5話
◆
朝起きたら熱は下がっていた。
憂鬱な気持ちで授業を受けて、憂鬱な気持ちで小西先輩の部屋へと向かった。
今日は早すぎた様で、インターフォンを鳴らしても誰も出ない。
一旦自室へ引き上げようかと思ったが、行き違いになっても困るため諦めて待たせて貰うことにした。
このカードキーが部屋のドアを開けられるものなのかは知らない。試してみる気も無い。
誰か別の役員と鉢合わせになるかと思ったが、誰とも会うことなくしばらくすると小西先輩と五十嵐君が連れ立ってきた。
俺の元に駆け寄ってくる五十嵐君の顔色は別に悪くはなかった。少しだけ心配だったのでほっとした。
「お待たせしてすみません。」
申し訳なさそうに五十嵐君に言われ、慌てて手を振って、そんな事ないと返す。
そうこうしているうちに、小西先輩がドアのロックを外し中へ入れと誘導される。
五十嵐君の細い体が先に中に入り、それから俺が入った。
昨日と同じようにソファーに楽に座ってもらい、作業を始めた。
小西先輩も昨日と同じように水の入ったタライをそっと俺の横に置いた。
昨日よりは大分小ぶりになったものの、また今日一日で新しい糸をこびり付けているもののそれでも最初の状況よりはかなりマシだ。
一本一本取っていると、小西先輩が五十嵐君に声をかけていた。
「ケーキあるけど食べる?」
五十嵐君は俺の方をそっと見た。
昨日もそうだったけど気にしなくていいのになと思う。
苦笑い気味でどうぞと声をかけると、小西先輩に「お願いします。」と言っていた。
「佐紀ちゃんは紅茶派だよね。アイスティーでいい?」
「はい、ありがとうございます。」
作業以外の事を気にしていても仕方が無い。
俺は目の前の糸の塊に集中することにした。
それから、たっぷり2時間ほどひたすら糸をほぐした。
目の前に1本だけになった糸を確認して、ふうと息を吐いた。
その音で気が付いたのだろう、小西先輩がこちらをみて、それから糸を確認し「お疲れ様」と声をかけた。
五十嵐君も周りを見回して、澱み消えてますねと喜んでいる。
「とりあえず、一旦は元に戻せたと思います。
ただ、また明日には少しずつ引き寄せてしまうと思います。」
「そう、ですか。」
「引き寄せないような体質にするために、俺の実家に通ってもらうんですよ。」
「はい、頑張ります。」
ニコリと笑って五十嵐君は手を握った。
「今日は体のだるさは?」
「全くないと言ったらウソになりますけど、昨日よりは全然!」
「そうですか、よかったです。」
俺がそう言うと「本当にありがとうございます。」と言って帰り支度を始めた。
小西先輩は引き止めないのかと思ったが、そんな様子はない。
「ねえ、これって明日も何かした方がいいのか?」
小西先輩に尋ねられる。
「ああ、はい。多分明日も引き寄せられていると思いますので……。
1か月もすると徐々に引き寄せられなくなってくるとは思うのですが。」
五十嵐君の体質の強さ次第なのでなんとも言えない。
「ふーん。じゃあ、佐紀明日も放課後ここで。」
「はい!それでは失礼します。」
五十嵐君は帰ってしまった。
俺も帰ろうと支度をしていると
「ケーキまだあるんだ。食べてけばいいよ。」
そう、そっけなく言われた。
「へ!?」
正直驚いてしまった。この人が俺と時間を過ごそうとしていることに。
「どうせ、今日も体調悪くなってるんだろ。顔色悪いし。
具合悪すぎて何も受け付けないって言うなら別だけど。」
ぶっきらぼうに言う小西先輩が少しだけおかしくて、ふふっと笑った後
「食べます。」
と答えた。
小西先輩は、初めて俺の前で満足げに笑った。
ソファーに座り待っていると小西先輩がキッチンから戻ってきた。
トレーに載せられてきた皿には真っ白なクリームのシフォンケーキが乗っていた。
「どうぞ。」
そう言って置かれた、暖かい紅茶とケーキ。
そっと透明なセロファンを外して一口、口に含むと上品な甘さが口いっぱいに広がった。
ふわふわとしていて、少しだけレモンの香りがして、疲れ切った体に染み込むように美味しい。
一口一口かみしめる様にして食べる。
暖かな紅茶もいい香りでとても美味しく感じた。
「美味しいです。ありがとうございます。」
ふと、顔を上げてお礼を言うと小西先輩と目が合った。
こちらをみて、笑顔を浮かべていた。
思わず持っていたフォークをギュッと握った。
何か変だ。なんでこの人はこんな顔で俺の事を見ているんだろう。
いたたまれなくなって、ケーキに集中した。
夕食もどうだと言われたが、断った。
こんな恨んでも、遣る瀬無い気持ちをぶつけられるのでもない状況には耐えられそうもなかった。
自分が何を言い出してしまうかわからなかった。
次の日も、その次の日も数本張り付いた糸を取った。
10分ほどで終わるその作業の後、五十嵐君に引き止められるようになった。
小西先輩は五十嵐君との時間を取られる格好となって嫌がるだろうと思っていたが、そんな事は無かった。あくまでも表面上の事だが。
五十嵐君の言うオーラを俺の家では縁と呼んでいる事、それが糸で見えること、あとは学校での些細な事、そんな事を話した。
五十嵐君は転校して以来、碌にまともな話ができなかったので、俺と小西先輩とこうやって話せて嬉しいと泣きそうな顔で笑っていた。
泣きそうな顔をしているのに五十嵐君はとても可愛らしかった。
毎日30分ほど話して自室へ戻る、その繰り返しで週末になった。
金曜の夜、小西先輩からメールが来た。
【糸の事で話があるから土曜日何時でもいいので部屋に来てほしい。】
簡潔に書かれたメールに自嘲気味な笑みが漏れる。
もし相手が五十嵐君だったら、絵文字モリモリの可愛らしいメールになるのだろうか等ととんでもない事を考えてしまい首を振った。
机の引き出しから鋏を取り出しそっと触れる。
【わかりました。10時にお伺いします。】
そうメールを返信して鋏に指を通した。
2、3度シャキンシャキンと空を切る。
恐らく、明日呼ばれたのは糸を切って欲しいという話をするためだろう。
それ以外に理由はない。
糸以外に、俺とあの人を繋ぐもの等無いのだ。
銀色の鋏は父から送られたもので、一般に売っている文具の鋏より重厚なつくりをしている。
明日、初めて使う。
糸を切ったことはある。
ただ、それはあくまで父の仕事の手伝いとしてで、自分の判断のみで切るのは、これが初めてだ。
次に帰省した時に、きっと家族には酷く怒られるだろう。
だけど、それでも、切ってしまえばいいのだ、と思っている自分がいるのも確かだった。
鋏を机の上において、ベッドに入った。
その日の夜はあまり眠れなかった。
◆
眠い目をこすりながら起き上がる。
冷たい水で顔を洗い、無理矢理朝食を胃に押し込んだ。
その後、そのまま持ち歩く訳にもいかない為、鋏を適当なカバンにしまう。
10時少し前、重い足取りで小西先輩の部屋へと向かった。
インターフォンを押すと待ち構えた様に小西先輩が出迎えた。
五十嵐君と何度も入ったリビングに通される。
いつもは五十嵐君が座っているソファーに座ると向かいに小西先輩が座った。
「なあ、亘理俊介。お前本当にこの糸に何の意味もないって思ってるのか?」
「……そうですね。」
名前を呼ばれたことに少しだけ驚いた。
だが、何を確認されているのか分からなかった。
五十嵐君に絡んだ糸を取ったことで、何か疑念がわいているのだろうか。
「じゃあ、なんでお前今まで糸を切らなかった。」
「それは……。」
「切りたく無かったのか?」
確信をつく様に言われ、思わず息をのむ。
「そういうことじゃない!別に意味の無いものだから必要がなかっただけだ!!」
思わず語気を荒げ、怒鳴るように言ってしまった後になって、ハッと我に返る。
居た堪れなくなって、小西先輩から視線をそらすと、長い長い溜息が聞こえた。
「糸、切っちゃってくれないかな?」
その声は二人きりの部屋にとても大きく響いた気がした。
唾を飲み込んで「わかりました。」それだけ答える。
今日は、そのために来たのだ。
分かっていた筈だ、最初から。
彼はこの糸が誰かと繋がっている事を嫌がっていた。
最後になるだろう感触を確認するために、自分の指から伸びる糸にそっと触れた。
鞄から、鋏を取り出した。
小刻みに震える指は、気にしないことにした。
――シャキン
軽い音と共に、糸は真っ二つに切れた。
ああ、切ってしまった。
切れてしまった。
呆然と糸を見つめていると、糸は切れたところからシュルシュルと縮んでいき、おおよそ10㎝だけを残すだけになった。
小西先輩はそれをしげしげと眺めてから、満足そうにして、立ち上がって、一歩また一歩と俺の元に近づいてきた。
とてもじゃないが、ここでお礼を言われたら自分を保てる自信がない。
「それじゃあ、帰ります。」
早口で言って、立ち上がって小西先輩の脇を通って行こうとした。
が、腕を掴まれる。
頼むから、やめてくれ。
「離して、ください。」
小西先輩の方を向かずに、言った。
「いやだよ。だって離したら逃げるでしょ?」
そりゃあ逃げるよ。逃げるに決まってる。
振りほどこうとした俺を逆に引っ張って、反動でよろけた体はすっぽりと小西先輩の腕の中に納まった。
「好きだよ。亘理俊介、君の事が好きだ。」
至近距離で言われた言葉が、理解できなかった。
意味が分からない。
「だって、切ったじゃないか、その切れた糸を嬉しそうに見てたじゃないか!!」
「ああ、嬉しかったよ。糸と自分の気持ちが無関係だって証明できて。」
きっぱりと言い切った小西先輩を、思わず見上げた。
「だってお前、とてもその糸を気にしていたじゃないか。」
見下ろす小西先輩は、困ったように笑っていた。
「意味が無いって言いつつも、多分お前もこの糸に縛られていただろう。」
俺が佐紀と出会って、糸を取ってしまいたいと思ったのと同じくらい。小西先輩は笑顔を浮かべた。
「だから、この糸が繋がったまま、気持ちを言ったって、『糸に毒されたんですか?』って返されるのがオチだと思ったんだよ。」
だから、独断で切った。
真剣な表情に変わっていた。
「糸なんていう不確定なものに関係なく、お前の事が好きだよ。」
「……五十嵐君のことは?」
好きって言われた返しがこれとか、自分でも可愛げの欠片もないなと思う。
「好きだったよ。ちゃんと気持ち伝えて振られてケリはつけた。」
「……五十嵐君に振られたから俺ってことですか?」
ポツリと漏れた言葉は弱音だったのかもしれない。
「違うよ。」
小西先輩は俺の髪の毛をそっと撫でて、そこにそっと唇を落とした。
もう、限界だった。
目頭が熱くなったと思ったら、じわりじわりと涙が溢れてきて、決壊したようにボロボロとこぼれた。
小西先輩はどこか困ったように、けれども嬉しそうに袖口で俺の涙をぬぐった。
「ずっと、ずっと、好き、でした。」
嗚咽に紛れてそれだけ伝えると頭をなでる手が一層優しくなった気がした。
「ねえ、触ってもいい?」
俺の顎を持ち上げて、見つめ合う様な恰好にされて言われる。
おずおずと頷くと、付け加える様に
「全身を。」
言われて、その意味を反芻した。
あわあわと口を開けたり閉じたりしていると「なんだ、お前可愛いところあるじゃん。」と笑われた。
「ねえ、いい?」
確認するように、もう一度聞かれた。
俺を見下ろすその瞳は完全に男としてのもので。
ゴクリと唾を飲み込んだ後「……いいですよ。」と声をかけた。
それは、ほとんど虚勢みたいなもので、ほんの少しだけ期待を含んだ言葉だった。
アンタはきっと、その言葉の奥にあるいろんなものを正しく理解してくれたと思う。
そっと唇をなぞられてから触れ合う唇がとても柔らかくて、面映ゆい気持ちになった。
唇を離して、視線が合ってようやく実感できて、また一筋涙が溢れた。
◆
隣の身じろぎで目が覚めた。
目は泣きすぎた所為か腫れぼったくなっている。
こんなにすぐに体をゆるしてしまった。
そもそも初めての自分で、小西先輩は楽しめたのだろうかと視線を彼に移す。
そして、驚愕する。
糸が、彼のタオルケットから出た指から伸びる糸があったのだ。
慌てて自分の指を確認するとそこからも糸が垂れ下がっていた。
その糸は、昨日までと同じように、俺と小西先輩を繋いでいた。
ただひとつ違うことは途中で、まるで不器用な人間が無理矢理補修したかの様に、こぶ状に少し膨らんでいる部分があることだった。
その膨らみに触れようと動いたところで、隣の小西先輩が身じろぎをして、目を開けた。
「んー、どうした?」
けだるそうに聞く小西先輩に視線をこぶへと移し「糸が。」とだけ声を出した。
小西先輩が息を詰める音を聞いた。
「一度切った糸は、こうやってまた繋がるものなの?」
「俺も、こういったものを見るのは初めてです。」
「そう。」
小西先輩は自分の手を掲げて糸を揺らす。
それから満足気に
「まるで、本当の運命みたいだね。」
と言った。
「何の意味もない糸ですよ。」
俺が返すと「そうかもね。」と言って、また笑みを深めた。
了