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明けて翌朝。
目覚めた俺の心身に、疲労は一切残っていなかった。白状すると翼さんとの昨夜の会合は、俺の精神をゴリゴリ削った。しかし目覚めてみたら、心は微塵も疲労してなかったのである。普段なら神話級の健康スキルに感謝するところだけど、今それをしたら自分に嘘をついてしまう。神話級の健康スキルをもってしても、説明不可能な現象というのが本音だったんだよね。すると昨夜の「ひょっとして俺はこの状況を喜んでいたりする?」の正誤が明瞭になり、たとえ認めたくない気持ちが多分にあろうと、ここは腹をくくらなければならない。俺は溜息をつき、心の中で呟いた。
「翼さんも葉月さんも傍らにいないし、素直に認めることにしよう」
そう腹をくくり、かつ体調が万全ならこうしちゃいられない。数少ない完全フリーの今日を満喫すべく、俺はテントを後にした。
その日の午前は、川釣りをして過ごした。釣針を水中に垂らしこそすれ、釣果を期待する工夫や考察は一切せず、ボ~っと釣りをした。俺の意図を汲んだのか魚は一匹も獲れず、空っぽの魚籠を手に俺は感謝して川を後にした。
5時間近くボ~っとしたお陰か昼食中はやたら頭が回り、美雪との会話が弾んだ。宇宙一好きな女性との活発なお喋りが、精神をグイグイ若返らせてゆく。夏季休暇中ゆえ勇も昇もおらず、二人きりで過ごす昼食を美雪も心底楽しみ、瞳がキラキラ輝き頬が薄紅色に染まっていた。その健康そうな頬に、心の赴くまま頬ずりしてみる。サラサラの極致たる玉肌をしっかり感じられたのは、どの行いへのご褒美だったのだろうか? 思い浮かぶ行いがありすぎる今生に、俺は胸の中で手を合わせた。
精神が若返る時間の最後に美雪の肌を感じたことは、俺の心身をとことん満たしたらしい。というのも、そうなって初めて自覚したのである。思っていた以上に、自分が疲れていたことを。
そう自覚したら、普通は午後もゆっくり過ごす計画を立てるのかもしれない。それはまこと正しく否定する気持ちは微塵もないが、おそらく神話級の健康スキルが発動し、「疲れを完全除去できたのだから充実した午後を過ごしたい!」という気持ちが一気に膨れ上がってしまった。我ながら笑ってしまうけど、それが俺なのだから諦めるしかない。という気持ちを美雪にそのまま伝えたところ「翔らしい」とクスクス笑い、全面賛同してくれた。嬉しくて堪らず、俺は美雪を抱き上げクルクル回る。充実した午後の最初を飾るのは美雪クルクルだと、確信していたからさ。
確信していようと、外れるときは外れるのがこの宇宙。その最大の理由は、この宇宙に存在しているのは俺一人ではないから。俺にとってそうだからと言って、別の人にもそうだとは限らないってことだね。幸い今回の確信は当たり、美雪はことのほか上機嫌になった。上機嫌の美雪を地面に降ろしたところ、自然とダンスが始まる。それから暫し、息のぴったり合ったダンスに没頭した。俺のレパートリィをすべて踊り終えハグするころには、美雪の上機嫌は歴代屈指のレベルになっていた。いやはやなんとも、素晴らしい午後だ。調子に乗った俺は美雪をお姫様抱っこし、屋外テーブルに向かった。今後の予定は何も決めてないけど、二人でテーブルに向かえば次の計画が自ずと湧いてくる。そんな確信が、俺にはあったんだね。
本日二度目の確信も、見事に当たった。ただ湧いてきたのは、まったく予想していなかったことだった。美雪に負けないくらい大切な女性が俯き、寂しそうに体育座りをしている姿が、脳にクッキリ浮かび上がったのである。その女性は、冴子ちゃん。そして俯き寂しそうにしている様子が心の目に映るや、そうなってしまった理由を俺は0秒で悟った。そりゃそうだ、原因は俺にあったのだから。
この基地に配属された当初は母さんと冴子ちゃんを招待し、キャンプ場のテーブルでお茶会を頻繁に開いていた。母さんと美雪と冴子ちゃんがケーキを頬張りお茶を飲みつつお喋りを楽しんでいる様子を眺めているだけで、俺の心身は元気はつらつになったものだ。それは冴子ちゃんも変わらず、招待されたお礼をはつらつと述べお茶会に参加し、会が終わったら両手をブンブン振って、元の場所へ帰って行ったのである。改めて振り返ると、冴子ちゃんの弾ける笑顔を当たり前に見ていたのは、あの頃だけだった。基地でお茶会を開けなくなっても用事があれば会い、冗談を言い合ったりして笑顔を見ることは出来たけど、光が内側から差すような笑顔を当たり前のこととしていつも浮かべていたのは、お茶会を頻繁に開いていた時期だけだったのだ。それを今やっと気づくなんて、薄情にも程がある。俺は無限の自己嫌悪へ落ちてった。
でもそれは、己の欲求を満たすためにしていること。俺が無限の自己嫌悪へ落ちようと、冴子ちゃんは寂しそうに俯いているままだからね。ならば、こんな事をしている場合ではない。俺は脳裏に映った冴子ちゃんの姿を美雪に説明し、冴子ちゃんに笑顔が戻ることが今最も望むことだと伝えた。美雪は背筋を伸ばし誠心誠意お礼を述べ、次いで自分も今それを最も望んでいると断言した。俺達は頷き合い、今後の計画を話し合っていく。その途中で美雪があるアイデアを閃き、素晴らしいと感じたので賛同したところ美雪は通信モードになり、友人のAⅠ達に協力を求めた。皆さん心よく了承してくれて、仮に冴子ちゃんが自分に割り振られた仕事を一時的にできなくなっても全員で受け持ち、仕事に支障が出ない体制を美雪は一瞬で造り上げたのである。美雪の友人達に、困ったことがあったら俺が助けるのでどんなことでも打ち明けてくださいと頼んだ。すると「その時はよろしく」「頼りにするね」と全員が声を揃えてくれた。さあこれで、後顧の憂いはなくなった。後は、美雪が閃いたアイデアを実現するだけだ。俺は瞑目し姿勢を正し、母さんにテレパシーを送った。
母さんは美雪のアイデアを実現する約束を直ちにしてくれた。安堵の息を全身で付いた俺に、母さんの感謝のテレパシーが届く。「ありがたいですが今は保留し、冴子ちゃんに笑顔が戻ったら噛みしめることにします」 そうテレパシーを返したところ、更なる感謝のテレパシーが送られてきた。母親とは、そういうものなのだろうな。




