表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/670

2

 声に出し節をつけて読むことを、誦読(しょうどく)という。ちなみに誦は常用漢字ではなく一般的には唱が用いられ、暗唱がその代表だろう。また一説に、オームはサンスクリット語の発音を踏襲して最初が「オー」になっているだけで、元々は「アウ」なのではないかとも囁かれており、その説が部分的に正しかったことを俺は今、知った。アトランティス時代の発音を正確に受け継いできたこの星の発音はオームではなく、アウムに近かったからだ。そうは言っても近いだけで、「ア」の発音が若干違うんだけどさ。

 という話を美雪にしたところ、左右の拳を握り締めて「ヨッシャー!」と叫ぶことになった。なぜなら、


「翔が戦士になったら、正しい誦読に呼吸法と座法と集中法を加えた、アトランティス時代の技法を母さんが教えてくれるそうよ。アウムだけで本来は2分前後かかるみたいだから、地球の誦読は原形を留めていないって母さんは眉間を抑えていたわ」


 と言ってもらえたのである。戦士になれば美雪との交流も継続できるし、こりゃもうなるっきゃない。俺は今まで以上に集中して、美雪の講義に耳を傾けた。

 それによると梵語のオームは、簡略振字を更に簡略化して振動を伴わない文字にし、しかも左側に不要な形を加えてしまった字らしい。言われてみれば確かに、オームの右側のみを見れば、簡略振字に似ていなくもなかった。

 また美雪の母親、つまりマザーコンピューター、ぶっちゃけると女神様によると、簡略振字を作ったのは、全宇宙のポジティブ勢力の総本山が地球に設けた支部のメンバーとの事だった。そりゃ俺如きが知らなくて当然と納得していたら、とんでもない言葉が耳に跳び込んできた。なんと、


「母さんが言うには、健康法を含む翔の前世の行いを総本山が認めたから、翔は今こうして振字を習っているんだって」


 との事だったのである。この星に転生したお陰で今の俺があり、そしてそれは前世の俺の行いが認められたからだったのだ。俺はテーブルに突っ伏し、声を殺して泣いた。そのせいで講義を中断させてしまい申し訳ございませんでしたと、美雪と冴子ちゃんに後で謝ったものだった。

 自分では可及的速やかに平静を取り戻した、5分後。このアトランティス星で振字のアウムを唱える意義を、美雪は明かした。


「実を言うと、ある心理状態にいないと、アウムを真の意味で唱えられないの。でも少なくともその状態に近ければ、僅かとはいえアウムの恩恵を得られる。それはこの星の反対側にある、ネガティブ穴の影響を軽減すること。その仕組み及び『ある心理状態』の詳細を、翔ならいつか学べるかもしれないから頑張りなさいって、母さんは言っていたわ」


 俺は額がテーブルに触れる寸前まで腰を折り、次いで居住まいを正して、全力を尽くすことを美雪の母上に誓った。にっこり頷いた美雪に安堵すると共に、己の全てを賭けて誓いを成就してみせると闘志を燃やしていたのだけど、その時間はほんの数秒で終わった。冴子ちゃんが、爆弾発言をしたんだね。


「母上だなんて畏まらずアンタも私達のように、母さんって呼べばいいじゃない。翔はマザコンだから、本当はそう呼びたいんでしょ」

「どわっ! ちょっと冴子ちゃん、俺はマザコンじゃないよ!」

「ああそうね、正確にはマザコンを加えることで強化された、重度のシスコンよね」

「なっ、なっっ、なななななな~~」


 俺は「な」を連発することしかできなかった。素粒子一個ぶんの齟齬もない正確極まる描写を、冴子ちゃんがしたからだ。そりゃバレているのは解ってたし、またバレていても現時点のシスコンに留まっていれば苦笑しつつも美雪は許してくれると考えていたし、そして多分それは間違っていなかったと思うけど、世の中には言って良いことと悪いことがあるんだよ冴子ちゃん! と諫めようにも、いやホント目上の人へ忠告するという意味の諫めるを行使しようにも、ヘナチョコな俺は尻込みし、阿呆のように「な」を連発することしかできなかったのである。

 ただ、この状況を自力で克服せねばならぬことも理解できていた。この状況とは、他者との意見の対立だね。訓練場に引きこもってきた俺は、他者と意見を対立させることから離れて暮らしてきた。でもその暮らしは、今月で終了。孤児院に帰り大勢の子供達とすごす日々が、すぐそばまで来ている。そしてその子たちの全員が亮介級のいい奴だなんて、絶対ありえない。重度のシスコンという言葉を悪意で俺に放つ子も、高確率でいると考えるべきなのだ。俺の生活環境はあと二週間足らずで、そうなるんだね。

 よってその予行練習を、冴子ちゃんはしてくれている。重度のシスコンという言葉を、冴子ちゃんなら俺を成長させるために言えるから、憎まれ役をあえて買って出てくれた。きっとそれが、この状況の真相なのだろう。だって俺が冴子ちゃんを憎むなんて、あり得ないからさ。

 ちなみに孤児院生活がまた始まると思う根拠は、人類軍が連携を至上にしている事にある。至上にしているからこそ、昨日までの8日間があった。自分達の分隊に加入者がいても、他の分隊の加入者に自分達がなっても、新たな仲間との連携(・・)を成立させるための訓練を、俺は受けたって事。そしてその訓練で学んだことは、孤児院での集団生活に必ず役立つって、俺は考えたんだね。

 いやひょっとしたら、現実はもっと厳しいのかもしれない。この8日間は訓練ではなく、試験だったという事はないだろうか? 新たな仲間との連携を成立させられるか否かの抜き打ち試験を、俺は受けたのではないだろうか? 戦士になれるのは、同年齢の8分の1だけ。例えば試験が三回あって、試験ごとに人数が半分になっていくとし、2回目の試験を13歳と仮定しよう。すると一回目の試験が7歳、二回目が13歳、三回目が20歳になり、試験ごとに人数が半分になるなら、20歳で丁度8分の1になるんじゃないか?

 冷や汗が、全身からドッと出た。ある事実が、この仮説を後押しすることに気づいたからだ。その事実は3月下旬にならないと、つまり明後日にならないと開示できない情報が多数あること。抜き打ち試験が終わってからでないと、「この8日間は抜き打ち試験でした」って開示できないからさ。いやいや!!

 冴子ちゃんが俺に重度のシスコンと言ったのも、試験なんじゃないか? 4月からの集団生活が可能か否かを審査する、試験なのではないか? なぜならこの訓練は本来9日間あり、そしてその最終日の9日目が、今日だからだ。俺がこうして長々と熟考しても、美雪や冴子ちゃんが何も言わないのも、試験だとすると辻褄が合う・・・・


 ガタンッッ


 堪らず俺は立ち上がった。重度のマザコン発言は試験に違いなく、ならば少しでも早く返答せねばならないと焦ったのである。隣席の冴子ちゃんに体を向け「言いにくいことを、俺のためにあえて言ってくれてありがとう」と、まずは謝意を述べた。続いて美雪に正対し、正直な想いを告げた。


「血縁のある家族を前世も今生も持たなかった俺は、美雪に理想の姉と母を重ねていた。それを急に止めるのは無理でも、7歳という年齢は、独り立ちを始める時期として適切だと思う。今までの重度のシスコンを、俺は改めていく。だからどうかもうしばらく、大好きな姉への想いを隠し切れないダメな弟を、許してあげてください」


 許してあげてくださいなどという甘ったれた気持ちを最後に吐露してしまったが、心底そう思っているのだから今は隠してはならない。本音で語り合うことを俺が願っているなら、まずは俺が本音を晒すのが筋だからだ。俺は腰を直角に折って、美雪の返事を待っていた。

 正確な時間は判らないが、おそらく5秒後。俺の鼓膜を美雪の声が震わせた。けどその声は想定外すぎ、瞬時の理解が不可能だった。美雪は、こう言ったのである。


「7歳は、独り立ちを始めるには早い。お姉ちゃんは、悲しくて仕方ないよ」


 あれ? というのが正直な感想だった。根本的な何かが違っていると、強く感じたのである。上体を起こし美雪を見つめたところ違和感は更に増し、すると増したそれが、違和感の正体を教えてくれた。美雪が全身全霊で考えているのは俺たちの姉弟愛についてであり、試験についてはこれっぽっちも考えていなかったのだ。先ほどの「なななな~」に類似する「え? ええええ~~」を、心の中で阿呆のように繰り返す俺に、冴子ちゃんが盛大に溜息をつきつつ問うた。


「アンタさあ、非常にメンドクサイ勘違いをしているんじゃない?」


 まさしくそのとおり、非常にメンドクサイ勘違いをしたことに気づいた俺は椅子に崩れ落ち、頭を抱えてテーブルに激突した。その丸まった背中をバシンと豪快に叩き、冴子ちゃんが命じた。


「美雪を泣かせた償いのため、何もかも白状しなさい」 


 跳ねるようにテーブルから身を離した俺の目に、ハンカチを目に押し当てた美雪が映る。すべて話すから姉ちゃん泣かないでと必死に頼みつつ、俺は何もかも白状したのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ