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夕食時、勇は驚くべきことを話した。バク転からの伸身宙返りのような縦回転の三次元運動は、空間認知能力を大幅に向上させることを、勇は感じ取ったそうなのである。空間認知能力の向上がもたらす恩恵は二つあり、一つは自分とゴブリンの戦闘を第三者視点で眺められるようになること。そしてもう一つは、輝力造形スキルの精度向上だ。一つ目について、勇はこう語った。
「人は左右の目の遠近感で三次元を三次元として捉えているにすぎず、目に映っているのは本質的に、二次元の平面映像でしかない。しかし空間認知能力が向上すると、ゴブリンの三次元立体映像を頭の中に描けるようになる。その空間に自分を置いたところ、彼我の戦闘を離れた場所から客観的に眺められるようになった。これは、とんでもない利点だ」
そう言われて俺も頭の中に思い描いてみたところ、初めて気づいた。3歳の4月3日から軽業に励んできた俺は意識しなかっただけで、戦闘をそのように行ってきたのだと。
勇は続いて、二つ目をこう説明した。
「翔が流麗な防風壁を瞬時に造れる理由の一つは、空間認知能力が優れているからだと思う。空間のこの場所をこの形にして、別の場所は別の形にして、というように、翔は無意識に処理しているんだな」
そう言われて俺も頭の中に・・・を繰り返したところ、これまた初めて気づいた。まさしく勇の言うとおりの方法で、俺は防風壁を造っていたのだ。
その後の話し合いにより勇はしばらく、高さと速さを求めない軽業を行うことになった。その代わり「空間認知能力の向上」と「丁寧緻密かつ無音」の二つを重視し、訓練計画を組むことにした。
「俺、イモムシから蝶になる気がする」
遠い目をしてそう呟いた勇の瞳は出会ってから一番、キラキラ輝いていた。いやはや何とも、親友として嬉しい限りだ。
夕食後、勇に負けていられないとばかりに輝力圧縮勉強を始めようとしたところ、美雪に待ったをかけられた。「私を信じて最初は4倍圧縮にして」と、涙目で請われたのだ。否などあろうはずなく美雪に従った1時間後、俺は机に突っ伏していた。突っ伏す以外に何もできぬほど、精神的に疲れていたのである。美雪はそれを、こう説明した。
「人は忘れがちだけど、脳は思考の中枢であると同時に、運動制御の中枢でもあるの。でも両者の比率は、今何をしているかで目まぐるしく変わる。例えば、並ゴブリン1体との戦闘における二つの比率は翔の場合、1対1000ほどの開きになる。『敵の攻撃をこう避けて白薙をこう振る』系の思考を1とするなら、高速高精度で動き続ける体の制御は桁の三つ多い、1000になるのよ。合宿の超長距離走で翔がランナーズハイにすぐ入れたのにも、運動制御が関係している。真っすぐ走ることはゴブリン戦に比べて、運動制御が比較にならないほど楽。負担ゼロとも言える状態だったから『走るって楽しいヒャッハー』に、脳がすぐなれたのね。でも、勉強は真逆。という訳で、そろそろ頭を働かせてみる?」
「うん、整理運動のつもりで考えてみるよ。勉強は椅子にじっと座ってするから、運動制御は負担ゼロというか、使用量ゼロに近いのだと思う。よって勉強中の脳は、思考に能力を全投入している状態がひたすら続く。しかも何となくだけど、最後の方は時間が2倍に伸びるのではなく、4倍に伸びていた気がするんだよね。集中しすぎてあまり覚えてないけど、どうかな?」
「半分だけ正解ね。時間が4倍になったのは当たっているけど、集中力は4倍以上になっていたの。説明できそう?」
「えっと、輝力を圧縮しなくても集中力を上げるのは簡単。輝力の流入量は1倍のままなのに、集中力だけを2倍にできるような感じだね。だからまったく同様に、輝力の流入量を4倍にしたら集中力は8倍になっちゃいました・・・とか?」
「ふふふ、翔はもう眠いのかな?」「うん、眠くなってきた」「では酷だけどすぐ立ち上がって、寝る準備をしましょう」「は~い」
俺はフラフラになりながらも、ベッドに辿り着くことがどうにかできた。だが横になり数十秒経つと、なぜか眠気が消失した。美雪にその旨を伝え相殺音壁を展開してもらい、中断された集中力について問うてみる。美雪は各種センサーを作動させ俺の眠気が去ったのを確認したのち、問いに答えてくれた。
それによると、俺は集中がかなり得意らしい。集中力を3倍にするのは日常にすぎず、気合を入れると5倍や7倍も容易く成すという。さっきの勉強では遅れを取り戻すべく最初から集中力5倍を発動していて、間を置かず7倍へ引き上げたそうだ。その状態で2倍に伸ばされた時間を過ごしたため、集中疲れなる状況に陥ったとの事だった。
「ってことは輝力の流入量を増やしても、集中力に影響は出ないのかな?」
「集中力の低い人ほど影響が出やすい、という傾向ならあるわ」
「何となく分かるかも。普段ボンヤリしている人は輝力を増やすとシャキンとするけど、いつもシャキンとしている人は、シャキンとしたままみたいな」
クスクス笑い、美雪が去っていく。寂しさを紛らわせるべく考察を続けたところ、輝力圧縮64倍で集中力も自動的に64倍になったら脳が焼き切れるな、との単純な見落としに気づいた。意識の増幅は松果体のオスミウムが担当し、オスミウムの活性率は意志力に比例する。輝力の増加は疑似的な意志力増加かもしれず、それが集中力の低い人ほど影響の出る理由なのかもしれない。この仮説を区切りとし、集中力に関する考察を終えた。
それ以降は、舞ちゃんのメールに時間を充てた。冴子ちゃんに「合宿中はメールのやり取りすら無理になる子が多いの」と教えられていたので一時的にメールを休むことを事前に伝えていたが、今日は帰って来た日の翌日。翌日になっても休んだままなのは、友人としてさすがにマズイ。よって合宿中に送られて来ていたメールへの返信と、合宿を俺が個人的に振り返ったメールの、計二通を舞ちゃんに送った。といっても舞ちゃんにとって今日は合宿初日だから、睡魔で読めないと思うけどね。
その後、鈴姉さんのメールに取り掛かった。それを送信し終えた丁度そのとき、驚くべきことに舞ちゃんの返信が届いた。急いで目を通したところ、初合宿なのに舞ちゃんはあまり疲れていないらしいのである。それを絶賛するメールをすぐ書こうとしたが、なら俺の記録はどうなんだとの疑問が脳をよぎり、実際舞ちゃんの返信は俺を褒める言葉で溢れていたため、メールは書かずじまいだった。ただ返信の終盤に「私も頑張る」系の言葉が連なっていたのは素直に嬉しく、結局俺はニコニコ顔でそれを読み終えた。
舞ちゃんのメールを読み終わったタイミングで、今度は鈴姉さんの返信が届いた。こちらも絶賛まみれで困ってしまったけど、追記されていた「6月1日は家に来る? ううん、来てほしい。5月1日は気を遣わせちゃってゴメンね」にはまいった。つい数十日前まで6年間一日も欠かさず顔を合わせていたことが思い出され、胸が痛んで仕方なかったのだ。その痛みを、瞑目し胸に手を当てて精査したところ、俺は鈴姉さんを最後の肉親と感じているらしい。ママ先生が生きていたら勇と飛行車をレンタルして会いに行けたのにな、との想いも重なった俺は今日の最後を、布団の中で泣いて過ごしたのだった。