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 お爺さんによると小さい頃の武さんは、泥んこになっているか砂まみれになっているかの、どちらかだったらしい。近所の小川で遊んだら泥まみれ、海岸で遊んだら砂まみれ、といった具合だ。幼年学校の帰省中もそれは変わらなかったが、10歳頃から小川遊びは稲の栽培に、海岸遊びは釣りに替わったという。稲の栽培に付き合うのは無理でも息子と並んでする海釣りは非常に楽しく、戦闘力も申し分なく高かったため、帰省中の過ごし方にお爺さんは一度も口出ししなかったそうだ。

 戦士養成学校に入学した武さんは翼さんの母親になる人、遥香はるかさんにめでたく出会った。2年生の夏の帰省で遥香さんのご両親に交際を認めてもらい、冬の休暇は遥香さんを連れて帰省した。遥香さんを一目で気に入ったお爺さんは、威厳のある父を印象付けようとする予定を全て放棄した。それは正解だったらしく「聞いていたとおりの優しいお義父さんで良かった」と、遥香さんは武さんに語ったという。

 武さんと遥香さんは二人とも戦士になり、この家で一緒に暮らすようになっても仲はすこぶる良く、子供も男女一人ずつ生まれた。翼さんのお兄さんとお姉さんがこの家を走り回っていた頃を、お爺さんは幸せを具現化したような笑顔で話していた。

 翼さんのお兄さんとお姉さんは結婚して家を出ていたが、夏と冬には必ず顔を見せてくれた。ひ孫も一緒に連れて来て、それは武さんの妹さんの子供達も同じだったため、毎度毎度凄まじい騒ぎになった。相殺音壁がなかったら一体どうなっていたかと、お爺さんは武さんと肩を並べてオロオロしっぱなしだったという。「父とオロオロしていたんですか?」「翼、さっき言ったであろう。楽しくて嬉しくて元気いっぱいの孫に、ジジイは決して勝てぬのだよ」 翼さんは、


「お爺様と並んでオロオロする父が、瞼に映るようです」


 瞑目してそう呟き、胸に両手を添えた。お爺さんの双眸から涙の粒が二つ零れる。それを手の甲で素早く拭い「翔、頼むぞ」と、お爺さんは俺に顔を向けた。子細は分からずとも力強く首肯した俺に相槌を打ち、お爺さんは話を再開した。

 戦争の3年前の、夏のある日。武さんがお爺さんの書斎を訪れた。「父さん、折り入って話がある」 戦争の3年前ゆえ、想像は容易かった。だが息子のただならぬ気配は、それをも越える重大事を予感させるに十分だった。いかなる重大事を聞かされても動じぬようお爺さんは己に活を入れるも、冒頭の段階で無駄になった。武さんは、こう言ったのだ。


「亮介様と冴子様が夢枕に立ち、教えてくださった。2年後に生まれる末娘以外で戦争後に父さんのそばにいる者は、誰もいないそうだ」


 お爺さんはその年の春、奥さんのみどりさんを亡くされていた。平均寿命より9年早い116歳の死に打ちのめされていたお爺さんに、武さんの話は重すぎた。武さんによるとその「誰もいない」にはお爺さんのひ孫までと、お爺さんの弟と妹の孫までが含まれているという。名家筆頭の当主として覚悟はできているつもりだったが、とんでもなかった。覚悟は偽物の、嘘八百だった。お爺さんは天風家に生まれたことを、後悔したという。

 それから数日間は、何も手につかなかった。絶望が深すぎ、そのまま戦争を迎えても不思議はなかった。でも、そうはならなかった。武さんがお爺さんを訓練に連れ出し、毎日ヘトヘトになるまでしごいたのだ。老化の始まった116歳の体にその訓練は堪えたが、お爺さんは文句を言わなかった。このままではダメだと解っていたのもさることながら、武さんと肩を並べて体を鍛えるのが純粋に楽しかったのである。「どうも儂は、大の息子好きだったようなのだ」 頭を掻きつつ、お爺さんはそう明かした。

 武さんとお爺さんは、自然と馬が合った。改めて思い返したところ、喧嘩したことがないどころか、武さんを叱った記憶すらお爺さんにはなかった。といっても武さんは、父親に従順な息子では決してなかった。自分の意見をしっかり持ち、それを堂々と述べ、己の足で人生を歩いてゆく人だったのだ。なのになぜ、喧嘩どころか叱ったことすらないのか? 自問するなり正解が脳を駆け抜けた。お爺さんはちょっとやそっとじゃ見ないレベルの、息子大好き父親だったのである。

 それ以降、息子と肩を並べて臨む訓練が一層楽しくなった。武さんもきっと同じだったのだろう、青春時代に戻ったかの如く二人は訓練に励んだ。すると武さんの妹夫婦も訓練に加わるようになり、兄妹の子と孫もそれに続き、気づくと大層な人数になっていた。それはまこと賑やかかつ充実した日々で人生の絶頂を堪能していたある日の夕食時、武さんと遥香さんが照れつつも声を揃えて発表した。「「子供が出来ました」」と。


「その後、大変な騒ぎになってな。相殺音壁を最大にしても誤魔化せず両隣の二家ずつが何事かとやって来て、武と遥香に末子ができたと知るや四家もめでたいと騒ぎ出した。五家全てが騒いでいるなら相殺音壁の必要なしと判断したのだろう、それを解除したところ、この地の隅々にどんちゃん騒ぎが届いてな。あの日の夜は、一族を上げてのお祭りのようだったよ」「翼さん、良かったね」「はい!」


 翼さんは元気よくそう応え、ハンカチを目に当てた。亮介と冴子さんが武さんの夢枕に立った辺りから翼さんはハンカチをずっと手にしているけど、お爺さんが大の息子好きを暴露した箇所から涙の質が変わり、今は周囲をほのぼのさせる涙になっている。そんな孫娘にお爺さんは下がった目尻を更に下げたのち表情を一変させ、力強い声で話を再開した。


「翌朝目覚めると、胸に新たな想いがあった。それは亮介様と冴子様の言葉を、覆してみせるという決意だった。儂も戦争に赴き、この命を盾に家族を守ってみせる。たった一人でもいいから、必ずこの地に生還させる。燃え盛るその決意が、目覚めたら胸にあったのだ」


 その日以降の2年半の全てを、お爺さんは決意を成就させるためだけに生きた。翼さんが生まれてからは、気が触れたかのように自分を苛め抜いた。しかし最終順位となる戦争三か月前の順位は、57位。110歳以上の天風一族の者が戦争へ赴くには55位以内でなければならないという掟に阻まれ、お爺さんは家族を見送るしかなかった。そして誰一人、戻って来ることはなかった。お爺さんは尋常でない傷を心に負い、武さんの名を口にする事すらできなくなっていたのだ。

 しかし今日、11年ぶりに息子の名を口にできた。思い出話を、孫娘に聞かせてあげる事もできた。ありがたいことだ。「それもこれも」とこちらに顔を向けたお爺さんの言葉を、


「お爺さん、武さんの前世の故郷ではタマカイを、こう書きます」

タマカイは、葛西臨海水族館にいますからね~!(^^)!

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