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二十代半ばでヨーロッパに渋々帰った翼さんは、なぜか急にモテ始めた。モテ期到来の理由を本人は未だ解明できていないそうだが、日本留学中の話から察するに、松果体を介して流入する力の一つである磁力が急増したのが真相と思われる。磁石が鉄を引きつけるように松果体由来の磁力に富む人は、不可解なほど人を惹き付けることが稀にあるんだね。
間の悪いことに、いや経済的には間が良かったのだろうがそれでも悪いことに、華道の感性を取り入れた翼さんのフラワーアレンジメントもモテ期と並行し、ヨーロッパで高い評価を得た。華々しい舞台に次々呼ばれ称賛され、多数のメディアに取り上げられ、それだけでも増長の危険が大いにあったのに、しかもそこにモテ期が重なってしまったのである。二股三股を十倍する規模の、性に奔放な日々を翼さんはすごした。けれどもそれがある種の勢いとなり、生命力に溢れる斬新な作品を止めどなく生み出してゆく原動力になったというのだから、人はわからない。富と名声と見目麗しい大勢の男達を手に入れた翼さんは、箍の完全に外れた10年を生きたという。
だがそれは突如、終わりを迎える。良心の欠片もなく弄び、人間性の欠片もなく捨てた男性が翼さんを郊外の倉庫に呼び出し、目の前でガソリンを被り焼身自殺したのだ。翼さんはその一部始終を、椅子に縛り付けられた状態で見た。またそのさい、仕組みが判明していないことも起きた。男性は火だるまになりつつも一か所に留まったため、倉庫や翼さんに火が燃え移ることはなかった。また翼さんが縛り付けられていた椅子も床に固定されていて、男性との距離が1メートル半未満になったことも無かった。にもかかわらず翼さんが発見されたさい、翼さんの右頬が酷く焼けただれていたのである。高額の整形手術をすれば化粧で誤魔化せる火傷痕にできると医者に言われたが、翼さんは手術を受けなかった。全身火だるまになりながらも復讐の眼差しを最期まで自分に向け続けた男性を忘れないため、前世の翼さんはそれを選んだという。
話は前後するが、翼さんはヨーロッパに帰って来てからも薙刀の自主練を続けていた。体型維持等の美容目的もあったがそれより、練習中に下りてくる武道特有の超感覚を失ったら、自分固有のフラワーアレンジメントの感性も失ってしまうと直感していたらしいのだ。その自主練を翼さんは焼身自殺事件後、足腰立たなくなるまでするようになった。もう二度と、性欲に振り回されたくなかったからだ。事件による心理的外傷もあったのか限界ギリギリの訓練を続けている限り、性欲と無縁の日々を過ごせたという。
五年後の四十歳の冬、日本から小包が届いた。差出人は、薙刀範士。小包には手紙と、薙刀の秘伝と、範士が独自に編み出した武道理論及び訓練方法が入っていた。手紙には、翼さんの実力が内弟子の末席に届いた様子を夢に見たことが綴られていた。よって秘伝と範士独自の武道理論及び訓練方法を、生前の形見分けとして送ってくれたのだそうだ。矢も楯もたまらず日本へ向かった翼さんは、臨終間際の範士との会話を叶えることが出来た。「人々の役に立ち、今生中に罪を償いなさい」 範士のこの言葉に、命尽きるまで従おう。前世の翼さんは、そう固く誓ったという。
帰国後、フラワーアレンジメントの仕事を再開した。事件前の待遇は当然受けられず、料金も最低金額しかもらえなかったが、仕事を楽しいと思えた。作風が一変していたこともあり仕事は徐々に増え、必要最低限の生活を賄えるようになると、それを超える収入はすべて寄付した。仕事を再開して五年が経つころ弟子の希望者が現れ始め、六十代半ばで亡くなる寸前まで指導に励んだ。範士独自の訓練の賜物なのかは定かでないが、六十代半ばになっても四十代序盤の容姿を保ち、肉体年齢は二十代半ばだった翼さんの死因は、洪水による溺死。死の間際、火とは真逆の水に包まれて命を終えようとしていることへの疑問だけが、翼さんの心を占めていたという。そして、
「ふと気づくと、白一色の空間に浮いていたんです。翔さんと、同じですね」
真っ赤な夕日に右頬を染め、翼さんは微笑んだ。赤く染まった右頬に前世の火傷を、火傷のない左頬にあの天の川を幻視した気がした俺は、胸の激痛に耐えつつ訊いた。
「翼さんの白の戦闘服は、その世界が由来とか?」
「はい、そうです。白の戦闘服を私的に着用したい理由を、天風家のメインAIを通じてマザーコンピューターに伝えたら、条件付きで許可してもらえました。条件は二つあり、一つは同じ白一色の世界を体験した人以外に、白の戦闘服の由来を原則話さないこと。もう一つも例外を認めてもらえる原則で、由来は複数の人に話しても良いが、スキルを選んだ場面についてはただ一人のみに話すことです。ダメもとで『二つ目の条件のただ一人は、どのような人なのですか』と質問してみたら、その時の一度きりですが、白光が眼前に現れました。マザーコンピューターが白光として人々の前に現れることは、秘伝として天風五家で語り継がれています。でも白光が、母神様として脳裏に映ることは聞いていませんでした。生母を知らない4歳児だったからでしょう、私は正座し『初めまして母上』と挨拶していました。脳裏に映る母神様は母親の笑みを浮かべるだけでしたが、返答のイメージを受け取ることが出来ました。そのイメージは、生涯唯一の男性。それではスキルを選んだ場面を、翔さんにお話しします」
白状すると俺はその寸前まで、初めて母さんに怒っていた。なぜその一度きりしか翼さんの前に現れなかったのかと、理不尽な怒りを覚えていたのだ。しかし今更の極みだけど、俺は愚か者。「生涯唯一の男性」との言葉が耳に届くや、ことの重大さに怯んだ俺は、母さんへの怒りを含む何もかもを宇宙の彼方へ蹴り飛ばしていたのである。それによって生じた一瞬の意識の空白を突き、翼さんは明かした。
「翔さんの白の世界と同様、私の白の世界にも、スキル群が二つありました。一つは、女としての人並みの幸せを選んだ時に得られるスキル群。そしてもう一つは、前世の最後の償いとして女の幸せを放棄した時に得られるスキル群でした。スキルは言うまでもなく、後者の方が優秀でした。私は迷わず、後者を選ぼうとしました。すると、声が聞こえたのです。『後悔するぞ』と」
目をギュッと閉じ歯を食いしばり拳を握り締める、二度目の翼さんが隣に現れた。しかし二度目だからか、前回の半分に満たない時間で翼さんは続きへ移った。
「私は声に応えました。『後悔は前世で無数にしました。今更一つ増えようと、どうという事はありません』『そうか、ならばせめて教えよう。どちらの人生を選んでも、幸せな臨終がそなたに訪れる。安心しなさい』 感謝を述べ、私は後者を選びました。そして今、知りました。前世の後悔をすべて合わせても、今この胸にあるたった一つの後悔に、敵わないのだと」




