喫茶迷言
この店には、カウンターしかない。
三つだけの、木製のスツール。
当たり前だが、背もたれはない、余計な気遣いもない、でも座ると不思議と落ち着く。
ひとつひとつ高さが少しずつ違っていて、それに気づいた人はたいてい「えっ」と笑う。
棚のガラスには、名前をつけそこねた豆の瓶が並んでいる。
産地は忘れたが、香りがいいやつばかりだ。
壁には時計があるけれど、たいてい止まっている。
時間を知りたいなら、カップの底を覗けばいい──
そう言って笑うと、だいたい苦笑いが返ってくる。
BGMは、どこかで拾ったカバー曲。
「カーペンターズ」と書かれているが、歌詞はちょっと間違っているし、テンポも妙にゆっくりだ。
「Yesterday once more」が「Yesterday one spoon」になっていたりする。
でもそのズレが、夜のこの店にはちょうどいい。
ネオンの灯りも看板も、古びたまま。
チョークの文字はにじみ、照明は少し黄色くて、店内にはどこか“くすんだあたたかさ”が漂っている。はず。
この空間で大事なのは、正確さでも、機能性でもない。
人が“ちょっとだけ間違っていても、なんとなく許される”感じ。
それが、この店の空気だ。
ここに来る人は、たいてい少し乾いてる。
だから僕は、カウンター越しに言うんだ。
「今日の気分は、苦いか甘いか?」
この店に、正確な営業時間はない。
必要なときに開いて、用が済めば閉じる──それだけのことだ。
《コーヒーと、あなたの勘違いを処方します。》
店の表の看板の文字は、もうずいぶん前から書き直していない。
チョークで書いた白い文字は、雨風にかすれて、いくつかの文字は薄くなってほとんど読めない。
たぶん今は「コー…ーと、あな…の勘違…処…」くらいしか見えない。
それでも、誰かの目にはちゃんと届くことがある。
でも、それでいいと思っている。
ピカピカの正しさより、滲んだままのやさしさのほうが、この場所には似合っている。
“勘違い”は、けっして悪いものじゃない。
思い込み、すれ違い、勝手な希望──
それで誰かが少しでも前を向けたなら、立派な薬だ。
世の中は“正しさ”を処方しすぎる。
だから、僕は“ズレ”を出す。
温かいコーヒーに溶かして、少しだけ甘く、あるいは苦く。
そうしてふらっと迷い込んでくる誰かが、カップの底を見つめながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いてくれたなら。
それだけで、この店はもう十分、開けていた意味がある。
今夜も、ドアの鈴はチリンと気まぐれに鳴る。
この店に来る客たちは、たいてい道に迷っている。
文字通りというより、もう少しやっかいなほうの「迷い」だ。
入って来たのは常連のちひろ。
年の頃は分からないが、少女のような純粋さを持った人。
細すぎるほど繊細で、真っ直ぐすぎるくらいに歩く子だ。
そのぶん、心はいつも少しずつすり減っていくタイプ。
得意技は自己嫌悪を見つけること。
人に優しくできるのに、自分の事はにのつぎ。
「いらっしゃい」
「こんばんは、マスター……」
無理して明るさを足しているような、枯れた声一つ。
真ん中のスツールに腰掛けると、ちひろは両手で頬杖をつき、小さく息をはく。
オーダーの声を受けなくても準備に取り掛かる。
出したのは、いつものとびきり甘いカフェオレ。
ミルクの海に、シュガーを三つぶくらい余分に足したやつ。
カップには、当店恒例、僕のささやかな名言を添える。
今日の彼女に合う言葉を。
《ひからびたパン》
「マスター、この今日の名言は何?」
ちひろは、メッセージカードを片手に首を捻っている。
「君がね、いま完全に、ひからびたパンだよ」
「は? 急に何ですか」
ちひろは眉間にしわを寄せ、カードを見つめながら、首をもう一度傾けた。
「わかるよ、最初は誰でもそう言う」
唇を尖らせ彼女なりに、意味を噛み砕こうとしているのが分かる。
感性があるというのも善し悪し。
「人はパンのみにて生くるにあらず……でもね、パンに似ているんだよ、人は」
「パン……に?」
「外は固くなって、心はポロポロ崩れて、もう誰も噛みちぎってくれない、そんな感じになってる」
「あの、トキワさん。いまわたしの心、完全に食パン扱いなんですけど……」
「あ、それは失礼。君はもう少し……バゲット寄りかと思ってた」
「ほめられてます?」
「もちろん」
ちひろはカップの縁をくるくるなぞりながら、小さく笑った。
「でも、ひからびたら、もう終わりじゃないんですか?」
「いやいや、君はまだパンを知らないね。ひからびたパンは、蘇るのだよ、フフフ」
「……ゾンビみたいに言わないでください」
「レンジでチンすればいい。ラップで包んで一晩眠らせるのも手だ。ようは、温めることと、包むこと。人間もそれで、けっこう持ち直す」
ハッとして眉を上げる、ちひろの瞳に少しだけ光が差し込んだ。たぶん。
「だから、君もチンすればいい」
ちひろは無言のツッコミみたいに、ゆるく眉を寄せる。
「……ごめんなさい、今なんて?」
「あ、言い方ミスった。でも本質はそこにある。君が自分で、自分を温め、潤うことができたら、ちゃんと、やわらかくなれる」
ちひろは両手でカップを包み込むと、フッと小さく笑う。
「じゃあ……私もラップで包まれたほうがいいですかね」
「いや、それはちょっと物騒だからやめとこう。つまり、毛布でも、お風呂でも、推しでも、猫でもいい。それから自分の“バター”を見つけなさい」
「バター……」
ちひろの視線がカップに落ちる。
たぶん、もう理解し始めている。
自分に必要な何かに。知らんけど。
「ひからびたパンに必要なのは、温もりと潤い、ちょっとの脂分」
ちひろはふっーと息をもらして笑う。
その笑いは、どこか湿り気のあるやさしさを孕んでいた。
彼女の“バター”は少しの自信と感性への刺激。
「……ふつうに慰められるより効くのが、なんか悔しいです」
「効けばそれでいいさ。薬ってのはね、だいたい苦いし、名前が変だから」
白黒ぶちのデカルトがちひろの足元を抜けて、隣のスツールに登る。
一瞬、ちひろをちらりと見た。
「“沈黙こそが真理”って顔だな」
僕はつぶやいたあと、ふと床を見ると毛玉がひとつ。
彼女も気づいて、目を細める。
そして「“真理、落ちてる”」って言った気がする。
知らんけど、たぶんそんな感じだ。
「いつも聞こうと思ってたんですけど、このお店、いつからやってるんですか?」
「たしか、地球が回り始めたあたりからだね」
「……マスター、惑星レベルで語るのやめてください」「正確には、定休日のたびに宇宙の起源を忘れるんだけど」
「定休日って、いつなんですか?」
「月曜と金曜と、あと僕の気分が湿ってる日」
「……つまり、ほぼ不定休」
「うん。たまにこの店、生き物みたいになるんだよね」
「え、どういうことですか」
「呼吸してる感じ。今日は開きたい、今日は無理、みたいな」
ちひろは、クスッと笑う。
「ちょっと共感するのが悔しいです」
そして、シュッと肩をすくめる。
「人だってそうだろ? 開けっぱなしじゃ、すり減る一方だ」
一瞬目を見開いたちひろは、黙ってカップを見つめる。
「……でも……閉めすぎると、今度は誰にも見つけてもらえない気がして」
その声は、どこか濡れた羽根の音みたいに、静かで、やさしくて、不安だった。
「それでもいい。見つける人は、ちゃんと間違って迷い込んでくるから」
カップの向こうで、ちひろの肩がほんの少しだけ、ふっとほどけた。
デカルトがカウンターの隅であくびをしている。
それを見たちひろがぽそっと言った。
「……わたしも、猫に生まれたかったかも」
「猫は猫で、けっこう忙しいらしいよ。あくびの時間とか」
そう返したら、スプーンがカチャンと音を立て、ちひろが吹き出した。
ちひろの笑い声が、カップの底に、わずかに響いた気がした。
それだけで、この夜はもう、じゅうぶんやさしい。
そして僕はまた、看板の文字を直さずに店を開けるのだ。
間違っていても、届くものが、ちゃんとあると知っているから。
知らんけど。
拙文お読む下さりありがとうございます。
作中の、ひからびたパンのお話しは、作者の小説「ただ、君を見ていた。」の中で出て来たエピソード。
ちょっと、面白いかなと思い、短編にしたのがこの作品です。




