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今朝は7時半に出発し、午前11時半に往路の500キロを走破。30分間休憩して正午に復路を走り始め、午後4時前に合計1千キロを走り終えた。昨日より20分以上早く、自由時間に入った感じだ。これなら夕飯まで2時間寝て、食べ終わるなりまた寝るっていう線もあるかな? と考えつつ食堂に足を踏み入れた俺の耳に、
「空翔さん、ゼリー配布所へお越しください」
管理AIの声が届いた。機嫌良さげなその声に、何の疑いも抱かずゼリー配布所へ足を向ける。クスクス笑っている気配が伝わってきて、俺はスキップさながらの歩調になった。優しそうな年上女性にニコニコされたら、思春期男子などこんなものなのである。
「翔さんが6年前にマザーコンピューターの講義を受けた際、私も出席させてもらいました。こうしてお会いし、実際にお話しできて光栄です」
「そうだったんですか!」
立ち止まりかけた俺を管理AIは優しいお姉さんとして窘め、「続きはまた今度。今は特別支給のゼリーを受け取ってください」と促した。年上女性に諭されただけで服従せずにはいられない性格なのに、その上ゼリーまでくれるとなれば、俺はワンコになるしかない。プロペラ化した尻尾に推進力を得たかのごとく早歩きしてゼリー配布所に着いた俺に、管理AIが女性の3D映像になって特別規則の説明をした。
「1千人で初となる1千キロ走の合格者になり、その功績をもって仲間達のやる気を促進した生徒へ、教官の承認なしに二食目のゼリーを配布する権利を私は有しています。合宿所の管理AIとして、翔さんを適合者と判断しました。どうぞお受け取りください」
「謹んでお受けします。ありがとうございます」
敬礼してゼリーを手に取り、腰のポケットに入れて再度敬礼する。お姉さんはニッコリ笑い、敬礼を返してくれた。こうなったらもう、お姉さんと会話するしかない。ゼリーという大義名分もあることだし、俺は最寄りの椅子に腰かけた。お手上げの仕草をして、お姉さんも隣の席に座る。ポケットからゼリーを取り出し、「いただきます」と感謝して口に含む。天上の美味に恍惚となったのも束の間、たいそう苦労しつつ咀嚼を40回する俺に、お姉さんは最初こそ上品な笑みを浮かべていたが、最後は腹を抱えて笑っていた。会話は無くともお姉さんと友達になれた気がして、俺は大満足だった。
お姉さんに敬意を表してゼリーと呼んでいたが、やはり野戦食と呼ぼう。想定外の野戦食を胃に納められたので夕食は摂らず、昨日と同じく心ゆくまで寝ることにした。二度目だからかさほど苦労せず入浴を終え、午後4時半に就寝。8時間後の午前0時半に目覚め、総菜二倍の特別食を今夜も堪能した。夕飯を食べていたらこれを逃していたのか、8時間寝て正解だったと、俺は胸を撫でおろしたものだ。
昨日より若干長い4時間半の睡眠を経て、5時40分に起床。野戦食と特別食の相乗効果か、今朝は昨日より元気みたいだ。トイレに向かう道すがら管理AIのお姉さんにトイレ争奪戦の有無を尋ねたら、このままでは二日連続の事態になると憂い声で即答された。準筆頭の権限で、マットレス屈折起床を直ちに要請。要請後に教えてもらったところによると、一昨日の訓練の疲労が蓄積していたこともあり、昨夕の皆の疲労度は上限ギリギリだったという。よって999人全員が可及的速やかに就寝するも、10時間ちょいの睡眠では自発的な目覚めには到底足りなかったそうだ。それどころか5時40分の目覚ましで起きた生徒は一人もおらず、全員が5分後に再度鳴るスヌーズ機能を使ったため、
「あやうく二日連続になるところでした」
お姉さんはそう零し、大きな溜息をついた。といっても溜息をついたのは超山脈登山中の、休憩時なんだけどね。
超山脈登山中の休憩時から3時間さかのぼった、午前6時半。
朝食を終え霧島教官を訪ね、超山脈登山の許可をもらった俺は、午前7時半に登山を開始した。美雪との打ち合わせどおり輝力圧縮は使わず、体に輝力をまとわせるのみに留め、超山脈の斜面に足を踏み入れる。傾斜角30度の斜面を実際に登ってみた速度は、美雪のシミュレーションと寸分たがわない時速6キロだった。山頂までの道のりは第五山脈南麓の場合、直線距離で15.2キロ。垂直飛び1メートルの脚力を保持している限り、超山脈は一直線で縦断可能と言われている。標高6千メートルまでは70センチの垂直飛びで十分らしく、休憩に適した大岩もあることから、その大岩を第一目標にして10キロの道のりを登っていった。単純計算での所要時間はたった1時間40分でも、高山で計算どおりになるなどあり得ない。酸素濃度の低下が、その最大理由だね。
当たり前だけど、標高が高ければ高いほど空気中に含まれる酸素は減る。呼吸によって得られる酸素量が3分の2になるのは、標高3000メートル。半分になるのが、標高5800メートルだ。この数値だけでも顔が青ざめるのに、「血中酸素濃度の減少率」は、気圧の減少率よりもっと大きい。単純計算では標高3000メートルで半分以下、標高5000メートルで3分の1以下という、驚くべき数値になるのである。
とはいえこの数値は順化が、つまり「生物の環境適応能力」がまったく働かなかった時の数値でしかない。アンデスの標高4000メートルにある人口100万のラパスという都市が、順化の好例だろう。長距離走者が高地トレーニングによって低地でのタイムを短縮するのも、順化の応用と言える。ただしこれらは、一般的な登山には適用されない。順化が間に合わず、高山病を招いてしまうんだね。傾斜角30度の斜面を時速6キロで一直線に登ったら、6千メートル地点で高山病を発症していない確率は計算上、限りなく0%に近いとのことだった。が、
「アンタがここまで変態だったとはね」
「ちょっと冴子ちゃん、せめて変人って言ってよ」
との会話から窺えるように、俺はピンピンしていた。いやはやホント、神話級の健康スキル様々である。
といっても神話級の健康スキルより、体の意識と友達になったことの方が、高山病を遠ざけたと俺は考えている。昨夕の就寝直前、体に「お休み~」と声を掛けたら「「「「お休み~」」」」と返してもらえた。それもあり今日の深夜、ミネラル錠剤の服用時に「明日の登山で役に立つ鉄を摂取するよ」と語り掛けたところ、体とのテレパシー会話がぼんやり成立したのだ。ぼんやりテレパシーを文字にすると、こんな感じになるだろう。
「登山って?」「巨大な山がすぐそばに聳えているよね、明日あれに登るんだよ」「鉄が役に立つの?」「鉄は、血液の中で酸素を運ぶ物質。酸素はこんなふうに、肺で取り入れるね」「昨夜もその鉄を大量にとったよね」「うん、摂ったね」「何日か前から食事に鉄が多く含まれるようにもなったよ」「そういえばこの合宿所も、標高1千メートルの場所にあるんだった。長距離走対策として、鉄の多い食事に変えてくれていたのか」「今からまた寝る?」「うん、寝るよ」「じゃあ明日の朝までに、血液の中の鉄を増やしておくよ」「そりゃ助かる、ありがとう」「「「「どういたしまして~」」」」
こんなテレパシー会話を、深夜の特別食後に体と交わしていたのだ。目覚めた時は血中の鉄の増加をまったく感じなかったが、登山直前に超山脈を仰ぎ見て深呼吸した途端はっきり感じた。酸素を血中に取り込む効率が、大幅に上昇していたのである。斜面を登りつつ、気圧が低くなることを体に話したことも、高山病予防に役立った。「この斜面を登るにつれ、気圧が低くなるよ」「気圧?」「空気が薄くなって、肺に触れる空気の圧力が減るんだね」「え~、圧力が減ると酸素を取り入れにくくなっちゃうよ」「むむ、そうだったんだ。ならこんなふうに肺に空気を押し込んで、圧力をかける呼吸を心がけるよ」「助かる、ありがとう~」 約束どおり圧迫する呼吸を続けたところ、気圧の低下に対抗できた。また体は独自の判断で、血中の鉄を少しずつ増やしてくれているようだ。かくなる理由により標高6千メートルでこうもピンピンしているのは、神話級の健康スキルもさることながら、体の意識が協力してくれたお陰と俺は考えている。
という体との交流を休憩中の話題として提供したところ、想定外の事態になった。
「初めまして、翔の体の意識さん。美雪です」「初めまして、冴子です」「初めまして、合宿所の管理AⅠです」「「「翔に協力してくれて、ありがとう~」」」




