動神経も抜群で、いつもキャーキャー言われてる。
私とは住む世界が違うキラキラした人。
そんな彼が、ヘッドホンをつけて、哲学書みたいな分厚い洋書を読んでるなんて、すごく意外だった。
いつもバカやってるイメージなのに。
律くんの横顔は、すごく真剣で、いつもの明るさとは全然違う。
静かで、ちょっと冷たい光を放っていた。
静かな図書室の中で、その横顔だけが、私にはどうしようもなく眩しく見えた。
見ちゃダメ、見ちゃダメ、見ちゃダメ!
私は慌てて視線を参考書に戻す。
でも、もうダメ。
意識したら最後。
心臓がトクンッ、トクンッって、普段の二倍くらいの音で鳴り始める。
数学の問題文が、全然頭に入ってこない。
やだ、緊張しすぎ。
私を見てるわけじゃないのに……
そう自分に言い聞かせても、律くんの存在が気になって仕方ない。
そしたら、律くんがふと、読んでいた本から顔を上げた。
そのまま、ぼーっと遠くを見るみたいに、顔を少しだけ右に向けた。
──そして、私の目と、まっすぐに合った。
「ひっ!」
って、声が出そうになった。
時間が止まったみたいに感じた。
律くんの瞳が、私を、たった一瞬だけ捉えた。
私は、もう反射的に、参考書で顔を隠す。
耳の奥から、頭の先まで、熱が一気に広がる。
心臓がドッ!ドクン!ドッ!って、全力で走り切った後のみたいに、激しく暴れてる。
どうか、気づかないで。
なんで私、見ちゃってたんだろ。
キモいって思われたらどうしよう!
顔を上げるのが怖かった。
でも、数分経って、参考書から目だけを出して様子を窺う。
律くんはもう、何事もなかったみたいに本を読んでいた。
ホッとしたのも束の間。
私は間近の文字より律くんの顔を眺めている。
見たことなのない真剣な表情。
これってギャップ萌え?
また顔がぽーっと火照ってくる。
直後、テーブルのすぐ横で、「カツッ」って小さな音がした。
律くんが立ち上がった拍子に、リュックから何か落ちたみたい。
床を見ると、宇宙飛行士の形をした、小さなキーホルダーが転がっている。
律くん、ヘッドホンしてるから、多分気づいてない。
そのまま、本をまとめて出口に向かい始めた。
え、行っちゃう!
これ、絶対大事なものだよね……!
迷ってる暇なんてなかった。
私は、急いで席を立つ。
床からキーホルダーを拾い上げ、周りの人に迷惑かけないように、足音を立てずに、小走りで彼の後を追った。
彼の背中に向かって、精一杯の声を出した。
「杉原くん!」
律くんの足が止まった。
律くん、はゆっくりと振り向き、ヘッドホンを外す。
首を傾げる仕草に見惚れてしまう。
「なに?」
「あっ、これ……!これ、落ちてたよ!」
私は息を整えながら、両手でキーホルダーを差し出した。
律くんは、ちょっと驚いた顔をした後、すごく優しい笑顔を見せてくれた。「わ、ごめん。ありがとう、森野さん。これ、大事にしてるやつなんだ」
私の手からキーホルダーを摘まみ上げる。
その瞬間――
律くんの指先が、私の手のひらに、一瞬だけ触れた。
ゾクッ。
本当に、全身に電気が走ったみたいな感覚。
手のひらが、その熱を覚えている。
さっきまでのドクドクとは違う、もっと胸がきゅうって締め付けられるような、甘い痛みみたいなものが、心臓から全身を駆け巡る。
律くんは、もう一度「助かったよ、ありがとう」
って笑って、図書室から出て行った。
私は、その場に棒立ちのまま。
手のひらの熱と、律くんの優しい笑顔が、頭の中で何度も何度もリピートされる。
自分の心臓の音がうるさすぎて、周りの音なんて聞こえない。
……律くん。
胸の前で握りしめた手に残る感触を噛みしめる。
なんなんだろう、この気持ち。
胸の真ん中が、なんでこんなに熱いの?
変な汗が出てるみたいに、顔が熱い。
ドキドキしすぎて、ちょっとクラクラする。
さっきまで「違う世界の人」だったはずなのに、たった一瞬、指が触れただけで、律くんの存在が私の世界を全部塗り替えてしまったみたいだ。
私は、火照った自分の頬にそっと触れた。
窓から差し込む夕焼けの光が、図書室の空気を、オレンジ色に染め上げていた。
拙文、お読み下さりありがとうございます。




