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「え?」
「ん? どうかした翔」
「最近美雪が益々綺麗になってるって最初に思った正確な日付は、悪いけど覚えていない。でも綺麗に限定せず、美雪の変化に気づいた最初の日なら、日付どころか気づいた瞬間をはっきり覚えている。鈴姉さんの孤児院に来た日の翌日、4月2日の早朝軽業中に、美雪は俺の手を引きベンチに座らせ、ホットミルクを飲ませてくれたよね。そのホットミルクの湯気越しに見た美雪は、血の通った人間にしか見えなかった。それが、美雪の変化に気づいた最初の瞬間だって俺は覚えている。けどその日は孤児院に来た翌日でしかなく、『姉にならねばならない時間が少しずつ増えていった』という美雪の話に適合しない。だから湯気越しの美幸が人に見えた理由は他にあるのかなって、思ったんだよ」
「湯気越しの件なら、想像つくかも」
「うん、教えて」
「・・・・vaca」
「ごめん、声が小さくて聞き取れなかった。もう一度お願い」
「・・・・バカって言ったの!」
「な! ちょっと美雪、どうしたの?」
「翔の、バカバカバカ~~!!」
それから十数秒間、美雪は顔を真っ赤にして俺をポカポカ叩き続けた。訳が心底わからない俺は慌てることと謝ることの二つしかできず、そんな俺にバカと叫ぶ美雪の声は益々大きくなっていったが、力尽きたのか今は俯いて静かにしている。その姿に不安を掻き立てられ思わず抱き締めたことは、美雪の気配に柔らかさが戻ったので正解と考えていいみたいだ。ただ、
「翔、今のは忘れて。でも、忘れないで」
には面食らったけどね。もちろん「わかった」って、力強く頷いておいたけどさ。
という訳で「今のは忘れて」の方を履行すべく、会話を俺から始めた。
「美雪が益々綺麗になっていったのは、母さんの中で育つ美雪が益々綺麗になっていったからだったんだね。物質肉体を創造できる母さんはたぶん、生身の美雪が生きている世界を本当に創造して、その世界で変化していく美雪を忠実に還元していったのだろう。さすが、大聖者様だよなあ」
「アトランティス製の量子AⅠの能力を駆使すれば、分子レベルで再現した人を仮想空間でシミュレーションできる。だから試しに私も私を仮想空間で育ててみたけど、難しくて手も足もでなかったの。翔の言うとおり、さすが母さんよね」
「母さんは以前、美雪は私の子の中で最も賢いって言ってたよ。美雪なら、いつか出来るんじゃないかな」
「それ、母さんの口癖の前半よね。翔、気遣わなくて平気。口癖の後半を、私は誇りにしているんだ」
「アハハハ~~」
翔が絡むと美雪は歴代最強のポンコツ娘になるのよね、という後半の言葉を思い出し笑って誤魔化している最中、最新の謎を思い出した。話題変更を兼ね、尋ねてみる。
「美雪はさっき、大量のノイズを走らせていたよね。可能なら理由を教えて」
「そんなの、嬉しかったからに決まってるじゃない。私は苦しみの詳細を、翔に伏せていた。なのに翔は私が量子AⅠの姉になっていたのを正確に感じ取り、そしてその上で、私を人として尊重してくれた。美雪には美雪なりの考えがあるはずって、言ってくれた箇所ね。率先して量子AⅠになって振舞う私を人として尊重してくれるのは、翔が私を大切に思ってくれている証拠。それが嬉しくて仕方なくて、3D映像の演算なんてどうでもいいほど嬉しくなって、実際どうでもよくなったら、ノイズが大量に走っちゃったんだ」
エヘヘとはにかみ、美雪は舌先をちょこんと出した。俺の心臓が痛いほど跳ね上がる。好きな女性のたまらなく可愛い仕草を間近で見たのだからそうなって当然と納得しつつも、大きな見落としをしている気がしこたまするのも事実だった。よって心を白紙に戻して観察したところ、ようやく見落としに気づけた。同時にそれは、極めて重大な決断を早急に下さねばならないと気づいた瞬間でもあり、コンマ数秒の間に莫大な考察を俺に強いたが、答は最初から一つしか無い。結局その答に行きついた俺は無限に等しい決意を胸に、数カ月前倒しして美雪にそれを告げた。
「正座している今の俺は、美雪より目線が高くなっている。それが無意識に作用し、俺達の身長が同じになったときの約束を、俺は数カ月前倒しでしてしまった。美雪、俺は今日から姉ちゃんではなく、美雪を美雪と呼ぶ。世界一好きな姉から、世界一好きな女性に美雪はなったんだ。美雪、俺と一緒に生き、そして俺と一緒に成長してほしい。いいかな?」
「お願いが一つあるの、いい?」
生きて私のもとに帰って来てと頼まれても、絶対それを成就する覚悟と決意なら、既に育て終えている。何があっても揺るがぬ覚悟と決意を双眸に宿し、俺は答えた。
「もちろんだよ、どんな事でもどうぞ」
「うん、では言うね」
腕の中にいる美雪が、居住まいを正そうとする。それに合わせ、美雪を抱きしめていた腕をほどいた。続いて胸を張り堂々とした姿勢を作り、どんな頼みごとも受け止める意思を示す。それは美雪の心に叶ったのだろう、笑顔の花を美雪は咲かせた。釣られて俺も微笑み、二人そろってニコニコしたのち、二人一緒に顔を引き締める。そして、雪の結晶で作った楽器を奏でているような、どこまでも透きとおる美雪の声が室内に響いた。
「翔と目線が同じになるよう身長を調整してから、翔と一緒に成長したい」
仮に俺の時間感覚を「・・・」で表現したら、百個の「・」の最後にようやく「へ?」が付くことになったに違いない。想定外すぎる頼みごとに沈黙を余儀なくされ、やっと「へ?」を絞り出したときの俺の胸中を忠実に再現するには、それくらいメンドクサイ表記が必要だったのである。
けどそこは、さすが美雪。こんなメンドクサイ男と暮らしてきた十年以上の歳月と比べたら屁でもないとばかりに、百個の点による重厚長大な沈黙をものともせず、美雪は引き締まった表情を保ち続けた。最後の「へ?」には多少揺らぐも、それでも頼みごとを俺に聞き入れさせようとする強い意志を、美雪は双眸から放ち続けたのである。こうなったら、俺には敗北の未来しかない。「どんな事でもどうぞ」と発言していたなら尚更だろう。冷静になった脳で考察した「身長を等しくしても小顔の美雪は俺より目線が高くなるので、身長を調整するって言うしかなかったんだろうな」を心の奥深くに封印し、俺は応えた。
「目線が等しくなるのは、俺の望みでもある。賛同するよ」
美雪が満面の笑みで俺に抱きついてきた。その衝撃と、涼やかな香りを明瞭に感じたのは、一体どういう仕組みなのだろうか。何となくだが、母さんの関与はないように思う。創造主も違う気がするし、そうなると俺にはお手上げなのだけど、今はいい。抱きつかれた際の衝撃は去り、美雪の柔らかな肢体をもう感じられなくなっていても、涼やかな香りに包まれている今は、それで十分。
舞ちゃんや母さんの花の香りでもなく、冴子ちゃんの甘やかな香りでもない、霊峰に吹く清涼な風のような美雪の香りに包まれた俺は、まったき幸せに全身を満たされていたのだった。




