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嚥下を丁度終えていたので席を立ち、虎鉄の傍らへ歩いていく。そして腰を下ろし、明日の朝8時20分にここを出発する旨を伝えた。2キロの道のりを虎鉄は自分で歩いてもいいし、俺の肩や頭に乗ってもいい。留意して欲しいのは、到着した場所で101名の人と十数匹の猫や犬に虎鉄が会うこと。温存する体力や必要な準備運動等は俺には分からないから、虎鉄が自分で決めてね。そう伝え終えるや、
「ニャ!」
虎鉄は承諾の声音で元気よく鳴いた。瞳がキラキラしているので、とても楽しみにしているようだ。高さ3メートルの壁の上を歩いて孤児院を目指す旅を、虎鉄は初めての冒険と捉えているのかもしれない。そういえば俺も、4年前に見たはずの道中の景色を全く覚えていないから、予想以上に楽しめるかもしれないな。なんてことを考えながら虎鉄の首元を掻いてあげていたら、ここに引きこもる前に過ごしていた孤児院の思い出が、ふと脳裏をよぎった。完全に忘れていたのに突然どうしたのかと訝しむ間もなく、孤児院の外観や室内の様子や仲間達の顔が瞼に次々映し出されていく。その最後に優しそうな女性の顔が浮かび、20代半ばに見えるその女性を「ママ先生」と呼んでいたことを思い出した俺は、虎鉄を驚かさない静かな動作に苦労しつつテーブルに戻った。そして、
「姉ちゃん、ママ先生はまだ孤児院にいる?」
美雪に尋ねてみる。20代半ばの容姿だったということは、120歳前後。それが4年前なのだから、平均寿命の125歳に達していてもおかしくない。せり上がってきた焦りと恐怖を無理やり呑みこみ、平静を辛うじて保つ俺に、美雪は微笑んだ。
「もちろんいるよ。ただ、明日で院長を退任されるの。翔が望むなら今日の講義は延期して、今すぐ孤児院に帰ってもいいって母さんが言っているけど、どうする?」
「院長の引退を、孤児院の皆は知っているんだよね」
「ええ、知っているわ」
「なら止めておくよ。皆にとって今日は、ママ先生と普段どおり過ごせる最後の日。それを、邪魔したくないんだ」
退任は、予想外だった。しかし講義を延期して今すぐ帰っていいと母さんが提案することは、虎鉄の傍らにいた時点ですでに予想していた。虎鉄を驚かさぬよう静かにゆっくり動いたのが幸いし、最後の日となる今日を邪魔してはならないとテーブルに戻る前に気づけた俺は、無理せずそれを美雪に伝えることが出来た。そんな俺に、何か言いたげな表情を美雪は浮かべる。
でも最後は、微笑んで頷いてくれたのだった。
そして迎えた、午後5時。テーブルの向かい席に現れた母さんが、普段より母親の顔になっていることに、有り難いやらくすぐったいやらを覚えて少々困っていると、
「アンタって本当にヘタレね。シャキンとしなさい!」
いわゆる愛の鞭を、冴子ちゃんが容赦なく振るってくれた。「冴子ちゃん、友達は有り難いってつくづく思ったよ」「でしょ。ほら胸を張って、母さんに挨拶するよ」 といった感じの友達同士の会話というより、優秀な姉と残念弟の方がしっくりくる会話を経て、講義開始の挨拶をいつもと変わらずこなすことが出来た。冗談ではなく、義姉弟の盃を冴子ちゃんと今度本当に交わしてみようかな。優秀な姉と残念弟の二卵性双生児という設定にしたら、冴子ちゃんもノリノリで了承してくれそうだなあ・・・・
それはさて置き俺は元気よく挙手して、質問が二つある旨を母さんに伝えた。朗らかに首肯する母さんにプロペラ化した尻尾を喜んで放置し、問うた。
「質問の一つ目は、『守護霊や背後霊と呼ばれるものがいる仕組み』です。僕はさほど間を置かず転生した気がしていて、もしそうなら弟や妹たちの守護霊や背後霊になるのは不可能と思うのですが、僕が知らないだけで可能なのでしょうか? 質問の二つ目は、『母さんなら地球人をテレパシーでどう導くのか』です。とはいえこの二つ目は、ほぼ間違いなく返答範囲外と僕自身思っていますから、遠慮せず退けてくださいね」
そう俺はさんざん悩んだ末、現在の自分の精神年齢を訊かないことに決めた。正確には今朝目覚めたら、訊かない方が良いという結論が心の中にいつの間にかあったのだがそれは脇にどけて、俺は全身を耳にして母さんの言葉を待っていた。母さんは瞑目し、思案を続けていたのである。重苦しい十数秒の沈黙ののち、母さんは瞼を開けて俺を見つめた。
「質問の一つ目は、翔の受け答え次第では返答可能。二つ目は、本来なら返答不可能ね。でも孤児院の皆を自分より優先したことと、数週間前から抱いていた疑問を伏せたことを称え、二つ目も受け答え次第で返答可能にしましょう」
「ありがとうございます」
額をテーブルにこすりつけている内に、精神年齢云々が数週間前からバレバレだった衝撃を巧く躱して、俺は上体を起こした。それを合図に、受け答えが始まる。
「人は亡くなると心の成長度に応じて、七区分の死後の世界で過ごすの。各々の区分も七つに分けられているから、死後の世界は7×7で合計四十九になるわね。仏陀は内弟子にきちんとそう伝えたのだけど・・・・続きを予想できるかな?」
「仏陀やイエスは自分の教えを一文字も書き残さなかったと、僕は記憶しています。それが正しいなら、仏教の説く四十九日は、死後の世界の四十九が誤って後世に伝わったと僕は推測します」
「翔の推測は正しいわ。でも日本には、四十九日を肯定する出来事が僅かとはいえ起きている。それを意図的に起こしている者達と、ニケーア公会議の背後にいた者達は、同じ組織に属しているのよ。さて、漠然としていてちょっと難しい質問をするわ。死海文書に記されていた幾つもの事実が、ニケーア公会議では意図的に削除されてしまった。今こうして話している話題もその一つなのだけど、わかるかな?」
「死海文書には、イエスが輪廻転生を肯定していたって記されていましたよね。ニケーア公会議で意図的に削除された一つは、輪廻転生だったと推測します」
二連続正解、と言って母さんは俺の頭を撫でてくれた。その撫で方に強烈な既視感を覚えて記憶を探ったところ、ママ先生に撫でられる自分の姿が心にありありと浮かんできた。双眸のダムの決壊を防ぐべく、頬を膨らませて怒った演技をする俺を、きっと助けてくれたのだろう。母さんはまるで死海文書の如く、衝撃の事実を暴露した。
「前世の記憶を取り戻す前の翔は、100人の子供達の中でも屈指の甘えん坊でね。孤児院で104年間働いたあの子は、前世の記憶を思い出したとたん子供が自分に甘えなくなることに慣れていたから良かったものの、あの子じゃなかったら訓練場に籠りっぱなしの翔を、無理やり連れ戻していたかもしれないわ」
屈指の甘えん坊に関しては衝撃が強すぎるため後で考えるとして、母さんにかかれば124歳のママ先生も、あの子になるらしい。母さんの底抜けの母性がそう呼ばせているんだろうな、という胸を温める想いはダムの決壊を効果的に防いでくれたが、それは陽動作戦だった。陽動作戦に見事引っかかった俺を、母さんは美雪と連携して攻撃した。
「美雪。院長に提出した翔の4年間の報告書を、全て映して」
「了解です。週一回の定期報告と、特筆すべき出来事を報告する臨時報告を合計した、316の報告書を空中に全て投影します」
俺の眼前に、高さ15メートル幅12メートルの2D映像が一気に出現した。316の報告書の膨大さを実感しただけで決壊寸前になったのに、続いて美雪がこう語ったのだから堪ったものではない。
「翔、ママ先生はこれら全てを、一文字一文字慈しむように時間をかけて読んでいたわ。臨時報告書を提出した日は、夜に必ず呼び出されてね。翔の様子を私から直接聴き、それでも足らず翔の映像を毎回見て、そのつど涙を流していたの。明日お会いしたら、成長した姿をしっかりお見せしてね」
「翔、母さんからもお願いね」
集中講義最終日の1時間を1秒たりとも無駄にしてはならないと自分に幾ら言い聞かせても、とんでもない大決壊に見舞われたため、平静を取り戻すまで1分近くかかってしまった。詫びる俺に母さんは「合格」と誇らしげに告げ、一つ目の質問に答えてくれた。
死海文書に、イエスが輪廻転生を肯定していたと記されているのは、事実ですね。




