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「翔は、物事をとてもよく理解していますね。日本の裁判は、加害者と被害者の双方の意見を公平に聴き、事件当時の現場の状況を客観的に分析することを前提にしています。それに異を唱え、一方の意見だけを聞き事件も調べず裁判すればいいと主張する人は、ゼロに近いでしょう。しかし日本のような治安の良い国において、裁判はどちらかというと非日常に分類されます。非日常の裁判では、双方の意見を聴く重要性を理解できても、日常にもそれが当てはまると考えられる人は、残念ながら少数しかいません。噂話が、その代表ですね。噂話は、当事者達がいない場所で交わされます。しかもほぼ全ての噂話は一方の意見だけが流布し、かつ噂話に参加する人達は、『実際は何が起こったか』を知らないものです。酷ですがはっきり言うと、『噂話は楽しい』と感じる人達がいて初めて、噂話は誕生します。誕生するだけでなく、尾ビレ背ビレ胸ビレが悪意をもって付けられ、事実とは似ても似つかない話として世間に広まっていきます。その行為が、裁判の真逆であることに気づく人は少ない。自分達がどれほど愚かなことをしているかを、理解できる人は少ない。自分の民度を下げる最も恐ろしい罠は、何気ない日常にこそ潜んでいると気づき、それを遠ざける努力を続けられる人は、圧倒的少数派なのですね」
ピンと閃くことがあったので、それを話してみた。
「古代中国に、荀子と呼ばれる思想家がいました。荀子は、『流言は知者に留まる』という言葉を残しています。地球人だったころはその言葉の真価を理解できませんでしたが、今は違います。双方の主張を真摯に聴き、客観的な判断を下す重要性を理解している人を、荀子は知者とした。故に知者は、道理に反する流言に加わらないため、知者を経由して流言が広まることはない。荀子は、そう述べていたのですね」
「私も翔に同意します。そうそうソクラテスも、事実上同じ言葉を残しているのを、翔は知っていますか?」
「あれ? 残してましたっけ・・・・・あ!!」
松果体が放った電気放電を言葉に翻訳し、まくし立てるかの如く述べた。
「ソクラテスといえば、不知の自覚。『私は、知らないということを知っている』ですよね。それを流言に当てはめると、こうなります。流言に登場する人達を、私は知らない。どのような背景のもと、どのような状況で、どのような出来事が起きたのかを、私はことごとく知らない。その『知らない』ということを知っているのだから、無責任な流言に私が加わることはない。母さんの言った、事実上同じ言葉というのは、こういう意味なんですね!」
「正解!」
「やった――ッッ!!」
嬉し過ぎ、俺は跳び上がって喜んだ。すると母さんも立ち上がり、俺の頭を両手でワシワシ撫でてくれた。腕と脚が驚くほど長い身長191センチの母さんといえど、座ったままでは跳び上がった俺の頭に触れられない。よって母さんは俺に合わせ、自分も立ち上がってくれたのである。大聖者の母さんが、未熟者の俺にこうも気さくに接してくれたことを、俺は生涯忘れないでいよう。固く固くそう誓った俺に、「時間もないから巻き巻きで行くよ~」と、母さんはおどけて言った。
「という訳で荀子もソクラテスも、色眼鏡を自由自在に着脱する大切さを知っていたの。それは日常を正しく生きるだけで十分な訓練になるけど、専門の訓練をしてももちろん構わない。その専門訓練の中で最も一般的なのが、瞑想。瞑想の基本は、心から離れて心を穏やかに見つめることだからね。『心から離れて心を穏やかに見つめること』と、心という色眼鏡を外すことは、事実上等しいわ。とても残念だけど、これを瞑想の基本にしている専門家は、私がネットを検索した限りほとんどいなかったけどね」
母さんによると専門家の多くは、異なる基本を提唱していることに加えて、瞑想と集中を混同しているらしい。専門家ではないが俺も区別できていないことを素直に告げたところ、母さんはテーブルに置かれたコップを手に取った。
「翔が、このコップに集中したとします。コップに集中し、コップだけが目に映るようになったら、入門卒業。コップを見つめること以外の全てを忘れられたら、初級卒業。コップを見つめていることすら忘れてコップと自分の区別がなくなり、コップの中に入り、コップの分子構造等を目視できたら、中級卒業ね」
な、なんですと~~との叫びを必死で呑みこみ、今の説明を心に刻むべく全力集中したことに、報いてくれたのかもしれない。母さんはニッコリ微笑み、興味深い追加説明をした。
「望遠鏡を持たなかった古代人がガリレオ衛星を知っていた等の仕組みも、集中にあるの。木星に集中力を注いでいるうち、四つの衛星を従えていることに、古代人は気づいたのね」
パチパチパチ~っと思わず拍手した俺にウインクして、歓喜にむせび泣くレベルのことを母さんは言った。
「最近の翔は成長著しいから、松果体の集中法だけ前倒しで教えましょう」
それから1分ほど、誇張ではなく俺は歓喜にむせび泣いていた。松果体の特定の箇所に特定の形状を想像し、それを特定の色に光らせ、かつ特定の運動をさせることを、大聖者が直接教えてくれたからだ。しかし次の言葉で、俺は顔を盛大に引きつらせることになった。
「集中力がある段階を超えると、肉眼で見ているのと変わらぬほど、形状が心にくっきり浮かぶようになるわ。そして集中力が更に高まると、形状と自分の区別が付かなくなっていくの。その段階まで、戦士になる前に習得するのですよ」
母さんはそう、あっけらかんと俺に命じたのである。顔を盛大に引き攣らせたが、母さんに命じられたらやるしかない。俺は「任せてください」と、威勢よく胸を叩いた。するとなぜか、出来てしまう気が胸にふつふつと湧いてきた。
その意味不明の自信を感じたことをもって、本日の講義は終了したのだった。
続く夕食の時間、猫語翻訳ソフトの詳細を冴子ちゃんに教えてもらった。仕組みを知った俺の正直な感想は、「地球の科学力ではまだ逆立ちしても無理だな」だった。猫同士の意思疎通は声と表情と仕草で行われていて、比率はそれぞれ10%、45%、45%らしい。つまり鳴き声を翻訳しているだけでは、猫が人間に伝えようとしている想いの10分の1しか汲み取れないそうなのである。よって表情と仕草を余すところなく計測しなければならないのだが、猫の表情と仕草はそれぞれ500種類以上ある。しかも猫は自分に電磁波等を向けられることを嫌がるので、普通の光学カメラを使うしかない。かくして光学カメラから得た情報だけで合計1000以上の表情と仕草を瞬時に解析し、人の言語に置き換えて会話を成立させることが、翻訳ソフトには求められるのだ。地球の科学力ではまだ逆立ちしても無理と思ったのは、こういう訳だね。
ちなみに友情検定が設けられている理由は、この星の技術をもってしても、機械だけでは十全な翻訳が不可能だかららしい。人と猫の双方が相手に親愛の情を抱き、それを足掛かりに大まかな意思疎通を既に確立していないと、翻訳にどうしても齟齬が生じる。そのせいで両者の関係が悪化し、猫にストレスを与えてしまうくらいなら、翻訳ソフトなど最初から無い方がいい。との意見が自然と沸き上がり社会の主流を占めた結果、友情検定が設けられたのだそうだ。なんて素晴らしいのだろう、と俺は心から思った。けど同時に、
「合格できるかな・・・・」
と弱気になるのを免れないのが、ヘタレ者というもの。それどころか合格以前に「猫にストレスを与えてしまう」の箇所が気になり、翻訳ソフト自体を辞退しようかな、などといらぬ韻を踏んだ上で悩むのが、面倒なヘタレ者たる俺なのである。だが、それら一切合切を打ち明けられる友人がいて、かつその友人に、
「アンタ本当に、メンドクサイ軟弱者よね」
なんて感じに槍で急所をグサグサ突いてもらえる俺は、やはり幸せなのだろう。しかも、胸中密かに抱いていたその幸せを、
「アンタ、なにニマニマしているのよ」
のように、あえて誤解してくれるのだから冴子ちゃんには頭が上がらない。だってそうしてくれた方が、会話を継続しやすくなるからさ。
荀子とソクラテス、大好きです。




