六章 4月2日以降、1
翌朝、いつもどおり午前5時に目が覚めた。足首と膝と腰を、布団の中でモゾモゾ動かしてみる。よし、昨日の疲労は欠片も残っていないみたいだ。続いて瞑目し、呼吸を整え心を澄み渡らせて、7時間半睡眠の是非を体に問うてみる。昨日の運動量なら7時間半で問題ないが、一昨日までの運動量だとやはり8時間欲しい、と体が答えてくれた気が微かにした。こりゃ工夫が必要だと嘆息し、俺は起き上がった。
俺のベッドの場所は、部屋の出入り口に最も近い二段ベッドの下。昨日の入浴時の息止め競争で一位になり、ベッド等の場所を最初に選ぶ権利を得た俺は、意気揚々と部屋に戻って来た。しかし希望を述べる直前、
「ごめんね~、筆頭のベッドは出入り口に最も近い二段ベッドの下なのが、千年以上続く伝統なのよ。オホホホ~~」
と、いきなり管理AIがほざきやがったのだ。冒頭でゴメンと謝罪しつつも、最後に嫌味たっぷりオホホホ~と笑って去っていった管理AIに、俺以外の9人は腹を抱えて笑っていた。よって反論できず、また俺も皆と一緒に結局笑ってしまったため、四の五の言わず伝統を踏襲することにしたのである。だからそれはまあ良いのだけど、
「物音を立てずに着替えるのって意外と骨だな」
パジャマを脱ぎつつ、俺は小声でこっそり呟いた。一人暮らしだった昨日までは音など気にせず、素早さ最優先で訓練の準備ができた。しかし10人部屋での共同生活では、そうもいかない。これも工夫しなきゃと、本日二度目の溜息が口からもれた。
運動用のジャージを身に着け、足音を立てず出窓へ向かう。専用クッションでスヤスヤ眠る虎鉄を起こさぬよう注意し、出窓の天板に手を置いてみる。予想どおり、ほんのりした温かさが掌に伝わってきた。続いて手を窓にかざしたところ、こちらもほのかな温かさを感じた。理屈は分からないが、窓側全体が暖房器具になっているらしい。これなら虎鉄が寒さに震えることは無いだろう、いや秋になったら防寒対策の有無を調べてみないとな、などと考えつつ、俺は部屋を後にした。
玄関で普通の運動靴に履き替え、外に出る。瑞々しい早朝の空気を、胸いっぱいに吸う。何かに呼ばれた気がして、東へ目をやる。太陽が今にも顔を出しそうな金色の空が、木々の上に広がっている。不意にある光景が脳裏をかすめ、それはとても素敵に思えたので、軽い準備運動をしながら玄関を背に歩を進めて行った。玄関を出た正面10メートルほどに幅広の階段があり、その中央を一歩一歩上ってゆく。階段を上り切り壁の上に立ち、東の空へ再び目を向けてみる。残り時間は、5分くらいだろうか。幅3メートルの壁の上でも可能な準備運動を頭の中で検索したところ、意外と沢山見つけられた。それらを黙々と4分半続けたのち体を動かすのを止め、玄関前では木々に遮られて見えなかった東の地平線へ目をやる。そして呼吸一回分の時間が過ぎたころ、
キラリ
小さな小さな光の粒が地平線に現れた。新しい孤児院で新しく始まる六年間の最初の朝日へ、俺は手を合わせた。
御来光には、特別な力があるのかもしれない。訓練場へ降りるなり始めた軽業に、いつも以上の手ごたえを感じられたのだ。体も温まったので、難度を少しずつ上げていく。3連続バク転からの後方伸身2回宙返り2回ひねり、いわゆるムーンサルトを楽々こなせるようになった。さあ次は、ムーンサルトにひねりを1回加えて3回ひねりにするぞ! と意気込んで挑んだこれを楽々こなせるようになるのが、最近の目標。だったのだけど、
「あれ? なんか今朝は難しさを一切感じないような?」
俺はそう独りごちた。ためしに伸身2回宙返り3回ひねりを、3連続バク転を挟んで可能な限り続けてみる。5回を終えたところで訓練場の幅を使い切ってしまい、やむなく中断した。呼吸を継続していたので乳酸は貯まっておらず、その証拠に筋肉も柔らかさを保っている。アキレス腱や膝靭帯を酷使した形跡もなく、汗も薄っすら掻いている程度だった。う~むこれは、目標達成と考えていいんじゃないかな。そう首を捻ったところピンと来て、3メートル離れた場所にいるはずの美雪に顔を向け、尋ねてみた。
「姉ちゃんお早う。僕の軽業スキルって、等級が意外と高かったりする?」
美雪は頬をほころばせつつ不満げに唇を尖らせるという、器用な表情で3メートル離れた場所に現れた。尖らせた唇の理由を痛いほど知りつつも、美雪に会えただけで嬉しさ100%になってしまうのが俺。本来なら姉離れをそろそろ視野に入れねばならぬのだろうが、俺の教育係を外れる20歳までまだ13年あるのだから、焦らなくていいんじゃないかな。などと都合よく考えて美雪の元へすっ飛んで行った俺に、
「翔、お早う」
不満げな演技を諦め、美雪は満面の笑みで挨拶してくれた。そして自然と手を繋ぎ、俺と美雪は屋外テーブルの方角へ歩いて行った。
屋外テーブルの上に、畳まれたベンチコートが置かれている。美雪のことだから、体が冷えるのを案じているのだろう。微かに掻いた汗が体を冷やし始めているのも事実なため、俺はベンチコートに素早く身を包んだ。しかしそれでも美雪は満足しなかったのか、「体育館の生活スペースで話しましょう」と言って突如消えてしまった。やっぱりまだ怒っているのかな、との想いを置き去りにする勢いで俺は全力ダッシュし、訓練場に設けられた俺専用体育館の生活スペースに続く玄関を開けた。脱ぎ散らかすように靴を脱ぎ、テーブルに座ったところで、家事ロボットに自身の3D映像を重ねた美雪がホットミルクを目の前に置いた。マグカップを両手で包み、温かなミルクを口に含む。心身が和らぎ安堵の息をつくと同時に、美雪が正面に座った。ホットミルクの湯気越しに見ているからか、温かな血の通った少女が目の前に座っている気がして、瞠目するとともに瞬きを繰り返した。それがお気に召したのか「どちらか一つになさい」と美雪は微笑み、軽業スキルと等級について話してくれた。
それによると、初歩中の初歩である軽業スキル基礎初級が俺に生えたのは、なんと3歳の4月4日だったらしい。「えっとその日は、早朝の軽業訓練を自主的に始めた二日目の気がするのですが」とオドオド尋ねたところ、「開始10分ほどで習得していたわ」と美雪は悪びれなく答えた。その悪びれの無さが逆に怖くなり、教えてくれなかった理由を訊けなかった俺へ、
「だって7歳の4月1日までスキルを教えたらダメだったんだもん」
美雪はそう言って、頬をぷっくり膨らませた。狙っていようがいなかろうが可愛いものは可愛く、俺はデレデレ顔になってしまう。そんな俺にやっと溜飲が下がったのだろう、それ以降は普段と変わらぬ美雪で会話を進めてくれた。
「3歳のスキル審査で等級を教えない理由を、翔は覚えてる?」
「等級が高いと慢心し、等級が低いとやる気を失うのが3歳だから、だったような」
「正解。そしてそれとほぼ同じ理由で、三大有用スキル以外は3歳児に教えないのが原則なの。教えたせいで、戦士の実力が素質を下回った事例が多発してね。天賦の才のスキルばかりに熱中し、三大有用スキルの訓練をおざなりにした子が、多数いたのよ」
情景がありありと浮かぶのは事実でも、天賦の才を秘するのは人道的に問題あるのではないか? との疑問は、杞憂だった。教えずとも、子供は天賦の才の訓練を自主的に始めるそうなのである。自主的に始めたそれを邪魔せず温かく見守ってさえいれば、7歳までは素質に沿う成長を果たすとの事だった。
「なるほど、謎がだいたい解けたよ。




