その金属の箱は何じゃ?
「うおお……」
ヨシヒロは思わず息を呑んだ。
彼が服装の参考として見せたものではあったが、まさかここまで似合うとは想定していなかった。
目の前に立つティアマトの姿に、胸が高鳴る。
ティアマトは目を開き、自身の装いを一通り確認すると、満足げに微笑んだ。
そして彼の方を向いて両腕を広げた。
「どうじゃ? 我の姿は見目麗しゅう映っておるか?」
「すごい…言葉が出てこないよ、正直。」
「我を魅力的と思うか?」
「言うまでもないでしょ。」
「ならば、素直に『美しい』と申せばよい。」
ヨシヒロは苦笑してから言った。
「綺麗だよ。とても。」
「ふん! それくらい、言われずとも分かっておるわ!」
彼女は自信満々に胸を張ると、くるりと踵を返し、
「さあ、行くぞ。現世の変わりよう、しかとこの目で見届けたい!」
「了解。それじゃあ出かけようか。タマ、留守番頼むな。」
「みゃ〜お」
最後に見た自宅の光景は、タマがリビングのソファに飛び乗り、
丸くなって眠る姿だった。本来なら猫用ベッドに入ってほしかったのだが…
「して、何故あの呪われし獣に留守を任せるのだ?」
「特に理由はない。ただの口癖みたいなもんさ。」
そう言いながら、ヨシヒロは鍵をかけ、ポケットにしまった。
階段を降り、二人は目的地へと歩き出す。
目指すは秋葉原にある『ワールドモバイル』という携帯ショップ。
中央線を使えば、およそ三十四分の道のりだった。
だが——
「なにやらこの調子だと、もっと時間がかかりそうだな…」
道中、ヨシヒロは何度も立ち止まる羽目になった。
というのも、ティアマトの好奇心が爆発しており、目に映るもの全てに反応してしまうからだ。
「おおっ! あの動く金属の箱は何じゃ?」
「車のこと? イラクでも見たはずだけど?」
「そうであったか? あの時は様々なことが同時に起きておったゆえ、目が回っておったわ。
今こそ、あの奇妙な箱について詳しく教えてくれぬか。」
数千年も封印されていたドラゴンに車の仕組みを説明する――
ヨシヒロは、まさか自分がそんな状況に陥るとは夢にも思っていなかった。
「ええと、車はね……馬に引かれない戦車みたいなものだと思ってくれればいいよ。
ハンドルを使って操作して、エンジンで動くんだ。
エンジンは、内部で燃料を爆発させて、それを機械の動力に変換して……って、ちゃんと聞いてる?」
ティアマトは、彼の話の途中で完全に集中力を失っていたようだった。
目をパチパチと瞬きし、顔をそらして小さく微笑む。
「も、もちろん聞いておるぞ! な、内燃機関…まことに興味深いのう……」
「全然理解してないだろ?」
「わ、わらわは理解しておる! 神である我が、そのようなことで躓くとでも?!」
「じゃあ、内燃機関の仕組みを説明してみて?」
「う、うむ……その……汝の説明があまりにも高度であっただけだ。
なぜ、かように意地悪を申すのだ……?」
そんな他愛のない言い合いをしながら、彼らは駅へと辿り着いた。
ティアマトは、そこに溢れる人の多さに目を丸くした。
ヨシヒロも気持ちは分かった。まるで何千、何万もの魚が群れをなして、好き勝手な方向に泳いでいるかのようだった。
だが不思議なことに、その混沌の中には確かに秩序が存在していた。
道に迷いたくなかったヨシヒロは、ティアマトの手をしっかりと握って歩く。
すると、人々の視線が一斉に彼らに向けられた。
老若男女を問わず、誰もがティアマトの姿に目を奪われた。
中学生らしき少年たちは肘で突き合いながら彼女を見つめ、
ギャル系の若い女性は足を止めてクレープを落とし、
それを見ずに通り過ぎた男性が踏み潰すという、ちょっとした騒動まで起こった。
――どうやら、この女神の美貌には、誰ひとりとして抗えないらしい。
――誰も彼女の美貌に抗えないという事実は、逆にヨシヒロに少し安心感を与えた。
自分だけが翻弄されているわけではないらしい。
だが、電車内はさらにひどかった。
ヨシヒロはティアマトを車両の隅に立たせ、自分が盾になるように前に立つ。
痴漢にでも遭ったら困るからだ。
だが、当の本人は全く気にしている様子もなく、窓の外の景色に夢中だった。
その澄んだ瞳がきらきらと輝き、ヨシヒロは思わず心臓が止まりそうになる。
(……こいつ、本当に数千年も生きてたのか? なんでそんなに可愛いんだよ……)
「おい、見ろよ、あの子。」
「見てる見てる。やべぇ、美人。モデルか?」
「たぶん、そうだろ。」
「外人っぽいよな。どこの国の人だと思う?」
「ヨーロッパとかじゃね?」
電車の隅で話していた高校生二人組は、ティアマトを指差してひそひそと話していた。
別に大声で騒いでいるわけでもない。だが、それでもヨシヒロは居心地が悪かった。
(もう少し静かにしてくれないかな……せめて、聞こえないように囁いてくれ……)
そう思いながらも、彼らの声は続く。
「なぁ、あの人の隣の男って彼氏か?」
「ないない。だってあいつ、めっちゃ地味じゃん。」
「でも、けっこう背高くね? しかも髪と目の色が外人っぽいし。」
――その言葉で、さらに居心地が悪くなる。
ヨシヒロは、自分が周囲からどう見られているかを痛感していた。
金髪、青い目、平均より高い身長――そんな外見のせいで、
彼は日本で「外国人扱い」されることが多かった。
いくら日本語が完璧でも、初対面の相手には英語で話しかけられることすらある。
(観光地だから、ある程度は仕方ないんだけどさ……)
そんな風に自己嫌悪に陥りそうになったところで、ティアマトが彼の腕を取った。
「ヨシ! 我らは急がねばならぬのではないか!?」
「そうだったな。」
「この乗り物、列車と呼んでいたな? 先ほどの車とは異なるのか?」
「うーん、違うような同じような……。まあ、でっかいレールの上を走る車って感じかな?」
「うむ、難しき仕組みは分からぬが、人類の進歩には目を見張るものがある。あれを見よ! あの木々、美しきことよ!」
彼女が指差す先には、運河沿いに咲き誇る桜並木があった。
その光景に目を輝かせるティアマトの横顔を見ながら、
ヨシヒロはふと思う。
――彼女の目には、この人間の世界はどう映っているのだろうか?




