背伸びした夜
前日のケンカが嘘みたいに、彼の作ったハンバーグはちゃんと美味しかった。
少し焦げてたけど、それすら、ちょっとだけ愛しくて。
「仲直りハンバーグだね」って言ったら、彼はちょっと照れたみたいに笑った。
その笑顔につられて私も笑う。
もう、さっきまでの、もやもやは消化されていた。
「このあとさ、ちょっと付き合って」
食後、そう言われて着いたのが、竹芝桟橋だった。
高校の頃、学校帰りに彼がよく連れて来てくれた場所。
夜景を見ながら、何でもない話をして。
私に告白してくれた場所。
そして――
初めて……キスした場所。
冷たい夜風は、ほんのり潮の香りがして。
レインボーブリッジが漆黒の空と海の架け橋みたいに、今日も鮮やかに光っている。
なんでもない平日の夜に、こんな場所に来るなんて。
ちょっとだけドキドキしてる。
「今日さ、なんの日か覚えてる?」
視線は夜景のままだけど、彼の声はちゃんと、私のほうに向いていた。
私は一瞬でハッとする。
──そうだ、今日、1月11日。
私たちが付き合い始めた日だ。
それは、高校二年の冬。
「忘れてた?」っていたずらっぽい笑み。
昔からこういう顔、得意なんだよね。
そう彼が、からかうから、私は慌てて首を横に振る。
「……忘れてないよ。ちゃんと覚えてた。ただ、先に言われて、くやしいだけ」
私は少し口を尖らせてみせると、彼はふっと肩をすくめた。
変わらないな、こういうとこ。
大人になっても、ぜんぜん。
「俺さ、今日にこだわってたんだ」
「なんで?」
「始まった日だから。7年前の今日、“付き合ってください”って言っただろ?」
「うん」
と私は頷いた。
あの時も、こんなふうに風が吹いてた気がする。
そして、珍しく舞っていた雪。
手すりの冷たさも、似てるかもしれない。
「だから、もう一回、言おうと思って」
彼が、そっとコートのポケットに手を入れた。
何気ない仕草なのに、私は一気に呼吸が浅くなる。
取り出されたリングケースが、彼の手の中で静かに光る。
「……え?」
「もう一度、言わせて。今度は“付き合ってください”じゃなくて」
彼が私の目をまっすぐに見て、優しく笑う。
そして、ゆっくりとひざまずいた。
「結婚してください」
胸がぎゅっとなって、涙がこぼれそうになる。
昨日のケンカも、意地の張り合いも、全部この瞬間のためにあったみたいだった。
彼の手の震えが、少しだけ伝わってくる。
私は泣きそうになりながら、胸の前で重ねた手で息を整える。
「ねぇ……もう一回、言って?」
彼が一瞬驚いた顔をした。
「結婚してください。これからも、ちゃんとケンカして、ちゃんと仲直りしていきたい」
ちゃんと目を見て、世界中に聞こえるような声で。
今度こそ涙が溢れて、私は頷いて彼の手を取った。
「……うん。よろしくお願いします」
彼が笑いながら立ち上がると、潮風がふわりと吹いた。
私の髪が頬にかかって、くすぐったい。
それを彼が優しく耳にかけて、そっと抱きしめてくれた。
彼の鼓動を耳にしていると安心する。
抱擁を解くと、彼は嬉しそうに、私の左手の薬指に、誓いをスッとはめ込んだ。
その時、ひとひらの白い結晶が、私の手の甲に乗って溶けた。
震える指の光を見つめて、私は彼の肩に手を添え、かかとをあげる。
そして、冷たい頬に、小さくキスをした。
一瞬、何の音か分からなくて顔を上げると、見ず知らずの人たちが拍手してくれていた。
いくつもの、やさしい笑顔がこちらに向けられていて。
ちょっぴり恥ずかしくて、彼と目が合う。
彼は私の腰に手を回し、背中をポンと軽く叩いた。
それを合図に、私たちは頭を下げる。
「おめでとう!」
誰かの祝福の声が響く。
“始まりの日”が、“新しい始まりの日”になるなんて、思ってもみなかった。
まして、こんな風に祝ってくれる人たちがいるなんて。
木枯らしの中でも、心と体は温かい。
首を傾げて彼を見上げる。
恥ずかしそうに、耳の後ろを掻きながら。
「お礼言おうか」
囁くような、彼の声に頷く。
そして、彼の小さな「せーの」の声に合わせて。
「ありがとうございます」
初めて二人で一緒に言った“ひとつの感謝”だった。
拙文、音幾打ありありがとうございます。
*写真は作者が撮影しました。




