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その一つは、
この命は俺だけの命ではない
ということ。よって俺は二分割した心の一方で奏を不幸にした元凶たる自分を考察し、自殺云々の自分を切り離すことに成功していた。切り離すことに辛うじて成功している自分を褒めることすら出来たのだから、努力をしてきた甲斐があったというものだ。その、自分を褒めることが出来た自分でもって俺は平静を保ち、奏の独白に耳を傾け続けた。もっとも、昇に恋をしたと明言した以降の奏は、この時も素直になれなかったあの時も素直になれなかった本当にごめんなさいと、昇に謝りどおしだったけどね。その奏へ、
「奏、謝りたいのは俺も同じだ。だから後でたっぷり時間を設けて、お互い謝り倒そう」
そう微笑んだ昇の、なんと頼もしかったことか。男の俺すら惚れ惚れした程だったのだから、惚れ歴二十年以上の女としては完全敗北するしかなかったのだろう。奏は「うん!」と天真爛漫に笑った。昇も負けじと天真爛漫に笑い返す。それは、二人を赤子の頃から知っている俺ですら初めて見る二人だった。しかしその二人が存在した世界線は意思のアカシックレコードに記録されており、おそらく本体が助けてくれたのだろう、俺はその世界線を知らぬ間に俯瞰していた。実現率ほぼ0%だったその世界線は、前世の記憶を思い出す前の奏が昇をマザコン弟と思っていなかった世界だった。その条件でのみ二人は素直になれないという要素を持たない二人として、物心つく前から亡くなるまでの全時間を完全無欠の夫婦として過ごすことが出来たのである。実現率ほぼ0%とはいえそんな世界もあったのだと、俺は瞠目せざるを得なかった。
その俺へ、やはり本体が語り掛けてきた。俺は勧められたとおり、昇をマザコン弟と思わなかった奏と現実の奏の違いを見つけるべく、アカシックレコードの奏の心と俺の心の波長を合わせた。呼吸が止まった。アカシックレコードの奏は、お兄ちゃんっ子ではなかったのである。
言うまでもなく、お兄ちゃん子は悪いことではない。だが事情によってはそうも言っていられなくなり、奏の場合は【ある事情】によって今生で習得すべき課題を二つ生じさせていた。課題の一つは、マザコンと非マザコンを区別可能になること。そしてもう一つは、自分のブラコンを棚に上げてマザコンを蔑視しないこと、だったのである。
初めての考察なので慎重を期し、一つ一つ整理してみよう。まずは、一つ目の課題から。
地球での定義はもう忘れたがこの星におけるマザコン男は、「妻や恋人より母親を優先する男」になる。これを基に前世を思い出す前の昇を考察すると、昇はマザコンではなくなる。なぜなら2歳半の昇に、妻や恋人はいないからね。そう昇は、非マザコンだったのだ。
仮に昇が前世を思い出しており、その上で母親を世界の中心にしていたら、マザコン疑惑をかけられても仕方なかったのかもしれない。だが思い出していようと心は体に引っ張られるものであり、そして年齢が2歳半となれば、厳しく見ても疑似マザコンがせいぜいだろう。しかし昇は前世を忘れていたのだから、疑似ですらなくなる。実際昇は周囲の大人達から、「母親が大好きな2歳児」として微笑ましく思われていた。俺も将来を案じこそすれ、2歳なのだから仕方ないと考えていたしね。だが奏は昇をマザコン認定し、かつ当時の自分は正しかったと今でも考えている。そうつまりどういうことかと言うと、奏は一つ目の課題を未だ果たしていなかったのである。
では課題の二つ目に移ろう。
2歳半の昇を周囲の大人達が微笑ましく思っていたように、奏も「大のお兄ちゃん子」として微笑ましく思われていた。たとえ奏が自白したように、微笑ましく見られるよう計算した行動だったとしても、将来を憂えるレベルのお兄ちゃん子 (いわゆるブラコン)とは認識されていなかったのだ。ちなみにこの星におけるブラコンは、「兄や弟に強い執着を抱くあまり束縛したり、兄や弟の妻や恋人に意地悪する兄弟姉妹」とされている。客観的に見ると奏は俺に束縛じみたことをしたり、翼さんをあからさまに嫌い排除しようとしたが、大好きな兄に年に10日しか会えないのだからブラコンまではいかないと判断されていた。が、
「一つ目の課題を果たしておらず、かつ『課題を背負った理由』と考慮すると、話が違ってくるんだよなあ」
俺は心の中で、溜息まじりにそう呟いた。
奏はマザコンではない昇を、マザコンと蔑視していた。昇に前世の記憶が戻り、母親より自分が優先されるようになっても、過去の間違いを訂正することはなかった。仮に奏がこの星を卒業した者でなかったとしても、何らかのマイナス因果が生じるのは避けられなかっただろう。ならば奏のような、この星を卒業するほど成長した者はどうなるのか? 一概には言えないが宇宙法則では、「責任ある立場になればなるほど過失の罪は重くなる」となっている。これは、前世の祖国を引き合いに出せば理解しやすいだろう。かの国は、普通なら脱税で実刑になるのに国会議員は注意だけで済むという、近代民主国家とは到底呼べない残念国家になり下がっていたからね。宇宙法則に反することをし続けたらダメ国家になって当然とはいえ、目を覆うばかりだったよなあ。
話を戻そう。
奏は、この星を卒業するほど成長していた。更に奏は次の星へ行かず、この星に再度転生するという例外を望んだ。このような場合ペナルティーというか、何かが厳しくなるのが宇宙の常といえる。奏の場合それは、「前世で未習得の単位をより厳しい環境で習得せねばならない」になった。それこそが二つの課題を背負った理由であり、かつ冒頭の【ある事情】だったのである。
アカシックレコードで確認したが、奏の前世の翠さんはマザコンと非マザコンを、天風家筆頭当主の妻として区別していた。また自分の非を棚に上げて他者の非を指摘するような人になってはならないと、天風家筆頭当主の妻として努めていた。たとえ「天風家筆頭当主の妻として」という建前が入ろうと正しい行いをしてきたことが評価され、卒業を取り消すほどの過失ではないと翠さんは判断された。しかしこの星への再度の転生という例外を望んだため、そんな建前としての行動ではなく、
一個の人間として真に理解した上での行動
を奏は求められた。これが奏特有の、事情だったのである。




