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その後、鈴姉さんがお花を摘みに行った。好機と思い、妊婦さんについて小鳥姉さんに尋ねてみる。すると、
「大切な姉を案じる弟の顔になっている翔君を見られないのは、少し可哀そう。機会があったら、次は鈴音にも見せてあげてね」
小鳥姉さんはそう言って、俺の頭を再度ポンポンした。そしてこの人に訊いて良かったと、俺に心底思わせてくれた。
小鳥姉さんによるとアトランティス人と地球人は、妊娠時の生活に天と地ほどの差があるらしい。「時間がないから箇条書きふうに挙げていくよ」との前振りによって話された情報には、天と地の開きが確かにあった。この星の妊婦さんに、悪阻はない。匂いや食事の好みが急に変わることもない。転倒の危険は事実上皆無。戦士養成学校の卒業生は足腰が強く、臨月間近になっても歩行に苦労しない。ないない尽くしなため、妊娠ストレスもさほどない。ただし妊娠期間は、地球人の約二倍の1年半。その1年半で骨盤が若干広がるため、出産の苦痛も遥かに少ない。「もう産まれちゃったのって、思わず本音を洩らしたくらいだったの」と、小鳥姉さんは最後に笑いを取って話を終えた。確かに天と地ですね、と同意した俺に小鳥姉さんはしかし、憂いの際立つ表情をした。
「翔君、アトランティス人の脳の体積を知ってる?」「常識に疎い俺でもそれくらいならなんとか。男が2000cc、女が1900ccですよね」「正解。女は男の95%の大きさね。では地球人は?」「しばしお待ちください。語呂合わせを思い出します」
女と男に脳の大きさの差あれど、性能に「差異無し」だったはず。でも日本語の発音を思い出すの、そろそろ難しいな。差異無しは3174、女の上二桁は11で男の上二桁は12だったような?
「女が1131cc、男が1274ccかな? どわっ、地球人の脳ってこんなに小さくなっていたんですね!」「そうなの、3分の2にも満たなくなっているのよ。そしてそれは、出産が命がけの大仕事になった主原因でもある。アトランティス人の出産が楽というより、地球人の出産が困難になってしまったのね。推測可能かな?」「むむ・・・」
本来なら普通意識でじっくり考察したい案件だけど、今は時間がない。明潜在意識に考察を依頼して心を無にしたところ、胎児が産道を通過するCG映像が蘇った。頭蓋骨の結合を外して頭を細長くし、肩も脱臼させて産道を通過したはず・・・・ああなるほど。と推測を得られて油断したのか、口を突いたのは一見無関係な知識だった。
「小鳥姉さん、ガリア戦記を覚えていますか?」「これでも前世は侯爵令嬢だから覚えているわ。さしずめ、現ドイツ地方の女戦士たちにジュリアス・シーザーが驚いた件かな」「おさすがでございます、侯爵令嬢」
古代ローマの兵士がモヒカンのような飾りを兜に着けている理由は、体の小ささを敵に侮られないためだ。これは裏を返すとローマ人は自分達より背の高い民族に慣れていたという事なのだが、ドイツ地方での戦いでは驚きを禁じ得なかったという。男女の戦士に体格差は無くどちらも1メートル90センチほどもあり、髭ボウボウの女戦士も珍しくなかったそうのである。ガリア戦記のその箇所と、現代人より大きな脳を持っていたクロマニョン人と、「地球人の脳がここ1万年で25%以上小さくなっている」という生物学的発見の三つを基に考察すると、ある仮説が立った。それは・・・・
「白人種のアトランティス人の直系子孫はクロマニョン人、そしてシーザーの時代にはクロマニョン人の血を色濃く留める人達が現ドイツ地方に多数生き残っていた。女性でも1メートル90センチの長身に恵まれたその人達の骨盤は大きく、現在の地球人より出産が楽だったと推測される。しかし現代人は体が小さく、出産に伴う母体の命の危機を回避するためには頭部を、つまり脳を小さくするしかなかった。こんな感じでしょうか?」
「まったく、私のいない間に二人だけで興味深い話をされると、寂しいのだが」
お花摘みから帰って来た鈴姉さんが、俺の頭をポンポンした。日本でいうところの中学一年生に俺はなっていても、鈴姉さんと小鳥姉さんはどちらも190センチ近くあるため、ポンポンされても心のダメージは無に等しいと言える。よってニコニコしていたところ小鳥姉さんが席を立ち、「私も行ってくるね」との言葉と共に両手で俺の頭をポンポンしてから、トイレの方角へ消えていった。スポーツセンターにこうして連れて来てもらったんだし今日は目をつぶるか、などと心的ダメージが無いにもかかわらず有るかの如き演技をしていた俺に、鈴姉さんが予想外の顔を向けた。真面目話を切り出す真面目な表情を、していたのだ。
「外交官だった私は、上海のフランス租界にやって来た白ロシア人達の生活の苦しさを、諜報員経由でほぼ正確に知っていた。翔はどうかな?」
「いえ、生活が苦しかったことを今初めて知りました」
そうかと頷き、鈴姉さんは瞑目する。十秒ほど経って再び見開かれた瞳に、固い決意が込められているのを俺ははっきり感じた。
「私達の夫は戦争を始めとする社会悪を克服した、地球より数百年進んだ星からの転生者でな。小鳥の責任感が悲惨な前世によって作られたことを、達也君は字面でしか理解できないようなのだよ。翔、頼む。小鳥の理解者になってあげてくれ」
もちろんですと全身で頷いた俺に鈴姉さんが早口で語ったところによると、上海租界にやって来た多くのロシア人女性達にとってお金を得る方法は、身を売ることだったという。小鳥姉さん達はそれを免れたが、レストランが傾けば自分達もそうなる。よって小鳥姉さんは幼いながら必死で働き、中国人の子供達との交友も、鈴姉さんの見立てでは侯爵令嬢としての社交の場だった。地元の名士かつ裕福な中国人家族と仲良くなることで、レストランの売り上げに貢献しようとしたのだ。社交のみならず調理技術も懸命に磨き、レストラン経営は成功するも、戦争によってモロッコへ避難せざるを得なくなった。そのさい小鳥姉さんの父親は長男ではなく、末娘の小鳥姉さんをレストランの店長にした。家族と家臣を守る責任感が最も強かったのが、小鳥姉さんだったからだ。小鳥姉さんはそれに見事応えレストランを成功させ、経営手腕を認められ社長になった。敏腕女社長としてバリバリ働き責任感は益々強くなっていったが、小鳥姉さんの元々の性格は、騎士に守ってもらうことを夢見る可愛い乙女なのだという。その元々の性格を達也さんはきちんと感じ取り、仲良し夫婦になれている。だが巨大な責任感の裏に潜む前世の悲惨な社会を、優れた星の転生者の達也さんは表面的にしか理解できない。二カ月に一度しか帰宅しないのは、その表れの一つと言えよう。という霧島夫妻の複雑な背景を、俺は今この瞬間まで知らなかった。なのに達也さんと小鳥姉さんが二人きりで過ごす時間を、俺は率先して作り出そうとする。小鳥姉さんが俺に優しくする理由の一つは、それなのだそうだ。
「翔、よく聴きなさい。祖国の暮らしや文化を表面的な知識に留めることは、戦場へ赴く動機を貧弱にすると私は思う。祖国への愛や祖国を守ろうとする使命感は、生きるか死ぬかの瀬戸際において巨大な力になると私は感じるのだ。幸い次の戦争は、約90年後。書籍や映像作品を通じて文化や民族性を知り、そして社会と実際に関わることでそれを生きた知恵にし、愛や使命感に昇華させてほしい。翔、どうか・・・・」
鈴姉さんは言葉を切り、お臍の下あたりに両手を添えた。
「次の戦争の前に、私はこの世を去る。この子と、この子が生きていく社会のために、私は何もできないのだ。でも翔は違う。翔、どうか私の代わりに、この子とこの子が生きていく社会を、守ってあげて欲しい」
「翔君、私からもお願いね」




