リュウミからの電話
バスタブの縁に置いていたスマホが、**ブゥウウ……**と震え始めた。
着信表示には——桐生リュウミの名前。
ヨシヒロは手を軽く拭いてから、通話ボタンを押し、スピーカーに切り替えた。
「やっほー! そろそろ着いた頃かなって思って電話したんだけど、どうだった? 飛行機、快適だった?」
「……俺には豪華すぎたよ」
「えぇ〜〜っ!? なにそれ、失礼な〜!
あの便、あんたのために選んだんだからね? もっと感謝してくれてもよくない?」
「感謝してるよ。ただ、快適すぎて逆に落ち着かなかったって話」
「じゃあ次からはファーストクラス取らないほうがいいってこと〜?」
「それはやめてくれ。
もうエコノミーには戻れない身体になったわ。あれは一回で十分だった」
通話の向こうから響くリュウミの声は、
春のそよ風に揺れる風鈴のように柔らかく、どこか妖艶さも感じさせた。
渋谷の大型ビジョンに彼女のCMやドラマが映るたび、
その声に言及する人々の声がよく聞こえてきた。
——確かに、あの声だけで男は落ちる。
耳元で囁かれたら、正気を保てる自信はない。
「とにかく、今日はしっかり休んでね。
明日の朝、ツアーガイドさんが早めに迎えに来るはずだから。
丸一日バビロンを回る予定なんだよ〜。ああ、ほんと羨ましい……
この旅、半年も前から計画してたのにぃ……」
「その話、もう何回目だよ。
問題なのは、お前が“断れない性格”だってことだろ?
本気で行きたかったなら、オファー断ってたはず」
俳優は、アイドルほど厳しい契約管理をされない。
アイドルたちは、
「恋愛禁止」「私生活の制限」「イメージ管理」など、
がんじがらめの契約を結ばされることも珍しくない。
十代のうちに一度も恋愛を経験せず、
卒業後、なぜか太った中年芸人と電撃結婚——なんてパターンも多い。
そして、そのほとんどは
「本当に好きだったのか?」と疑いたくなるような結末を迎える。
一方で俳優は、かなり自由度が高い。
事務所はあくまでサポート役で、
仕事の調整や役の紹介こそすれ、
私生活にまで口出しされることは少ない。
ヨシヒロがそう話しても、
リュウミが“本気で反論する”ことはなかった。
——なぜなら、図星だったからだ。
リュウミは、今や一流の俳優だった。
その地位ゆえに、多くの仕事やオファーが舞い込んでくるが、
同時に、自分で取捨選択する自由も持っていた。
——むしろ、彼女ほどの立場になると、
事務所の方が「彼女に辞められては困る」という状況になる。
彼女が所属している芸能事務所も、
俳優たちのメンタルケアや自主性を尊重する方針で有名だ。
「う、うん……分かってるんだけどさ……
でも、断るって……やっぱり難しいのよ……」
「その感覚、分かるって言いたいけど——残念ながら、俺には縁がなさそうだ」
「……それはそれでちょっと切ないね……」
電話は、その後もう少しだけ続いた。
ここは深夜、日本はまだ早朝。
時差は6時間——つまり彼女は、朝の4時に電話してきたということになる。
「無事に着いたか心配で……」なんて、彼女は軽く言っていたけれど。
——その一言が、ヨシヒロの胸をじんわり温かくした。
通話を切ったあと、バスタブから上がり、
部屋に備え付けられていたシルク製のパジャマに袖を通す。
そしてそのまま、
ふわっふわのベッドにダイブした。
「……なにこれ、雲の上……?」
本気でそう思うくらい、ベッドは柔らかく、包み込むようだった。
明日からは、本格的な観光が始まる。
しっかり休んで、備えておかないと。
目を閉じながら、彼はぼんやりと最後にリュウミの声を思い出した。
——まるで、夢の中でも囁いてきそうな、あの甘い声を。
彼の旅は、まだ始まったばかりだ。
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