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 地球の400メートルトラックの曲線部分には、直径75メートル80センチの円が採用されていた。その4分の1しかない円とはいえ、時速20キロの低速にもかかわらず、捻挫して失格になる生徒が少なからずいるという。俺はそれへ、こんな推測を立てていた。「教官や担当AIは怪我の原因を知っていても、あえて生徒に伏せているんじゃないかな」と。

 俺が思うに捻挫の原因は、減速しなかった事にあるのではない。20時間も真っすぐ走ってきた足首に横方向の力を突如加えたことが、捻挫の原因なのではないかと俺は考えている。ならば、どうすれば良いのか? こたえは簡単、


『横方向の力を突如加えるのではなく、時速20キロという低速を活かし、走りながら体をほぐせばよい』


 ということ。俺は心の中で「緩やかな波線で走るよ、驚かないでね」と、足首に語り掛けた。了解~との声が何となく帰って来たのを感じてから、左右に5センチ揺れる波線で走ってみる。たった5センチだったにもかかわらず、膝と足首とアキレス腱が「「「ッ!」」」と驚いたのを、はっきり感じた。やはり横方向の力を急に加えると、巨大な負担を体に強いるようだ。俺は時速20キロという低速を活かし、波線走行に体をゆっくり慣らしてゆく。神話級の健康スキルのお陰か、左右に1メートル振る波線走を、体は1分かからず楽しむようになった。という訳で、美雪に報告。


「美雪、見てのとおり曲線走に体が慣れた。このまま速度を落とさず、コーナーに進入する」

「了解。でも無茶だけはしないでね」


 陸上部員だった前世の記憶が蘇り、コーナーという語彙を思わず使ってしまった。けどそれへむしろ好ましさを覚えながら、曲線走へ移行。体を内側に傾けるや、4×100mリレーを走った前世がありありと思い出され、視界が瞬く間に霞んでゆく。でも走っているのは俺だけだし地面に小石とかも無いから、まあいいか!

 と開き直った俺は前世の青春に浸りつつ、コーナーを駆け抜けていったのだった。


 俺が今走っている5時間走ではない、1千キロ走の出発時刻は、午前7時半に定められている。その時刻に出発すれば、午後6時までに10時間半を確保できるからだ。しかし合宿初日の今日は、10時間半の確保は不可能。飛行車の移動時間もあって出発したのは、午前8時半だったからね。つまりどういう事かというと、合宿初日の5時間走で方向転換せずそのまま真っすぐ走り続け、合宿所から500キロ離れてしまうと、午後6時までに帰れなくなるという事。俺がさっき4時間で折り返したのは、こういう訳だね。

 そうこうするうち、折り返してから1時間が経った。空中をホバリングするドローンが気を利かせて、ゴールテープの3D映像を前方に映してくれている。その白いテープを、ありがたく切らせてもらった。と同時に上空の3Dくす玉が割れ「祝、5時間走合格!」の垂れ幕が宙を舞う。しかも、荘厳なファンファーレ付きでだ。正直いうと恥ずかしさが勝ったけど、仲間に捧げられた演出だったらどう感じただろうか? 合宿所で3年間走り続けて4年目に合格した仲間がくす玉とファンファーレで称えられたのなら、俺はその演出に深く感謝したはず。ならば、恥ずかしがってなどいられない。俺は笑顔で減速し、立ち止まり輝力圧縮を解いたところで美雪が現れた。それは手放しで嬉しくとも、


「おめでとう翔!」


 と抱き着いてきたのは、手放しとは言えない。だって俺の戦闘服、水分を抜いた汗の成分まみれなんだもん。


「ふふふ、翔はちっとも臭くないよ。臭気センサーの数値を見る?」

「ううん、いいよ。それより美雪、試験合格のために的確な訓練スケジュールを立ててくれたり、サポートしてくれたりしてありがとう。美雪がパートナーで、幸せだったよ」

「パ、パートナーだなんてそんな!!」


 美雪は俺から身を離し、真っ赤に染まった頬に両手を添え、一人でキャイキャイしている。可愛いなあと思いつつも、さすがに少し疲れた。俺は地べたに胡坐をかき、腰のポケットからゼリーを取り出す。座学によると、輝力圧縮を解いた5分後に、途方もない空腹が襲ってくるという。よってその前にゼリーを胃に入れるのが、必須なのだそうだ。地球の類似商品よりちょっぴり多い200グラムあるけど、ホントにこれで空腹を抑えられるのかな? ジャパニーズビジネスマンとして無数に摂ったウイダーインゼ〇ーを思い出しつつチューブを咥えて、容器内のゼリーを口に吸い入れる。その途端ヤバイと直感し、チューブを口から離そうとするも、離すためには莫大な精神力を消費せねばならなかった。けどどうにかそれを成し、口内のゼリーを40回咀嚼して嚥下する。そのとたん待ちきれないとばかりにチューブにむさぼり付き、前回と同じ4分の1の量だけを莫大な精神力を費やして口に含み、40回咀嚼して飲み込んだ。それをもう二回繰り返したところで、ゼリーの入った容器が空になる。地球の類似商品のようにゼリーが容器内に残っていることは無く、だがそれでもチューブを口から離せず、いやしく吸い続けた数秒後。やっと諦めがつき吸うのを止めた俺は、美雪に顔を向けて半ば真剣に訊いた。


「あり得ないって自分でも解ってるけど、ゼリーに麻薬なんて入ってないよね」


 そうなのだ、人類軍の野戦食ゼリーは、麻薬と言われても信じてしまうほど美味しかったのである。美雪の返答はもちろん「入ってないよ」だったが、続いて教えてくれた戦争に関する逸話は非常に納得のいくものだった。

 それによると野戦食が美味しいか否かは、兵士の士気を大きく左右するという。たとえば戦闘の合間の僅かな時間で摂った野戦食が美味しかった場合、たったそれだけで士気が激増するなんてことは、最前線における常識と言っても過言ではないのだそうだ。俺はまだ本物の戦場を知らないが、25時間ぶっ通しで走り続けた身として、美味しさに巨大な力があることなら全力で肯定できる。実際、あの麻薬のごとく美味な野戦食を胃に納めた俺は今、やる気の塊になっているからね。

 ということを美雪に聞いてもらいたくてならず「あのね美雪!」と語り掛けようとした俺は、最初の「あ」を発音するなり両手でへその下を抑え、顔を歪めた。猛烈な便意が、いきなり襲ってきたのである。そんな俺の状況を正確に知覚した美雪が「トイレならあるよ!」と右を指さした。素早く立ち上がり顔を右へ向けたところ、野戦用の簡易トイレが地面の上に設置されていた。輝力圧縮36倍を発動し、俺がトイレに駆け込んだのは言うまでもない。また駆け込んだというのも比喩ではなく、36圧で戦闘服を脱いでいる内にドローンが便器の周囲に3D映像を投影し、公衆トイレにしてくれていたのだ。大好きな女性がすぐそばにいる思春期男子として、ドローンの気遣いには感謝しかない。盛大な音をたてて大きい方をぶっ放している最中、「相殺音壁を展開しています。音も気にしないでください」との2D表示が眼前に映されたのなら尚更だ。俺は手を合わせつつ、ブリブリ音を思うぞんぶん轟かせていた。

 大きい方だけでなく小さい方も催したこともあり、トイレの時間は予想以上に長引いた。その時間を利用し、ドローンのAⅠがこの猛烈な便意について2Dで説明してくれた。


『胃に高栄養食料が入ったことを知覚し安心した脳は、便の放出を直腸に促します。加えて野戦食ゼリーには、消化器系を急速活性化する物質が含まれています。この試験を受けた生徒さんは全員、野戦食を摂取して数分以内に、猛烈な便意を覚えるようですね』


 俺は2Dキーボードを出し、十指を走らせた。


『だからトイレを事前に設置してくれたんだね。とても助かったよありがとう』

『それが私の仕事ですからお気遣いなく。翔さんの右壁に、更衣室へ繋がるドアを設けています。更衣室に洗い立ての戦闘服と下着を用意していますから、ご自由にお使いください。また野戦食を摂取した場所に、野戦シートを敷いています。身を横たえ、体を休めてくださいね』

『これぞまさしく至れり尽くせりだね。重ね重ね、ありがとうございます』


 とのやり取り中に、ウオシュレットが完璧な仕事をしてくれた。野戦簡易トイレにこれほど高性能のウオシュレットを装備するなんて、人類軍はなんて素晴らしい軍隊なのか。との感慨に浸りつつ立ち上がり、右隣の3Dドアを開ける。シートの上の籠に、洗い立ての戦闘服と下着一式が用意されていた。隣の空籠は、使用済の服用なのだろう。清潔な衣服を身に着け気分を一新し、更衣室の外に出る。教えられたとおり、野戦食を摂った場所にシートが敷かれていた。大満足し身を横たえ目を閉じた俺の耳に、美雪の声が届いた。


「出発まで残り21分50秒。何分前に起こそうか?」

「1分10秒前に起こして」

「了解、お休み翔」「うん、お休み美雪」


 20分の熟睡は、3時間の休憩に匹敵するとされている。それが具現化した未来を想像しながら、俺は眠りの世界へ旅立っていった。

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