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その日の夕食中。
「やっちまった・・・・」
俺は自分の薄情さと、脳の低性能ぶりに気づいて俯いた。薄情さは、座学をしてくれる美雪への感謝を忘れていたこと。脳の低性能ぶりは、今と変わらぬ座学を4月1日以降も受けられると決めつけていた事だった。
美雪は毎朝6時50分から7時50分までの1時間を、俺の座学のために割いてくれている。内容は多岐に渡り、実に様々なことを美雪は教えてくれた。孤児院で暮らしていればアトランティス人の人柄や文化等を生活の中で自然と学べたはずだが、訓練場に引きこもっていた俺はその機会を逃してしまった。よって美雪はそれらを、歴史や地理などの一般教養に織り交ぜ、それとなく教えてくれていたのだ。それだけでも感謝すべきなのに俺はそれを忘れ、かつこう考えてしまったのである。「反重力エンジンについて講義する新たな1時間を、美雪は俺のために割いてくれるに違いない」 これは薄情さを通り越した、人間性の欠如と言えるだろう。俯くだけでは足りなくなり、背中の丸みも俺は加えた。
が、その程度では到底足りなかった。俺の低性能の脳味噌は、4月1日以降も今と変わらぬ座学を受けられると、勝手に思い込んでいたからである。
引きこもりは今月で終了し、孤児院暮らしを4月から再開する。なのに今後も美雪の個人講義を受けられると、なぜ決めつけていたのか? 多人数で美雪の講義を受けたり、講義担当者が別の人に代わったりする可能性に、なぜ気づかなかったのか? 自分の脳の残念ぶりに、俯いて背中を丸めるだけでは足りなくなった俺は、肩を落とすこともそれに加えた。そんな俺の頭頂に、
「翔、私に何でも話してごらん」
美雪の声が降り注いだ。人の持つ最上級の優しさを音にしたら、美雪の声にきっとなるんだろうな。そう思った俺はお箸とご飯茶碗をテーブルに置き、背筋を伸ばして、己の薄情さと低性能な脳についてありのままを話していった。
すると、想定外のことが起こった。俺のダメっぷりを聞かされているはずの美雪が、どんどん上機嫌になっていったのである。仮に美雪が嗜虐的な性格をしていたなら、俺を虐待する口実を多数得られて機嫌が良くなったと解釈できるが、美雪はそんな性格ではない。むしろそれとは真逆の性格をしているのに、嗜虐的と仮定すると整合性の合う状態になぜなったのだろうか? 直感ではそこに「快刀乱麻を断つ」の未来が待っている気がしたのでそれも込みで一切合切を打ち明けたところ、並の上機嫌を特上の上機嫌に変えて、美雪はこんな話をした。
「馬鹿と天才は紙一重という諺が、翔の前世の母国にあるって母さんが教えてくれたわ。その諺が表す『両極端のモノは表面上似ている』に、私達はいるの。翔、想像してごらんなさい。反重力エンジンを学べることに私が瞳を輝かせていて、かつ翔にそれを教える能力と時間があったら、翔は喜んで私にそれを教えてくれるよね。私も、ピッタリ同じなの。翔の役に立てるなら、時間なんて幾らでも割いてあげられるのよ。私のその気持ちを翔は正確に感じ取り、またそれは翔が私に抱いている想いと寸分違わなかったから、『姉ちゃんは僕のために時間を割いてくれる』と無意識に考えた。ただそれを無意識にし過ぎたせいで、『両極端のモノは表面上似ている』に付け入られてしまった。僕はなんて薄情なこと姉にしてしまったんだという、正反対に位置する勘違いを、翔はしたという訳ね」
それとも翔は私を、嗜虐的な女だって考えているワケ? と悪戯小僧の笑みで付け加えた美雪に、上機嫌の真相を教えてもらった俺は顔を赤くした。赤面した理由は、4月以降も美雪の個人講義を受けられるという思い込みにも、「両極端のモノ云々」が適用されていると理解できたからだ。つまり・・・・
「うんうん、翔はとにかく私が大好きでずっとず~~っと一緒にいたいって願っているから、今と変わらず一緒にいる4月以降の未来を、無意識に思い描いちゃったのよね!」
という事だったのである。厳密には、自分の脳の低性能ぶりを嘆くことと、大好きな姉と一緒にいる未来を無意識に想像することは、両極端ではないと思う。だがそれを口にすると、「翔は私を好きじゃないの?」と美雪は主旨をすり替える違いない。そしてたとえすり替えられようと、「好きに決まってるじゃないか」と答えるしかない俺にできるのは、これのみだった。
「はい、無意識に思い描いちゃいました」
そう俺にできたのは、全てを肯定する事のみだったのである。けどこれで薄情と残念脳味噌の件が解決したのは事実だし、また会話の流れから、想像した未来がさほど間違っていないように感じられたので、全然いいんだけどさ。
その後、食事を再開した俺は驚くべきことを知った。3月下旬の11日間を費やす予定だった情報開示を、俺にはたった二日で終えてしまったそうなのだ。
「情報開示の主目的は、人によって異なってね。翔の場合は、新しい孤児院で待ち受けている二つの苦労を理解することと、そして可能ならそれらを率先して背負うことだったのよ」
「なるほど、そうだったのか。えっとでも、なんかゴメンね」
「ううん、謝る必要なんてまったく無いわ。それより、母さんから伝言。『空いてしまった明日以降の9日間に、希望はある?』だって」
縦皺を眉間に深く刻み、俺は唸った。希望はもちろんあっても、中二病的講義をもっとしてくださいなんて本音をさらして良いのかな、と悩んだのである。
幸い、非常に無難な質問を思い付けたので、時間稼ぎをすることにした。
「そうそう、反重力エンジンを学問的に理解するだけなら、週に6時間の座学で済むって母さんは言ったよね。それを疑う気持ちは微塵もないけど、前世で文系の学部に進学した僕は、物理や機械工学のド素人なんだよ。だから、どの学問をどれくらい習得すれば反重力エンジンの理解が可能になるという、目安があったら知りたいと思う。目安次第では、明日以降の9日間を勉強に費やしますなんてことに、なるかもしれないからさ」
「なるほど納得。訊いてみるわ、ちょっと待ってね」
量子AIの美雪なら、通信時間はゼロに等しいはず。にもかかわらず待ってと言うからには、相応の理由がきっとあるのだろう。それは正しかったらしく、
「母さんに情報をもらって私もシミュレーションしてみたよ。週に6時間の座学を20歳まで続ければ、スキルの等級が初級になるみたいね」
との事だった。母さんを微塵も疑ってなくとも、情報をシミュレーションし納得してから俺に目安を伝えようと、美雪はしてくれたのである。良い姉を持ったものだと俺はニコニコし、つられて美雪もニコニコし、とても和やかな空気のもとで目安は告げられた。だがその直後、和やかな空気が俺の周囲から消える。なぜなら目安は、数学と物理学と化学と機械工学を大学院の修士レベルにする、だったからだ。
俺はその後、しばし立ち直れなかった。数学と物理学と化学は大学の経済学部の入学試験程度しか、つまり文系大学を目指す高校生の学力程度しかなく、そして機械工学に至っては完全な門外漢だったからだ。この四つの学問に重なる分野は多少あれど膨大な量になるのは間違いなく、俺の残念脳味噌がそれに耐えうるとは到底思えない。ああ俺はなんて身の程知らずだったのかと、己の思慮不足を呪う時間がしばし続いたのである。が、
「あれ?」
俺は首を捻った。無理に決まっていると考えているのは俺のみで、母さんと美雪は可能と判断したことが、やっと心に浮かんで来たんだね。恐る恐る、美雪に尋ねてみた。
「母さんのことだから、僕の前世の学力を正確に把握しているんだよね」
「もちろん把握しているし、私も教えてもらったから知っているわ。でもそれに、いったい何の関係があるの?」
「そりゃ関係あるよ、新しく覚えないといけないことが膨大にあるんだから」
首を捻ったのは、今度は美雪の方だった。正確には人差し指を口元に当てて首をちょこんと傾げるというとても可愛らしい仕草を美雪はして、俺は思わず顔がほころんでしまったのだが、それはさて置き。
「翔はひょっとして、前世と今生の脳の性能が同じって考えてる?」
「え、違うの?!」
「違う違う、別次元の違いがあると思って。そうねえ、移動性能に譬えて比較するなら、前世の脳はイモムシで今生の脳は渡り鳥ってところかしら」




