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前世の知人に、43歳年長の女性はいなかった。という事実を受け入れられずに迎えた、4月1日。戦闘順位を入れ替える試験が、午前8時に始まった。
と言っても、この訓練場にいるのは俺とゴブリン1体だけ。今回初めて知ったのだが、順位試験は1人で受けるものだったのだ。1人だから、戦うゴブリンの強さや数や試験の開始時間を、各々が自由に設定できる。それどころか試験に臨む回数も自由で、午前8時から午後5時50分の間なら何回でも挑戦して良かった。また最後の戦闘を試験結果として提出するなんて規則も無く、AI教育係と話し合ったうえで最良の一つを提出可能といった感じの、極めて自由な試験だったのである。加えて俺は、戦闘順位にまったく興味がなかったため緊張はゼロ。その証拠に俺が試験に選んだのは、今日初めて戦う2.8倍ゴブリンだった。2.7倍ゴブリンなら4時間ぶっ通しの連勝が可能でかなりの高得点を期待できるのに、それよりも「毎月1日に0.1倍刻みでゴブリンを強くしていく」という約束事を、俺は優先したんだね。美雪は眉間に皺を寄せていたけど、最後は俺の好きにさせてくれた。美雪、サンキュー。
とまあこんな具合に、今日が初見となる2.8倍ゴブリンとの戦闘を開始した。結果は予想どおり、俺の白星。事前の取り決めに従い美雪は2体目を立て続けに投影し、休憩なしの連戦が始まる。これを負けるまで繰り返し、連勝は7で終わった。胸に満足感がせり上がってくる。0.1倍強くしたゴブリンとの初戦の連勝記録を、今回も伸ばせたからだ。去年の6月1日に行った2.3倍ゴブリンとの初戦はたった2連勝しただけだったが、その後は一回だけとはいえ連勝回数を着実に増やしていき、今日は7連勝できた。これなら2か月毎ではなく8週間毎へ、期間を短縮できるかもしれない。けどそれは、昼食時に話し合えばいいこと。俺は3分間たっぷり休憩して、連戦の二度目を開始した。
午前中は結局、7連勝を超えることは無かった。それでも戦えば戦うほど余裕を感じるようになったのも事実で、今日中に8連勝を達成するのは確実と思われた。美雪も同意し、「8連勝したらそれを試験として提出しましょう」と言った。それを聞いてようやく、今日が試験日だったことを思い出した俺に、美雪はくすくす笑う。その笑顔の眩しさに、息が一瞬止まった。美雪は最近、駆け足で綺麗になっている。AIでも容姿が変わるのか、それともただの錯覚なのかは判らないが、少なくとも俺の瞳には、日々綺麗になっていく美雪が映っていたのだ。いや日々というのは流石に誇張だけど、去年の4月2日を境に美雪は・・・・
「ん? どうかした翔」
「ううん、なんでもないよ」
息を止めたのは一瞬だったので気づかれなかったけど、そのあと見つめてしまったのは誤魔化せなかった。更なる気づきを美雪に与えぬよう、俺はヒレカツサンドを口に目いっぱい詰め込んだのだった。
午後の訓練が始まる、5分前。準備運動冒頭のストレッチを始めた俺に、美雪が近づいてきた。珍しいこともあるものだ、との想いを顔にそのまま出して振り向いた俺の視界に、憂いをほんのり帯びた美雪が飛び込んでくる。あのそれ心臓にめっちゃ悪いんですけど、という本音を呑みこみ、穏やかな問いかけの表情を作った。それに安心したのか、ほんのり帯びていた憂いを捨て、美雪は本心をさらす表情になった。
「午後の4時間を2.7倍ゴブリンとの戦闘に丸々費やしたら、翔の筆頭残留は確実。対して2.8倍ゴブリンとの8連勝では、筆頭を落ちる可能性をどうしても消せない。翔、どうする?」
「俺が目指すのはただ一つ。それは戦争から生きて帰って来て、姉ちゃんと再会すること。この決意が揺らぐことは、決してないんだ」
美雪は「ダメな姉でごめんなさい」と悲痛な表情で俯いた。しかし俺が駆け寄るより早く笑顔になり、自分のせいで俺に余計な時間を使わせぬことを美雪は選んだ。俺は笑顔で首肯し、訓練場へ再び視線を向け、準備運動しつつ頭の中でシミュレーションする。どうすれば8連勝ではなく9連勝できるかな、と。
・・・・そう言えば忘れていたけど、美雪との会話中も「俺」を使うようになった。これも、この一年で変わったことだね。
などと余計なことに気を逸らせたのが、かえって良かったのかもしれない。
「この手があったか」
シミュレーションでは思い付かなかった防風壁を実践に初投入する案が、ふと脳裏をよぎったのである。改めてシミュレーションしたところ、3時間半あれば実践レベルにどうにか引き上げられる気がした。ならば、それをするのみ。俺は準備運動を10秒短縮し、その10秒を使って防風壁を形成した。
防風壁の理想形は、前世で大好きだった新幹線の先頭車両。入場券を買い、ノーズと呼ばれる流線型の先端をわざわざ見に行くほど、前世の俺は新幹線が好きだった。東京駅なら帰って来たばかりの新幹線の先端を手で触ることができ、驚くべきことにそこは真冬でも温かかった。凄まじいスピードによって空気が圧縮され、圧縮熱が生じていたんだね。と自分では勝手に考えていたけど、実際はどうだったのかな? よし今度、美雪に訊いてみよう! などと思っていたら左右の米神と眉間に輝力がみるみる集まってゆき、そしてそれがある量を超えた途端、心の中にあった新幹線の先端が、
シュワン
前方に突如形成された。何これ、いったいどうしちゃったのと首を捻るより、今は感謝が先。理屈や仕組みは解らずとも心の中でとにかく手を合わせ、輝力を材料にした透明な防風壁へ深い感謝を捧げた。が、
「ははは、最初から使いこなせる訳ないっすよね・・・」
ゴブリン目掛けて突進した途端、防風壁はものの見事に霧散してしまったのである。けどそんなの、最初なのだから当たり前。それにこれを使いこなさない限り今日中の9連勝は絶対不可能と松果体が訴えているとくれば、やるっきゃないのだ。2.8倍ゴブリンと戦っている間も、防風壁の形成を俺は試み続けた。
それもあり、午後の初戦はたった2連勝で終わった。だが、そんなのどうでもいい。それにこの体は、数回戦った程度で疲労したりしない。心さえ折れなければ、午後5時50分まで何度でも挑戦可能なのだ。深呼吸を一回だけして、俺は二度目に臨んだ。
幸い、突進するなり防風壁が霧散するのは三度で終わった。しかしフェイントをかけるや霧散し、それを改善できたのは通算十五度目だった。ゴブリンとの交差時に白薙を振っても霧散しなかったのは通算三十度目で、それによって9連勝に指先がようやく触れたのが、午後5時半。直感したとおり、3時間半で実戦レベルにどうにかこうにか引き上げられたのである。現時点における挑戦可能時間は、残り20分。9連勝に挑めるのは、一度きりと考えねばならぬだろう。美雪に時間をもらい白薙を背に納め、目を閉じ精神集中する。無色透明の防風壁を前方に展開した俺が、ゴブリンを次々倒していく映像を松果体の位置にありありと思い描いていく。自分でも驚くほど巧くいき、心像と現実の境界があいまいになってきたまさにその時、
「え? そうなんだ!」
俺は手をポンと打った。この防風壁では思い描いた動きにならないことを、心の中に創造した世界自身が教えてくれたのだ。しかもありがたいことに原因はちょっとした見落としにあり、その見落としに気づきさえすれば良いとも、教えてもらえたんだね。そこまで協力されたら、成し遂げねば男が廃る。俺は俄然やる気になり、間違い探しゲームを解くかの如くそれに挑んだ。左側に輝力の防風壁を思い描き、右側に新幹線を思い描いて、両者の違いを観察していく。色・・・じゃない。大きさ・・・は少し引っかかる。試しに防風壁を拡大して・・・拡大じゃない。縮小も違う。延長も違うけど、正解に近づいた手ごたえを感じる。防風壁の長さに正解があると、はっきり感じるのだ。長さといえば、新幹線って長いよな。16両連結だと400メートルにもなって、長大な全長に憧れたよなあ・・・・
てな具合に、俺は試験そっちのけで間違い探しゲームに没頭し、挙句の果てにそれすらそっちのけ、全長400メートルに及ぶ新幹線の威容を子供の眼差しで見つめていた。視界の右から新幹線が時速300キロで突っ走って来て、目の前を通り過ぎていく。視界の左へ消えてゆく新幹線の後尾車両を「わ~~い」と拍手しながら見つめていた俺は、
「あれ?」
首を捻った。そういえば俺の新幹線って、先頭車両だけで後尾車両が無いよな。乗客は俺一人だから客車は無くていいにせよ、後尾に車両がないのはおかしい。いやむしろ、先頭車両と後尾車両の二両だけの新幹線って、面白くないか? うん、メチャクチャ面白いぞ! よし早速、俺の前方だけでなく後方にも流線型を造って・・・・
ピカッッ!!
頭の中を稲妻が駆けた。そして駆け抜けぎわ、「それが正解だよ」と稲妻が教えてくれた。俺は手を合わせ、謝意を述べる。次いで目を開け、新たに形成した防風壁を確認した。無色透明の美しい流線型が、俺の前後に具現化している。大きく頷き、美雪へ顔を向ける。満面の笑みで手を叩く美雪は唇だけ動かし、「母さんが流線型を見せてくれたよ」と言った。俺の防風壁はヘナチョコ過ぎて、美雪にはまだ目視できないんだね。初期の防風率5%を1年で10%に増やせたけど、こりゃまだ先は長いな。けどまあ、
ビュンッ
白薙を抜き中段に構えた。20メートル前方にゴブリンが出現した。俺は前後の流線型にヨロシクと声を掛け、輝力圧縮8倍で全力疾走する。そのとたん瞠目した。空気の壁をすり抜けるように、走ることが出来たのである。この速度なら9連勝できる! そう確信し、俺はゴブリンへまっしぐらに駆けて行った。




