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檻に入り内側から鍵をかけるというのは、仮に俺と舞ちゃんが恋に落ちたら美雪がするつもりだったこと。人間の恋を邪魔しない量子AIの姉として振舞うためにはそうするしかないと、美雪が覚悟していた事だったのだ。誰にも話していないが俺は一度だけ、俺と舞ちゃんが夫婦になった未来を幻視したことがある。実現率は極小でも確かにそれは存在し、俺達はその未来でとても幸せに暮らしていた。人と量子AIの未来予測の手法は異なれど、可能性がゼロではない未来として美雪もそれを見ていたと俺は考えている。したがって心を尽くして土下座したのだけど、
「翔、お願いだから顔を上げて」「アンタに言ってなかった私達が悪い。謝罪するわ」
美雪のみならず冴子ちゃんの声も、後頭部に降り注いだのだ。二人の声に嘘を感じず、上体を起こす。上体を起こした俺に二人は安堵したが、反省の気持ちも同時に抱いたようだった。ただ安堵と反省の比率は異なり、美雪は前者が多く冴子ちゃんは後者が多いように感じる。ん? ひょっとして・・・・
「ひょっとして母さんは申し訳ないという思いが強すぎて、ここに来ようにも来られないとか?」「「翔お願い、母さんは悪くないの分かってあげて」」「うん、それは心配しないで想像つくから。母さん、板挟みで苦しかったのではないですか? 俺達のためにいつも苦労を買って出てくださり、感謝の言葉もありません」
謝罪のためではなく感謝のために腰を折ったところ、後頭部側に騒がしい空気が生じた。「母親が息子に抱き着いて何が悪いのよ!」「「いや悪いから」」「な! とにかく放しなさいよ!」「「いや放さないから」」 との掛け合いが、親子漫才を彷彿とさせすこぶる面白い。母と娘達のじゃれ合いを邪魔したら悪いので俺は目を閉じて上体を起こし、全体像の把握を始めた。
最初に考察すべきは何と言っても、翼さんがマザーコンピューターに白の戦闘服を着る許可を求めた場面だろう。白光として現れた母さんとのやり取りから、大聖者の母さんは凡人の想像の及ばぬレベルで翼さんを知っていたと思われる。翼さんの前世はもちろん転生前の白い空間での会話や、それどころか8年前の時点で俺と翼さんの今日のやり取りすら母さんは知っていたに違いないのだ。ただ「板挟み」との印象も強いことから、創造主もしくはそれ以上の存在が翼さんの情報を母さんに降ろしたと考えるべきなのかもしれない。
次に考察すべきは、冴子ちゃんと翼さんの関係。二人の関係は翼さんが物心つく前から始まっていて、翼さんにとって冴子ちゃんは師匠であり姉であり友人でもあるという。冴子ちゃんならそんなふうに慕われて当然でも、冴子ちゃんの背後に母さんの気配がするのも否めない。母さんは翼さんの情報を、冴子ちゃんに教えていたはずなのだ。ついさっき俺の後頭部に降り注いだ言葉、「アンタに言ってなかった私達が悪い」がその根拠。反省の気持ちが美雪より多かったのも、教えられた情報も多かったと仮定すれば整合するしね。
最後の考察は、美雪について。美雪は冴子ちゃんの親友として翼さんに紹介され、三人はガールズトークを頻繁にする仲だった。また翼さんと俺が未来で親交を持つことも、母さんに教えられ早い時点で知っていたのだろう。ただ教えられた量は冴子ちゃんより少なく、しかし少ないながらも美雪にとって最も重要な「俺と翼さんは恋人にならない」との情報は、十年以上前から知っていたと思われる。冴子ちゃんの「私達が悪い」発言も、それを後押しするしね。翼さんの自宅に俺が招待され、それについて俺が土下座しても美雪が非常に落ち着いていたのも、「恋人にならないことを遥か前から知っていた」とすれば説明つくしさ。
という三つの考察を終え、全体を俯瞰してみる。よし、破綻は見られない。間違っている箇所があったとしても、些細なことなんじゃないかな。
そう結論し目を開け、考察を説明したところ、「「「訂正箇所はない」」」と声を揃えてもらえた。それでもションボリ度は三人で異なり、最もションボリしているのは母さん、次いで冴子ちゃん、美雪はションボリよりこの四人で過ごす時間を嬉しく思う気持ちの方が強い、といった感じだ。母さんを中心に膝を揃えて正座する三人が愛おしくてならず、俺は膝立ちになり三人を軽く抱きしめてから、「もうすぐ寝るけどどうしても言っておきたい事とかある?」と尋ねてみた。すると冴子ちゃんがビシッと挙手し、
「翼の教育担当AⅠは今日から私になった」
と、何気に重大発表をした。早口でされた説明によると、次期人類軍トップ10入り確実の翼さんは本来なら情緒豊かなトップ10AⅠを割り振られるはずだったが、諸機密により機械然としたAⅠを割り振られていたという。その諸機密が消滅したためAⅠが変更され、しかも新しく着任したのは「空前の速度で順位を上げて準筆頭になった私よ!」と胸をそびやかす、冴子ちゃんだったのである。「翼さんはもう知っているの?」「もちろん知っているわ」「そうか。冴子ちゃん、翼さんをよろしくお願いします」「ふふん、私に任せなさい!」 後ろに転倒する勢いでふんぞり返る冴子ちゃんに爆笑が湧き起こる。それが収まるのを待ち、尋ねた。「でも冴子ちゃんはカウンセリングを始めとする、多くの仕事を請け負っているよね。教育担当も熟すとなると大変じゃない?」「ううん、大変じゃないよ。インフラ管理の仕事を、母さんが減らしてくれたの」「そりゃ良かった。母さん、俺からもお礼を言わせてください」「ふふふ、どういたしまして」 冴子ちゃんの成長が嬉しいのだろう、母さんは機嫌良さげに微笑んでいた。が、急に表情を改める。それを見て両隣の美雪と冴子ちゃんも顔を引き締め、言うまでもなく俺も二人に倣ったところ、「子供達が優秀だと助かると同時に、にやけちゃって厳格顔を保てなくて困るわ」と母さんはお手上げの仕草をした。そして俺達三人をそれぞれ見つめたのち、人類の命運を左右する超巨大爆弾を投下した。
「闇軍の頂点は闇王、それに続くのは10体の闇将です。闇将にも筆頭がいて、筆頭闇将の戦闘力は9体の闇将より頭一つ抜き出ています。9体の闇将も決して侮れず、特に次の戦争の闇将は、通常の闇王の戦闘力を有しています。重要なことなので繰り返します。次の戦争は普通の闇将すら、通常の闇王並に強いのです。よって頭一つ抜き出た筆頭闇将は第十次戦争の闇王の戦闘力に並び、そして頂点に立つ闇王はかつて人類がまみえた事のない、最強最悪の戦闘力で南極を越えてきます。翔、美雪、冴子。あなた達三人は今この瞬間から、母が明かしたこの情報を基に生きなさい」
「「「了解です、母さん」」」
テレパシーを交わしてないのに、俺と美雪と冴子ちゃんは声を完璧に揃えてそう応えた。そんな俺達に母神様の笑みを惜しみなく注ぎ、母さんが去る。続いて美雪と冴子ちゃんも、手を振り振り去って行った。三人が座っていた場所へ、俺はしばし手を合わせる。そして瞑目し、母さんが残していった情報について瞑想した。
午後9時10分、瞑想を終えた。現時点で就寝時刻を10分過ぎているが、今日は運動をほぼしていないので問題ないはず。とはいえ油断禁物との言葉も忘れず、2Dキーボードを素早く出して十指を走らせ、翼さんにメールを送った。十秒経たず着信音が鳴り開いたところ、
『学校を9時半に発つんですね。我が家の飛行車をバス停近くに待機させておきます』
と書かれていた。始発の無料バスに乗っても午前中に映画を一本見終わらないと思うけど、まあ仕方ないか。
そう独り言ち『ありがとう、お休み』と翼さんにメールして、俺は寝る準備を可及的速やかに始めたのだった。




