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「相手の胸中の詳細は、相手が明かしてくれるまで分からない」「明かしてくれたとしても、それが本心なのかは判らない」「たとえ本心を明かしてもらえたとしても、こちらが色眼鏡を掛けたままでは、本心を明かしてもらえたことが解らない」
翌日の、講義の冒頭。
「今日は心を成長させる二つ目と三つ目を話し終え、明日は質問の時間にする予定です。皆さん、ご協力をお願いします」
母さんが、皆へそう呼びかけた。俺と美雪と冴子ちゃんの三人は「「「はい!」」」と声を揃えたのを最後に口を閉ざし、背筋を伸ばした姿勢を維持する。ありがとうと母さんは微笑み、講義が始まった。
「二つ目の方法は、三つの文で構成されているの。翔が昨日言った、『未知を未知として扱った方が正解に辿り着きやすい』を日常に適用すると、どうしても文が三つ必要だったのね。各々の詳細を先に話すと脱線して予定を消化できないかもしれないから、詳細は後にして三つを発表してしまいましょう。『相手の胸中の詳細は、相手が明かしてくれるまで分からない』『明かしてくれたとしても、それが本心なのかは判らない』『たとえ本心を明かしてもらえたとしても、こちらが色眼鏡を掛けたままでは、本心を明かしてもらえたことが解らない』 この三つですね」
たとえば俺の昼食の献立を、美雪は知っている。だが、一つ一つの料理に俺が抱いた感想の詳細は、美雪には分からない。詳細を知っているのは宇宙にただ一人、俺だけなのだ。よって詳細を打ち明けるまで、美雪にとってそれは未知のままなのである。
またたとえ「詳細を正直に話すよ」と俺が約束したとしても、それが果たされたか否かを美雪は判断できない。母さんのような大聖者なら、人の放つ波長の変化から嘘を見破る等の方法が複数あるそうだが、それでも心の深奥に秘めた想いの詳細は手こずるという。何より人は、いついかなる時も正直に話してさえいれば良いなどという、単純な生き物ではない。料理を懸命に学んでいる子供のやる気を削がぬよう、マイナスの感想を控えめにしてプラスの感想を親が強調したとしても、間違いでは決してないからだ。この『人はそんな単純生物ではない』という要素が絡むため、相手が打ち明けてくれた想いの真偽および正誤の判断を、人は下せないのである。
そして更に、たとえ相手が正真正銘の想いを明かしてくれたとしても、「どうせお前は嘘しか言わないんだろ」のような決めつけをしたら、全てが台無しになる。しかもこの決めつけには「この人は優しいから、真実を話したせいで私が傷つくなら、真実を決して話さない」系の気持ちも含まれることが、事態をより難しくしている。「どうせお前は何々」と相手を不当に見下すことも、「この人は優しいから」と相手に敬意と愛情を抱くことも、どちらも等しく色眼鏡として働いてしまう。それが、人の難しさなのだ。
いや、それをも超える難しさを人は持つ。紫外線を遮断するサングラスが目を保護するように、色眼鏡は心を保護する防御壁としても働く。そう色眼鏡には、心の成長を阻む機能と、心を守る機能の、両方があるのだ。
という箇所まで母さんの説明を理解した俺は脳味噌がパンクし、
「じゃあ僕は、いったいどうすれば良いんですか!!」
と頭を抱えた。今日の予定の邪魔にならぬよう口を閉じ続けていたのに、それを台無しにしてしまったのである。その自責も加わった俺は頭を抱えるだけでは足らなくなりテーブルに激突しようとしたが、それをしたら無駄な時間を更に追加してしまう。よって頭を抱えたまま歯を食いしばり、前方へ倒れようとする上体を必死に阻止するという、はたから見たら滑稽な仕草をしていたら、
「「「アハハハハ~~~~」」」
女性陣の華やかな笑い声が耳朶をくすぐった。大切な女性達がさも楽しげに笑う様子を目にしただけで胸に幸せが広がり、パニックが消え去ってゆく。頭を抱えていた手を頭を掻く手に変え、アホ面を晒して笑っていた俺に、母さんが語り掛けた。
「ノリの良い生徒がいると、講師は助かるの。講師の話がひたすら続いたら、生徒達の集中力低下は免れない。だから笑いを適度に交えて酸素吸入を促し、低下した集中力を元に戻すことが講師には求められる。それを、ノリの良い生徒は助けてくれるのね」
美雪と冴子ちゃんが両側から「「翔よくやった!」」と俺の背中をビシバシ叩いた。正面と両側に陣取る女性達の、計三つのニコニコ顔が嬉しすぎて俺のアホ面が極まった瞬間、今日の講義の核心となる言葉を母さんは放った。
「安心しなさい翔。心を成長させる三つ目は、翔の疑問の解決法でもあるわ。『妨害面と保護面の良いとこ取りをすべく、色眼鏡を自在に着脱できるようにする。その日々に育てられた透明な心は、本体の意志を共鳴させる媒体となり、心の成長を促す最高の友になってくれる』 翔、忘れないでね」
決して忘れませんと誓ったのち、美雪を見上げて謝意を述べた。どういたしまして、と微笑んだまま首を傾げる美雪に、透明な心の見本を間近で見てきた幸運を話した。
「透明な心という言葉を聴いたとき、すぐさま姉ちゃんが瞼に浮かんでさ。姉ちゃんは、どこまでも透きとおる清らかな水のような心を持っているんだよ。また水は、どんな形にも寄り添う究極の滑らかさを有しているよね。それも、本体の意志を共鳴させる媒体という言葉にピッタリ合う気がした。こんなふうに、透明な心の最高の見本を姉ちゃんが間近で見せてくれていたから、心を成長させる三つ目の方法を僕はすんなり理解できたのだと思う。姉ちゃん、ありがとう」
美雪は俺を抱き寄せ、こちらこそありがとうと言った。正面から抱きしめられるのではなく、このように横から抱き寄せられたら、さほど恥ずかしくなく普通にしていられる。この方法ならこれからもずっと、美雪とこうしていられるんじゃないかな。という本音を顔に出さぬよう努めたのが実ったのか、それとも見逃してくれたのかは定かでないが、母さんと冴子ちゃんは俺をちゃかさなかった。美雪に抱きしめられることが難問かつ難事になりつつある俺は、二人の対応に心から感謝した。
その後、水の滑らかさを共鳴に譬えた俺の感性を、母さんが褒めてくれた。続けて「水の特性の素晴らしさを取り上げた、古代中国の思想家がいたような?」と首を傾げたので、
「たぶんそれは老子の、上善は水の如しです」
と、前世の記憶を呼び起こして説明した。春秋戦国時代の諸子百家の研究を趣味の一つにしていた事がこうして活きたのだから、何が役に立つか分からないものだな。
諸子百家について母さんと意見交換したのち、質問の時間になった。これ幸いと、俺はシュパッと挙手する。
「母さんが今教えてくれた心を成長させる三つ目の方法以外にも、たとえば日常生活に則した方法はありませんか?」
「ふむ、良い質問ね。体を清潔に保つこと。清掃と整理整頓を心がけ物を大切にすること。自然の汚染と破壊をなるべく抑えること。この三つを勧めるわ。もちろんこれらにも『準備を整えた弟子に、師は現れる』に通じる、あることが必須になるけど解るかな?」
「準備は自ら考え、自ら決断し、自ら行動することで始めて整う、でしょうか。日常生活に則した三つも自ら考え、自ら決断し、自ら行動した結果でなければ、透明な心を育む習慣にはならない。僕はそう思いました」
「正解。よしよし、翔はいい子ね」
美雪に抱きしめられることに解決策を見つけられたのと同様、母さんに撫でられることにも解決策を見つけられたら、これからもずっとこうしてもらえるのかな? という本音を顔に出さぬよう努めたのは美雪の時と同じだったが、その後は違った。なんと冴子ちゃんが、
「う~ん私も、翔にその表情をさせる何かを早く発見しないと」
「体を清潔に保つこと」「清掃と整理整頓を心がけ物を大切にすること」「自然の汚染と破壊をなるべく抑えること」




