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明けて4月4日、時刻は午前7時59分。
場所は、2000メートル直線道の南端。
この人生で初となる正真正銘の全力疾走のタイムを、俺は計ろうとしていた。訓練開始時刻の午前8時になったら、遥か前方の赤いライトが青に切り替わる。それを合図に、2000メートル走のタイムを計測することになっているのだ。心を静め、明潜在意識に語り掛ける。あのライトが青になったら脊髄反射で輝力36倍圧縮と可変流線形を発動して、全力疾走するんだよ。「おっけ~」という明るい声が心の耳に届いた気がして自然と頬がほころんだ、0.5秒後。
ダンッッ
最高のスタートを切って俺は走り出した。周囲の時間は6分の1の速度で流れるようになったのに、それでも自分の足の速さを感じる。なんてったって今の俺は輝力圧縮を用いずとも、100メートルを6秒で走ってしまうんだからな! と自画自賛しているうち、
ピッ♪
軽快な電子音が鼓膜を震わせた。と同時に、100メートル走のタイムが3Dで視界の右寄りに表示される。小数点三桁まで計測されたそれは、0.996秒。ほんの僅かとはいえ1秒を切れたことが嬉しく、心の中で雄叫びを上げつつ全力疾走を続けていたら、
ピピッ♪
意識せぬうちに1000メートル線を超えてしまったようだ。その「意識せぬうちに」という事実が、この体の異常さを今更ながら教えてくれた。地球の陸上界において、最も苦しい徒競走は800メートル走と言われている。全力疾走をほぼ維持したまま800メートルを走りきることが、要求されるからだ。短距離走者の間で地獄走と呼ばれるその距離に、更に200メートルを加えて走ったにもかかわらず、疲労らしい疲労を俺は微塵も感じなかったのである。その証拠に、前方ちょい右に表示された1000メートルのタイムは、9.091秒だった。これってつい数分前に半ばふざけて計算した、900メートルを時速400キロで走った時のタイムじゃなかったっけ?
などと考えているうち、さすがに疲労がほんの僅か溜まってきた。変な話だけどその疲労に明瞭な安堵を覚えつつ、2000メートル線を超えたら減速を始めるよう自分に言い聞かせる。36倍圧縮を保ちつつ7秒で停止しないと、この道は終わってしまうからね。そして遂に、
ピピピッ♪
三連続の電子音が小気味よく奏でられた。足を滑らさぬよう、減速を慎重に重ねてゆく。ちなみにこの電子音を出しているのは、イヤホンのスピーカー。音速の3分の1ほどで走っているから離れた場所にあるスピーカーでは、問題がいろいろ生じてしまうんだね。
幸い減速は過不足なく成せた。道を50メートルほど残して停止し、呼吸を整えたのち、2000メートルのタイムに初めて目をやる。記録は、18.563秒。俺は暗算が得意じゃないけど、2000メートルを19秒未満で走るのって、元地球人としては人外以外の何ものでもない気がするんだよなあ。
との心の呟きが、不安に類する表情として顔に出てしまっていたらしい。
「翔、お疲れ様。どうかした?」
俺を案じる美雪の声が耳に届いた。己の未熟さを胸中罵りつつ、笑顔を美雪に向ける。
「体に異常はまったく感じない、だから安心して。俺が不安な表情になっていたのは、自分の人外っぷりを元地球人として感じちゃったからなんだ」
「もう、翔は人外なんかじゃない。お姉ちゃん怒るよ!」
唇を尖らせ眉間に皺を寄せて、美雪はプンスカ怒っている。以前なら俺のために怒ってくれる姉を持てた幸せに胸がポカポカしたものだが、今は美雪の顔を1秒以上見ると、表情の種類に関係なく胸がドキリとしてしまう。特に今は俺に言い聞かせるべく美雪は上体を俺の方に傾けており、それによって身長がほぼ等しくなっているからか、一度ドキリとした程度じゃ心臓は満足しなかったらしい。鼓動が急に早くなり、俺はいささか慌てた。2000メートルを18秒台で走ってもさほど変化しなかった鼓動が急に早まったら、美雪への恋心が全部バレてしまうじゃないか!
「アハハ、ごめんごめん。それはそうと、今のタイムを簡単に調べてみたいんだよね。姉ちゃん、手伝ってくれる?」
鼓動の変化を誤魔化すべく、俺は地面に腰を下ろし胡坐をかいた。その隣に「もちろん手伝うわ」と美雪も腰を下ろす。スパイクシューズを履きマッハ1で走っても損傷しない特殊素材製の道はほどよく柔らかく、かつ風雨に終始さらされ埃も積もってないので、腰を直接下ろしても美雪を不快にさせないはず。そう真っ先に思ったのが、
「ふふふ、翔は相変わらず優しいねえ」
なんて具合に筒抜けなのだから、鼓動の早まりも恋心も本当はすべてバレバレなんだろうな。ま、今更だけどさ!
と開き直りつつ、区間平均速度を急いで出していった。この道の使用時間は、たった5分しかないからね。そして出た計算結果が、これ。
「100メートル地点から1000メートル地点までは時速400キロで走り、後半の1000メートルは時速380キロで走った。姉ちゃん、これで合ってる?」
「ええ、合っているわ。参考までにそのタイムは同学年の、7位ね」
「あれ、まだそんなものか。いや順位より、マッハ1を目標に7年計画を立てないとな」
「・・・翔」「ん、姉ちゃんどうかした?」「今、マッハ1って言ったわよね」「うん言ったけど・・・ヤバ!」「翔――ッッ!!」「ヒエエッ、ごめんなさい~~!!」
演技抜きで後ずさった俺の頬を、美雪は親指と人差し指でギュウギュウつねってゆく。速度制限違反をする意思を公言したのだから叱られて当然だけど、満10年を超える付き合いが教えてくれた。怒っている振りをしているのはいつもの事でも、美雪の胸の中にある想いはなぜ、喜びなのかな?
「ねえ姉ちゃん」「な、なによ」「なぜ喜んでいるの?」「ふっ、ふえ~ん」「いやいや、そんな嘘泣き通用しないから」「ヒエエッ、ごめんなさい~~!!」
俺の頬をつねるのを止めた美雪は両手を顔に当て、赤く染まった肌を必死で隠している。その仕草に、「助かった」と思ったのが正直なところだ。背は美雪の方が高くても、胴は俺の方が長いのだろう。いわゆる女の子座りをしている美雪の目線が、俺とピッタリ同じになっていたのである。この状態で顔を直視していたら、俺の心臓は破裂していたかもしれない。いやマジで。
それにしても美雪がとてもピュアなのは前々から知っていたけど、ピュアさが最近急に高まった気がするのは、俺の勘違いなのだろうか? 美しさが急に増したのは目に見える変化なので勘違いではないが、謎の度合いとしては綺麗になった方が断然上と言える。う~ん美雪は最近、ホントどうしたのかな?
幸い、なのかは定かでないがやはり幸い、視界の右下に表示されていたここの使用可能時間が残り1分を切った。俺は立ち上がり、美雪に手を差し出す。
「そろそろ時間だ。姉ちゃん、一緒に帰ろう」




