ノミまみれの化け猫、死にたいらしい
彼女は翼をはためかせた。
巨大なそれは、美しい鱗で構成されており、まるで陽光を受けて煌めく海のようだった。
その雄大さには、誰もが息を呑むに違いない。
そして、その後ろでは、同じ色をした美しい尻尾が左右にゆっくり揺れていた。
その尾は長く、幅もあり、桃のような形をしたお尻の上から生えている。
肌から鱗へと変わっていく境目もまた、どこか神秘的で——。
……いや、ヨシヒロが気にしていたのは、彼女のドラゴンとしての構造ではなかった。
それに反応してしまう「自分の精神状態」のほうだ。
「我は、湯浴みが終わり次第、衣を纏う所存じゃ。
だが、シャンプーが足らぬ。髪を洗うには、必要不可欠なのじゃ」
「あとで買ってくるから!今日は我慢してってば!早く服着てくれ!」
「なぜ、そんなに怒っておるのだ?」
「怒ってない!!」
「怒っておらぬ者は、そんなふうに叫ばぬものじゃ。
それに、忘れてはならぬぞ。そなたは我が下僕。
下僕が主に向かって怒鳴るなど、あってはならぬ行為じゃ」
彼女とヨシヒロが言い争っているその間——
ふわふわの毛玉のような存在が、彼女の煌めく尻尾を凝視していた。
その存在、つまりヨシヒロの飼い猫・タマが動き出したのは、ほんの一瞬後のことだった。
「タマ、やめろ、絶対やるなよ——」
「い゛や゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!?貴様、ノミまみれの化け猫め!
我が美しき尾に噛みつくとは何たる無礼!命が惜しくはないのかッ!?」
「にゃあああ……」
「何勘違いしておるのだ、この毛玉が!ここを我が城と勘違いしておるのか!?
聞け、この下等生物!ここは我が宮殿!我は女神!そなたは我に従うのじゃ!」
「にゃ……」
「何をほざくか、この小童ッ!その面、毛皮にしてくれるわ!!」
怒り狂った女神は、タマに向かってくるりと振り返ると、威嚇するように背中の毛を逆立てて睨みつけた。
そして、その瞬間——
ヨシヒロの視界に飛び込んできたのは、あまりにも完璧すぎる彼女のヒップだった。
彼女の……いや、これ以上は言うまい。
だが、それはまさしく目のごちそうだった。
ヨシヒロは、必死の思いで両手で目を覆った。
だが、完全に隠しきれず、指の隙間からしっかり覗いてしまっていた。
そして、その瞬間——
ヨシヒロのアパートのドアが突然バンッと開かれ、もう一人の女が飛び込んできた。
彼女もまた、最初の女に負けず劣らずの絶世の美女だった。
その美しさは、もはや「1+1=2」と言うよりも説得力があると言っても過言ではない。
漆黒の髪は真夜中のように深く、白く透き通るような肌とのコントラストが完璧だった。
その瞳は、知性と力強さを兼ね備え、鋭く光を放っていた。
今まさに猫と論争している全裸のドラゴン女とは異なり、彼女はきちんと服を着ていた。
しかも、そのファッションセンスは圧巻だった。
片方の肩を出した非対称のトップスは深いコバルトブルー。
絹とサテンの上質な混紡素材で仕立てられ、ほのかに光を反射している。
片側に折り紙のようなプリーツ加工が施されており、日本的な美意識がそこに漂っていた。
それに合わせたのは、シンプルなシルバーベルトでまとめられたチャコールグレーのキュロットパンツ。
体のラインは服によってやや隠れているが、ヨシヒロには分かっていた。
この女の下には、“とんでもない武器”が隠されていることを——。
「悲鳴が聞こえました! 一体何があったのですか、ティアマト様!?」
「下僕リュウミよ、よくぞ参った! 今こそ、この忌まわしき獣への裁きを下すのじゃ!
この猫めが、我が麗しの尾に噛みついたのじゃ!復讐を所望する!」
リュウミは猫と、怒れる(しかもまだ裸の)ドラゴン女神を交互に見比べたまま、完全にフリーズしていた。
まるで雷に打たれたかのような表情——それは当然だとヨシヒロも思う。
だって、裸の女が猫と口論しているのだ。
それを見て「何かがおかしい」と思わない方がどうかしてる。
当然、リュウミもきっと服を着るよう注意するはず——
「この私の女神ティアマト様の尊き尾に爪を立てるなど、身の程をわきまえぬ愚行ッ!
ご安心ください、ティアマト様!忠実なる僕リュウミ、決してこの不敬を見過ごしはいたしません!」
——え?
猫は、明らかに数的不利を悟ったのか、寝室の方へと逃げ出した。
ベランダの窓は閉まっていたが、寝室の窓は開いている。
ヨシヒロがよく換気のために開けっ放しにしているせいだった。
「猫を捕まえるのじゃ!!」ティアマトが叫ぶ。
「承知いたしました、ティアマト様!!」
二人の女神(のうち一人は全裸)は、勢いよく寝室へとなだれ込んでいった。
ドタバタと床を蹴る音、物が倒れる音、猫の威嚇する鳴き声——
アパート中に響くそれらを聞きながら、ヨシヒロはその場に棒立ちになった。
深く息を吸い込み、天井を見上げながら、長いため息をひとつ。
——俺の平和な日常は、どこへ行ってしまったんだ……。
——なんで、こんなことになったんだよ……。
この“恥という概念が存在しないドラゴン”と一緒に暮らすことになったヨシヒロ。
彼の運命がどのように狂っていったのかを語るには、少しだけ過去を遡る必要がある。
——さあ、時間を巻き戻そう。
すべての始まりを知るために。
裸の女性に名前がつきました!ティアマトです!彼女は一体どこから来たのか、わかりますか?今のところ、彼女の印象はどうですか?