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「俺と百花は学校が終わりさえすれば、会える。学校が違ったとしても毎月の強制休日に会って、心を通わせることが出来る。その『心を通わせる』という経験を、蒼はしていない。隣に住む女の子を物心つく前から好きだったのに、その子と心を通わせた経験が、蒼には一度もない。それを理解してやっと、俺と百花は共通見解を持てた。『蒼の苦しみをまったく経験していない俺達は、蒼に何もしてあげられない』 これに気づくまで、俺と百花は十年近くを要したんだよ」
蒼君に何もしてあげられないのだからぶん殴っても無意味と、颯は気づいた。蒼君に何もしてあげられないのだからぶん殴るのを止めさせても無意味と、百花さんも気づいた。それでも二人は、翼さんの宣言を白紙に戻すことに役立つなら蒼君が人生を棒に振っても構わないという一族の大多数の意見には、変わらず反対していた。だがそれも、
「未熟な俺達には理解できないだけなのかもしれないって疑うようになったら、以前のような断固反対を貫けなくなってな」
颯はそう言って、項垂れたのである。後頭部が床と平行になるほど深く項垂れる颯に、俺はきわどい質問をした。
「翼さんの宣言の背景を、颯は知ってる?」「俺は知らん」「俺はってことは、百花さんは知っているのかな?」「本音を可能な限り明かすことと、他者の秘密をバラすことは異なる。したがって百花が知っているか否かも俺は知らんが、百花が何かを隠していることなら知っている。俺に言えるのは、そこまでだ」「ありがとう。俺は今から、俺の体験を話す。それが翼さんにどう関係するかを、俺は言えない。許してくれ」
そう謝罪し、転生時の白い世界での体験を俺は颯に説明した。
ふと気づくと白い世界にいて、習得可能なスキルの集合体が眼前にあった。眼前にあったため集合体は一つのみと最初は考えていたが、少し離れた場所にもう一つあるのを偶然発見した。両者を見比べたところ俺が転生可能な惑星は二つあり、選択は俺に委ねられていた。俺は少し離れた場所にあった方を選び、だから今こうしてここにいる。つまり一方を選ぶともう一方は捨てざるをえず、そして何を捨てるかは人それぞれなのだろう。あの白い世界での選択は知覚できないほど巨大かつ強力な何かとの契約に等しく、転生後の変更は不可能。変えられる未来を運命、変えられない未来を宿命とするなら、選択は宿命と俺は断言できる。という体験を、颯に説明したのだ。
それからしばし、俺達は無言でいた。颯は何かを懸命に考えていたし、俺も考えねばならぬことが多かったので、無言の時間が続いたのである。そしてその状態は、
「そろそろ出て寝るか」
「うん、そうだね」
俺達が浴室を出るまで続いたのだった。
颯に室内着を貸してもらい、颯に導かれるまま廊下を歩いて行く。映画も見させてもらったし昼食と夕食も頂戴したし、天風一族には足を向けて寝られないな。
と胸中手を合わせつつ廊下を歩くうち、家族のプライベートスペース的な雰囲気が強くなってきた。ひょっとしてこれってとの期待に違わず、「まあ入れや」と颯が開けたドアの先には、いかにも13歳の男子の自室的な空間が広がっていた。
「どうした翔、やたら嬉しそうにしやがって」「今生で友人の自室に招いてもらったのは、これが初めてなんだよ。前世も孤児だったから、大学生になってやっとだったしね」「ほう? 翔の意外な弱点を見つけた気分だ」「弱点?」「翔を懐柔したいなら、自室に入れれば効果抜群だってな」「どわ、まったく反論できない」
などとワイワイやりながら、押し入れから布団を二組取り出し床に敷いてゆく。颯の部屋には友人が頻繁に泊まりに来るらしく、来客用の布団が三組常備されているという。心の中で「このリア充め」と罵った俺だった。
時刻は午後8時半過ぎ。一時間近い入浴を経て潜り込んだ布団は、えも言われぬほど心地よかった。「こりゃ油断するなり強烈な睡魔に襲われるな」と確信した俺は心地よさを撥ね退け気を張っていたのだけど、
「眠いし寝るか」
意外な声を隣からかけられた。驚く俺の気配を察した颯が語ったところによると、天風一族は二十歳になるまで、午後9時就寝をそこそこ強く義務づけているという。然るべき理由があれば破ってもいいのでそこそこの義務でしかないが、天風一族800年の統計によると午後9時就寝を心がけてきた子供は、強い戦士に育つ確率が跳ね上がるそうなのである。「翔に親近感を覚えた理由の一つは、午後9時就寝をお前が心がけていたからなんだよ」「へ~、何か嬉しいな」 というやり取りをしているうちに照明が落ちていき、それ以降は暗い天井を見つめながら会話した。何気にこれも、今生では初めてのこと。ずっと相部屋だったし、引きこもっていた時はベッドの隣が美雪の定位置だったしさ。
そういえば今日、美雪と会話したのは朝だけだった。仰向けになったまま咄嗟にキーボードを出し、連絡を長時間しなかった詫びと就寝の挨拶をしたため美雪にメールした。『ありがとう、お休み』との返信を見つめているうち、焦燥感が心をあっという間に占拠してしまった。ヤバいどうしようと頭を抱えた丁度その時、颯の寝息が耳朶をくすぐった。天井を見つめつつした会話の中に「軍団の会合は欠席させてもらう」「いいのか?」「睡魔優先の規約がある、問題無い」というものがあったから、案じなくていいだろう。それより心配なのは美雪だ、トイレに行く振りをして美雪と連絡を取るか? と本気で考え始めたタイミングで、
「私に任せてアンタは寝なさい」
枕のすぐ隣に冴子ちゃんが現れ、俺にだけ聞こえる指向性音声でそう命じた。反論しようとするも、初めて見る慈母のような笑みを湛えた冴子ちゃんに、俺は成すすべなく委縮してしまう。そんな俺にクスクス笑い、冴子ちゃんは俺の頭を愛おしそうに撫でた。続いて、
「私の子供達に良くしてくれてありがとう」
そう感謝を述べた冴子ちゃんは、まるで母さんの後継者のようだった。さすがにこれは、畏縮などしていられない。腰を据えて話すべく俺は身を起こそうとしたのだけど、「私を信じて寝なさい」と信じることを引き合いに出されたら、指示に従うしかない。すべてを諦めて寝ることにした俺の鼻腔に、冴子ちゃんだけが身にまとう香りが届く。
「冴子ちゃん」「ん?」「ありがとう」「どういたしまして」
甘やかな香りに包まれた俺は母親を信じ切る子供のように、寝たのだった。




