4話
あれから暫く経った。
最悪な気分で朝起きる。
昨日の残りご飯を握っておいたお握りを食べ、一度寝室に戻って制服に着替える。
いつもの日課である指先の糸を、ドアノブに引っかけようとして、やめた。
もう、意味が無いのだ。
自嘲するように口角を上げてから溜息を一つ付く。
溜息をつくと幸せが逃げるというが、幸せが逃げるから溜息を付くのだ。
順番がそもそも逆だと思った。
のそのそと重たい足取りで校舎へと向かった。
◆
昼休みになった。
人ごみは嫌いだ。
下を向くと目に入るのは、糸・糸・糸。
まるで川の様に糸が伸びている。
色々な方向に伸びている場合もなくはないが、この糸のつながる先は人間だ。
必然的に人口の多い方角に向かって糸は伸びていくのだ。
だから、学食にもあまり行かない。
あの人がどこで食事をとっているのかも詳しくは知らなかった。
この糸は引き合う等ということは無いのだ。
購買でサンドイッチを購入して空き教室で広げていると、引き戸が開けられる音がした。
そちらを見ると、小西先輩がこちらを覗き込むように立っていた。
「一緒に昼ご飯いい?」
笑顔を浮かべ、こちらの返事等どうでもよさそうに入ってきて俺の目の前の椅子に腰を下ろした。
手には購買の紙袋を握っているので、食べるものを持ってきたらしい。
「学食にはいないだろうと思ったから買ってきたんだ。」
俺がいつも学食を使わないことを知ってる訳がないのにそういう風に言われ思わずそらしていた視線を小西先輩に向けた。
「俺もあのごちゃごちゃとした物見ると食欲なくなるもん。」
カツサンドを取り出して頬張る小西先輩は当然の様に言った。
「だからって、なぜここに?」
「自分の指からのびた糸をたどるのって結構面倒だね。廊下で2度ほど分かんなくなったよ。」
「どうやってここまで来たかではなくて、なぜ俺のところに来ようと思ったかが知りたいのですが。」
仕方が無く自分のツナサンドを取り出して食べる。
どんな状況でも美味しいものはおいしい。
「んー?この糸を利用しようとしない君が気になるって言ったら、信じるぅ?」
「まあ、信じませんね。」
間髪入れず俺が返すと、面白そうに声を上げて笑われた。
信じる訳がないだろう。
「ねえ。あの子の糸を解くことはできないの?」
「……解いたところでアンタと繋がりはしませんよ。」
「うん、それは知ってる。」
少しだけさみしそうに小西先輩は言った。
「あの子、もう限界みたいなんだ。今日も何でって泣きそうでさ。大地だけはいつも態度が変わらないから嬉しいって。」
「のろけですか?大分懐かれてるじゃないですか。このまま優しい先輩でいればアンタに靡くんじゃないですか?」
言ってからとても厭味ったらしい言い方になったと気が付き思わず顔をそむけた。
だから、その時どんな顔で小西先輩がこちらを見ていたかなんて知らない。
「変なオーラを引き寄せちゃうんです。」
静かに小西先輩は言った。
「あの子、そう言ったんだよ。」
多分、糸が見えないにしろ何かを感じてるんじゃないか。なら、何か助けになれるんじゃないか。
こんこんと、小西先輩は説明した。
「そもそも、本人が毅然と断ればそれで済むことですよ。
あれを何とかしたとして、別の悪縁に蝕まれないなんて誰も保障できない。」
目の前のサンドイッチを飲み込んで俺が言う。
「見るからに悪縁だったとしても、必要な場合もあるんですよ。
能力があるからといってそれを行使していいということにはならない。」
「……じゃあこの糸を切るって言ったのは?」
「だって、つながっているのは俺ですから。」
「切ったことによって、お互いに別の〝悪縁”が降りかかったとしても。」
「それも覚悟の上ですよ。」
だから、言ったのだ。
「なんで、俺の希望を叶えるために亘理君がそんな覚悟してるの?」
二人しかいない室内にそれは思いの外大きく響いていた。
何故って、そりゃあ。
「そんな事どうでもいいでしょう。
それよりあの転校生の話ですよね。
あの手の絡まりは解いても解いても、本人が変わらない限り引き寄せますよ。
本人が自覚して、でその手伝いをうちがするのであれば可能ですけど。
そもそも、それで彼が変わってしまってまだアンタらの好きな無垢の彼のまま居られるのかは俺には分かりません。」
まくし立てる様に一気に言うと
「どうでも良くはないんだけど、今はまあうん、それでいいよ。
それに、俺はあの子が無垢だから大切だと思ってるんじゃないよ。
彼が成長するかどうかは彼が決めるべき事だ。」
そう返された。
視線は恐ろしくて合わせられそうになかった。
「兎に角、一回あの子の話を聞いてもらっていいかな?」
「……わかりました。」
絞り出すようにそう一言言うだけで精一杯だった。
家に連絡をして、許可を取った。
基本的にある程度ほぐすくらいなら、俺にもできなくもないけれど、粘着テープの様に他の糸をべとべとと誘引するのに関しては今の俺の力ではどうしようもない。
彼が、俺の話を信じてくれたとしても、暫く週末は実家である神社へ通ってもらうことになるだろう。
あの人に何故自分達を繋ぐ糸を切るのだと聞かれたとき、思わず本音が漏れてしまった。
驚いたような顔をしていた。
あの人多分とても聡い。気が付いてしまったかも知れない。
だからといって、何も変わらないのだ。
わざわざ墓穴をこれ以上掘るつもりもないし、そもそもわざわざあちらも突っ込んでは来ないだろう。
断るために聞く等という、馬鹿な真似をする筈がない。
癖になってしまった溜息をついて、小西先輩の部屋へ向かう。
初めて行ったときと一緒で、専用のカードキーを預かっている。
放課後そのまま向かうことにした。
エレベーターにカードを通して、役員専用階にのボタンを押す。
オカルト紛いの説明をしなくてはならない。
あの人は怖くはないのだろうか。
頭の可笑しい人間を紹介した。
そう思われても、おかしくないのだ。
俺が考えても仕方がない事だ。
そっと、あの人の部屋のインターフォンを押した。
◆
リビングスペースのソファーに座っている転校生は、華奢な体に小さな頭が乗っていて、顔のパーツも綺麗に整って、近くで見るとそれはそれは可愛らしかった。
糸に関係なく、この人がモテるのが分かる気がした。
「初めまして。」
頭を下げると、転校生はニコリと笑顔を浮かべた。
「初めまして、俺、五十嵐 佐紀って言います。」
立ち上がって、頭を下げられる。
あの人は一体俺の事何て説明したのだろう。
俺の後ろに居た、小西先輩を振り返る。
ふんわりと笑顔を浮かべられただけだった。
促されるままにソファーに座った。
「で、どこまで話したんですか?」
小西先輩は、俺の前では見せたことの無い、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「佐紀の言うオーラの見え方を聞いて、君が縁切神社の息子だって話をしたよ。」
「オーラ、ですか。」
彼は何かが見えているらしい。あくまでも彼が言うにはだ。
「あ、あの。」
五十嵐君は俯いて、自分のズボンの太もものあたりをギュッと握りしめて、それから振り絞るように言った。
「俺の近くに濁っている澱みみたいなのが、ジワジワと増えていくんです。
それが、増える毎に、俺の事を変な目で見る人が増えて、気持ち悪い物になっていくんです。」
「ただ単に、五十嵐君が可愛いからじゃないの?」
溜息をついた。
五十嵐君はふるふると首を横に振った。
「確かに、俺の事を好きだと言ってくれる人は男女共に多いです。
でも、それがどうこうって訳じゃないんです。
なんていうか、狂ったように盲目的に俺であって俺じゃない人を盲信して他を疎かにするんです。
で、決まってそういう時は澱みが見える。」
今度は俯かず、俺の目をしっかりと見て、五十嵐君は言った。
俺は元々こういうのは得意ではない。
そっと自分の利き腕である右手に力を溜める。
「先輩、目線を動かさないか目をつぶっててください。」
「何突然。」
「いいから。」
「分かった。」
小西先輩はそっと目をつぶった。
俺は右手に集中して、そっと目の前の空間を撫でた。
五十嵐君の指から伸びた糸のぐちゃぐちゃになった塊がほんの少しだけほぐれながら彼の横から、後ろへと動いた。
五十嵐君は目を見開いた。
「澱みは、どこにある?」
「俺を試したいんですか?
……後ろですよね。」
「先輩、目を開けてもいいですよ。」
小西先輩の方を向いて言う。
小西先輩はそっと目を開くと、糸の塊に視線をずらした。
「今、澱みが動きましたよね。」
興奮したように、五十嵐君は言った。
確かに彼はあれが見えているようだった。
ただし、見え方は俺や小西先輩とは違うようだが。
「少しだけ、押し出しました。
これでお互いに嘘を言っていない証明になりますか?」
俺が静かに聞くと、五十嵐君は頷いた。
「俺には、縁の様なものが見えます。
五十嵐君の縁は酷くいろんな人の縁と絡んでぐちゃぐちゃになっています。」
五十嵐君は納得したように、ちらりと背後に視線を移し、それから頷いた。
「俺でも、絡まってしまった縁をほぐす事はできます。
でも、五十嵐君の言う澱んでしまって悪縁を呼び込む状態を取ることはできません。
ただ、俺の実家であればある程度浄化することはできると思います。」
息をつめた様に聞き入る五十嵐君に対して、できうる限りの優しい笑みを浮かべた。
「平日、俺が絡んで縺れた縁を修復しますので、休日は俺の実家に通ってほしいのですが大丈夫ですか?」
「それで、今の状況が何とかなるなら是非お願いしたい。」
俺の事を真っ直ぐに見つめて五十嵐君は言った。
それから頭をさげた。
小西先輩は、きっと五十嵐君のこういうところを好きになったのだろうと思った。
こみ上げるものがあったような気がしたけれど、無視をした。
「痛くないのか、とか普通聞きませんか?」
口をついて出たのはそんな言葉だった。
「痛いんですか?」
きょとりとした目で見つめられながら言われた。
「いや、少し倦怠感があるのと、週末行っていただく実家は禊になりますので行水をしていただくとは思いますが。」
「そうですか。頑張ります!!」
ニコリと笑顔を浮かべてそう答えられて毒気を抜かれてしまう。
痛いかもしれないという不安を植えつけたのに、五十嵐君は何も言わなかった。
自己嫌悪に陥りそうになって、振り払うように立ち上がった。
「少しだけ、はじめちゃいますね。」
恐らく、五十嵐君と二人きりになる事を小西先輩は許さないだろう。
案の定ちらりとみた小西先輩は頷いた。
ぐちゃぐちゃに絡み合って、もはや巨大な毛糸玉の様になってしまった糸に触れる。
べとべとしていて気持ち悪い。
「先輩、お水いただけますか?」
「飲むのか?」
「いえ、手をぬらしたいんです。」
先輩にお願いしながら、指先に力を込める。
一本一本引きはがすように外していく。
糸というものは本来、こうやって干渉しあったりはしない。
だから、引きはがせさえすれば、元の二人を繋ぐ最短距離に向かってスルスルと離れていくのだ。
小西先輩が風呂で使うものだろう、たらいに水を入れたものを俺の横に置いた。
それで、時たま手をぬらしてべとべとを洗い流しながら、一本一本取っていった。
「リラックスしていていただいていいですから。ここから動かないなら、本を読んだり、TVを見たり何をしていてもかまいません。」
俺が五十嵐君に言うと、小西先輩が
「DVDでも見る?それとも雑誌でも持ってこようか。」
と聞いた。
五十嵐君は俺を気にした様に、見た。
大丈夫ですよと笑うと、おずおずとじゃあ、雑誌をと小西先輩に返していた。
◆
1時間ほどたっただろうか。
五十嵐君が長い溜息の様なものをついた。
糸の塊はおおよそ半分ほどになっていたが、今日はここまでだろう。
「今日はここまでにしましょう。」
俺が声をかけると、五十嵐君が糸の塊に視線を寄越して、目を見開いた。
「すごい!!さっきよりすごく減ってる!!」
ニコニコとお礼を言われる。
ただ、五十嵐君の表情はとても疲弊していた。
本来、くっついていてはいけないものとはいえ、自分とつながっているものを引きはがされるのだ。
体が慣れず疲れてしまうのだ。
「しばらくは倦怠感が続くと思いますので、良く休んでください。
次は明日ですけど……。」
「俺の部屋でいいよ。一人部屋だし。」
小西先輩が提案をした。
「あ、あの。」
五十嵐君が俺と小西先輩に交互に視線を移した。
「先輩がいいなら、俺もそれでいいです。」
俺が言うと、五十嵐君はぺこりと頭を下げた。
「夕食、出前取ろうか?」
五十嵐君に向かって小西先輩が言った。
さて、俺はもう必要ないだろう。
カバンを持って立ち上がると「それじゃあ、また明日。」と二人に声をかけて玄関へと向かった。
後から、小西先輩が見送りについてきたのには正直驚いた。
「カードキー借りておきますね。」
靴を履きながら言う。
ドアを開けるところで「ありがとうね。」と言われた。
彼が喜んでいたことが嬉しかったのか。
どういう表情をしたらいいのか分からず、困ってしまった。
「それでは。」早口でそれだけ言って立ち去ろうとしたところで、よろめいてしまった。
不味いと思った時には小西先輩に支えられていた。
距離がとても近くて、一刻も早く離れたかった。
「ちょっと、亘理お前熱くないか?」
訝し気に言われ、固まった。
「もしかして、具合が悪いのに今日来たのか?」
「いえ。」
俺が口ごもっていると
「もしかして、今日のアレが原因か?」
と聞かれた。
俺が、答えられないでいると、長い長い溜息が至近距離から聞こえた。
突き飛ばす様に押しのける。
「大丈夫です。ちょっと慣れないだけで、直ぐに収まります。
先輩も五十嵐君と居たいでしょ?俺以外が何とかしようってなると、しばらく実家に泊まり込みになってしまいますよ。」
暗にそれは嫌でしょう?と問うと勿論同意してくれると思っていた小西先輩の顔は、苦し気に歪んでいた。
「兎に角、一晩休めば大丈夫ですから、また明日。」
言い逃げる様にして、俺はあの人の部屋から飛び出した。
荒い息のまま自室に飛び込んだ。
そのままずるずると座り込んで、手のひらで顔を覆うようにする。
手のひらからは少量の水では洗い流せなかった澱みが嫌な匂いを発していた。
物理的には存在しないものが匂うなんて、あり得ないだろうが確かに自分の手からは腐臭がしている。
流さないとこのまま染み込む。それは知識としては分かっている。
だが、動きたくなかった。
あんな風に、優しく笑いかけるところなんか見たくなかった。
いっそ泣いてしまえたら楽なのかもしれない。
だが、涙は出る気配はない。
五十嵐という転校生が、嫌な奴だったら良かったのに。あんな、誰からも好かれそうな人間で、あの人も優しく笑いかけていて、それに比べて自分はどうだ。
愛想の欠片もなく、顔も平凡なもの。ひねくれているという自覚もある。
長い長い溜息をついて顔を覆った手を放すと、真っ白な糸が目に入った。
こんなもの、無ければ、せめて見えなければ俺はもう少し可愛げがあったのだろうか。
意味の無い問答だ。
ふらふらと立ち上がって、バスルームへ向かった。
少し熱めのシャワーで全身を洗って出ると、同室者の山田が共有スペースでだらだらとテレビを見ていた。
俺の方を見て目を見開く山田は勢いよく起き上がると、俺の前に駆け寄ってきた。
「ちょっ!?具合悪いのか?風呂なんて入って大丈夫か?」
「あー、まあ。」
適当に答えると、山田はキッチンにある冷蔵庫からゼリータイプのエネルギー飲料を取り出して渡した。
「夕飯も食ってないんだろ?それ飲んで良く休め。悪化するようなら保健医呼んでやるから。遠慮するなよ。」
「……ありがとう。」
冷たいそれは、熱のある体に正直ありがたかった。
お礼を言うと、ニカリと笑顔を浮かべ「どういたしまして。」と答えた山田にそっと笑い返すと自室のベッドに横になった。
もう、何も考えたくなかった。
先程の作業が疲れたのだろう。
直ぐに瞼が重くなって、深い深い眠りに落ちた。
その日、見た夢は切ないけどとても幸せなものだった。
あり得ない未来を描いた様な夢に、それでも俺は期待しているのかと起きてから自己嫌悪で死にたくなった。
痛む胸は気づかない振りをする以外の方法を俺は知らない。