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そうやって黙々と歩を進めること5分。
「できれば前を向いたまま聞いてください」
左隣から翼さんの声がした。「うん」とだけ答え、翼さんの足音に耳を澄ませる。地を蹴る後ろ足の奏でる音に張りが無くなったのに合わせ、俺も歩行速度を落とした。「前を向いたまま、歩く速度を揃えてくれるんですね」「女の子と並んで歩くなら普通だよ」「翔さんってホント、冴子さんに聞いていたとおりの人ですよね」「あはは、今度はどんなワケワカンナイを聞かせてくれるのかな?」「前世も今生も恋人すらいなかったはずなのに、優し過ぎる女の敵に度々なるワケワカンナイ迷惑男だから注意しなさいよって、冴子さんは溜息交じりによく零していました」「ヒエエッ、冴子ちゃんゴメンナサイ~~!!」 反射的に立ち止まり腰を直角以上に折った俺の後頭部に「ふふふ、大丈夫ですよ」との声が降り注いだ。翼さんが意図的に冴子ちゃんを真似たその声に解析不可能な感情が湧き上がってきて、少なからず戸惑ってしまう。そのどちらを、つまり解析不可能な感情と大きな戸惑いのどちらを察知したかは定かでないが、
「溜飲が少し下がりました」
嘘ではないと思わせる声が届いた。だが安堵したのも束の間、俺に合わせて足を止めてくれていた翼さんに、歩き出す気配が生じる。俺は上体を勢いよく起こし翼さんの横へすっ跳び、再び並んで歩き始めた。急ぎに急いだその様子に機嫌を良くしたのか、隣から聞こえてくる足音に、今朝の瑞々しさをはっきり感じた。
俺と翼さんは今日、職業訓練校の駐車場で正午に待ち合わせたのではない。翠玉市の駐車場で午前9時半に待ち合わせ、観光に1時間弱を充て11時にお昼を食べてから、職業訓練校にやって来たのだ。約束の時間がまだ朝と十分呼べる時間だったこともあり、緑の多い駐車場には瑞々しい気配が漂っていた。その瑞々しさを1とするなら、俺を見つけて手を振り駆け寄って来た翼さんのそれは、どれくらいの数値になるだろう? どんなに少なく見積もっても桁の一つ多い10にしないと釣り合わないな、と今朝は思ったものだ。その時の瑞々しさを、あれから8時間ちょい経った夕刻の今、翼さんは取り戻したってことだね。年頃娘の心の中は分からねど、この足取りなら案じる必要はないだろう。安堵した俺は、リックリックと足並み揃えて暫し歩いた。のだけど、
「えっと翼さん、時間があるならあのベンチに座って、少し話さない?」
リックリックだったとはいえ、無言のまま校外の駐車場に着いてしまったのなら話は別。翼さんが「できれば前を向いたまま聞いてください」と俺に請うてから、既に15分が経過していたのだ。しかも駐車場を視野に捉えた辺りからリックリックも無くなっていったとくれば、ベンチに誘うのは必須となる。「少し話さない?」との提案にコクリと頷く翼さんを視界に捉えるや、俺はベンチにすっ跳んで行った。この星の駐車場は小公園も兼ねるため緑が多く、それは嬉しいのだけど油断すると、虫の這うベンチを女性に勧めることになる。幸い俺は目が良いので鈴姉さんと小鳥姉さんに虫ベンチを勧めたことはないが、「「注意するのよ!」」と二人に厳命されていた。それを思い出しつつ目を皿にしてベンチをチェックし、自分の座る場所を掌でひと撫でする。掌に微量の埃が付いたけど、これくらいなら問題ないはず。翼さんの座る場所を凝視しても、埃の量に多寡は見られない。うん、及第点でいいだろう。俺は安心し、翼さんにベンチを勧めた。俺を信頼してくれているのか俺以上に目が良いのか、翼さんは躊躇なく腰を下ろす。次いで俺を、まじまじと見つめた。
「翔さんが自分の座る場所だけを掌で撫でたのは、なぜですか?」「埃の有無の確認とはいえ男が直前に撫でた場所に座るのは、嫌かなって思ってさ」「ハンカチで拭かなかったのも、女性への気配りとか?」「服装や服の色によってはハンカチで拭くけど、戦闘服を着ているのにハンカチを使ったら、気配りが重すぎて辟易させるかもしれないからね」「そういうのを、どうやって身に着けたんですか? 前世とか今生とか大雑把でいいですよ」「・・・改めて考えたら、前世の孤児院だったよ。幼い子たちの世話を通じて、自然と身に付いたみたい」「男の子は翔さんのお陰で優しい男性になり、女の子は翔さんのお陰で優しさに加えて、男を見る目を養えた・・・とか?」「買い被りだよって言いたいとこだけど、弟や妹たちは全員、幸せな家庭を築いてさ。結婚相手も俺のことをお義兄さんって呼んでくれたし、子供達も伯父ちゃんって慕ってくれた。翼さんの言うとおりだったら、嬉しいな」
母さんによると、親の記憶のない弟や妹たちが理想の親になれたことに、俺は役立ったらしい。可愛かったから可愛がり、世話したかったから世話しただけなのに、そんなふうに幸せが増えていくのは、創造主が宇宙をそう創ったからなのだろう。この季節のこの時間帯に日本でよく聞いたヒグラシの鳴き声を耳が捉えた、そんな気がした。
「私はこんな性格だから、さっき小松さんと若林さんに言ったように、友人がいないんです」
「こんな性格って、翼さんは変な性格じゃないよ。そうそういつかきちんと伝えなきゃって思ってたんだけど、翼さんは出会ったとき、自分のことを不遜な性格みたいに言ってたよね。実際タメ口で、翼さんは冴子ちゃんが被るからタメ口でも俺はまったく構わなかったんだけど、ですます調にいつの間にか変わっていた。小松さんと若林さんにも年長者への言葉遣いを心がけていたし、失礼な態度も一度もしなかった。俺の知っている限り翼さんは不遜じゃないし変な性格でもないって、断言するよ」
俯いた翼さんは目をギュっと閉じて歯を食いしばり、拳を握り締めた。木陰を抜けて来た涼風が、右頬をそっと撫でる。ふと脳裏に、その風が左頬を撫でた世界が映った。その世界の俺は、左隣に座る翼さんの肩を抱いていた。翼さんは大粒の涙を止めどなく零し、泣き止む頃には星空が広がっていて、地球と似ているようで似ていない天の川を二人で静かに見つめていた。脳裏にはっきり映ったその世界は星空で終わったが、漠然としたイメージなら数十年続いた。その最後、大きなお腹を愛おしげにさする翼さんと俺は、こんな会話をしていたのだ。「あの天の川にちなんだ名前にしようと思うんだけど、どうかな?」「とっても素敵。頑張ってねあなた」
なぜ風は、誰もいない右側から吹いたのだろう? 左側から吹き、清涼さと甘やかさを兼ね備えた香りを、なぜ俺に届けなかったのだろう?
わからない。それはわからないけど・・・・
「翼さん、いくら若いと言っても、そんなふうに力いっぱい目を閉じたら皺になっちゃうよ」




