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母さんはそう言って、俺に右手を差し出した。それは手を繋ぐ仕草に他ならず、ヘタレの俺は普段なら恥ずかしいと思うはずだが、母さんと過ごすこの準創像界では違った。前回教わった内容の把握が間に合わないとき、母さんと俺は地面に広げたレジャーシートに座っておしゃべりをする。すると次第に、間に合わなかったことを申し訳ないと思う気持ちが消えていき、おしゃべりを純粋に楽しむようになっていった。そしてその終盤、小さかった頃の俺はいつも決まって肩を抱かれてトントンされ、そのまま寝ていた。それは至福という言葉では到底足りない、いかなる表現でも不十分なひと時であり、俺は得も言われぬ幸せに包まれていた。十歳になったのを機に母さんは肩トントンを止めたが、「十代半ばまでは手なら繋げるでしょ」と言って左手を差し述べてきた。多少恥ずかしくともその手を取れば、得も言われぬ幸せに再び包まれることが出来た。13歳になっても、前世の日本なら小学6年生の3月1日になってもそれは変わらず、多少の恥ずかしさが過ぎ去った今の俺は、とにかく幸せだった。ただ以前とはほんの少し異なることも生じ始めていて、それは息子として母親を守りたいと願うようになってきた事だった。大聖者にそんな思いを抱くなど、不遜なのかもしれない。しかしたとえそうだろうと、これが俺。今まで守ってもらったのだから、これからは自分が守りたいと願う。どうやらそれが、俺の本質みたいなのだ。その願いが、
「おや?」
今日は普段より少し強いらしい。何となく、いつもと位置を入れ替えていることに理由がありそうだけど、母さんがとても嬉しそうにしているから問題ないのである。それは言うなれば、能動的な幸せだった。普段の得も言われぬ幸せが受動的なのに対し、守りたいという願いを土台とする幸せは、能動的な気がする。「翔に同意」とも言ってもらえたので俺は安心して、能動と受動の両方の幸せを噛み締めていた。そんな俺へ、
「さあ行こう」
母さんが呼びかけた。能動と受動の両方に満たされた今の俺に、怖いものなど何もない。「うん行こう」 張り切ってそう答えるや、母さんの振動が幾何級数的に高まっていった。けどその振動数だけなら松果体で経験済だし、他ならぬ母さんがそれをしているんだし、何よりここで手を離したら母さんを守れないので、波長の高まりを受動的に受け入れつつも心の能動性を保つことで俺は自己のバランスを維持していた。
「翔って度胸あるよね」
「もちろんだよ、だって俺は」
だって俺はの「俺」の箇所で、鈴姉さんの最初の講義で教えてもらった図が、ありありと脳裏に浮かんだ。中央の巨大な白銀、それと直結した俺の本体、シルバーコードで結ばれた俺の明潜在意識と心と暗潜在意識、その図が脳裏にはっきり浮かんだのだ。それを眺めつつ俺は自問する。俺が今使っている「俺」って、図のどれなんだ?
地球にいた頃の俺は、心と体を一組にして「俺」と考えていた。だが今こうしているように、体から抜け出た心のみの状態でも「俺」なのだから、心と体を一組にする必要はないと今現在の状況が教えてくれている。ならば心が俺なのかと自問しても、否というのが正直な気持ちだ。地球時代ならいざ知らず、明潜在意識の機能を目覚ましとして日常的に使っている今は、心のみを指して「俺」だなんて考えられなくなっていたんだね。
いや、今この瞬間に限ればそれも違う。母さんに高めてもらった今現在の波長は明らかに明潜在意識の領域だから、心と明潜在意識の両方を「俺」と呼べるはず。なのに自問すると、やはり否しか浮かんでこない。凄まじく基本的なことを失念している気が、しきりとするのだ。その失念を見つけるべく図を凝視したところ、シルバーコードと明潜在意識の連結部分へ自然と目が行った。地球時代はひときわ明るいあの場所を意識することなど皆無だったが、今は違う。戦士を目指す者として日常的に使っている輝力は、あの場所を経由してやって来るからだ。その輝力が、今の俺の波長より高いことを思い出した俺は、輝力と同等の波長の俺を「俺」とすべく輝力と自分を同調させてみた。大聖者の母さんがその程度で狼狽えるなどあり得ないので軽い気持ちで同調させてみたところ、いとも容易く成せてしまった。母さんにも「その調子、息子よどんどん行け~」と応援してもらえたので同調どころか輝力を超えてみようと試みたところ、凄まじく基本的な失念を至極あっけらかんと解明できた。そうだ「俺」は、本体じゃん!
「来た! 跳躍するよ翔!!」
「跳躍だろうと何だろうと全部了解!!」
次の瞬間、俺は名状しがたき何かを一瞬で駆けた。けどその何かを考察することが、俺にはできなかった。理由は二つあり一つ目は、創像界のはずなのに俺が創造したアレコレがまったく無いここは、準創像界ではなく真の創像界に違いないから。そして二つ目は、真の創像界を遍く照らす巨大かつ偉大な光を、天空に見たからだ。俺はその光を仰ぎつつ、母さんに語り掛けた。
「母さんの言っていたとおり、『なるほど』ってなったよ」
「ん、良くできました」
母さんに褒められつつ見上げるあの偉大かつ巨大な光を表す語彙を、人類は持っていない。どのような語彙を用いてもそれは、小石をアトランティス星と呼ぶに等しい、一部を全体とする行為に他ならないからだ。
しかしそれでも、俺は『なるほど』と思う。地球時代に聞いた全てのそれへ、『なるほど』という肯定の気持ちを俺は抱くことができたのだ。
神を愛や光と表現する根源は、創像界を遍く照らすあの光にあったのだな、と。
その後、準創像界に戻って来た俺は、今回の真相を母さんに教えてもらえた。順を追って説明すると、こんな感じになるだろう。
三次元世界で物質肉体をまとって暮らしていても、人の心は四次元存在として振舞うことができる。しかし十全に振舞うには、やはり相応の訓練が不可欠となる。その訓練の第一歩はネガティブと総称される怒りや憎しみ等々を手放すことであり、それらを手放せば手放すほど心は本来の自由を得て、四次元存在として自在に振舞えるようになるのだ。
そしてその手放しが、一時的にだろうと完璧に行えたら、つまり心に一切のネガティブが一瞬だろうと無くなったら、真の創像界で心は五次元になる。誤解のないよう繰り返すが、三次元世界ではなく真の創像界へ行けば、心は五次元になる。真の創像界は真の四次元でもあるから心はそれより一つ高い、五次元存在になるのだ。
しかしだからと言って、これは地球のスピ界隈で語られる次元上昇とは大きく異なる。愛や許容を心がけて現代社会を暮らすだけでは、五次元など到底無理って事だね。
ただここが心底イヤラシイのだけど、真実を歪めて広めようとするネガティブ勢力は、歪めた知識の中に真実の一端をあえて加えることを常套手段にしている。加えた一端が真実であるが故に人々はそれを足掛かりにして、歪められた知識の全体を信じてしまう。そうすることでネガティブ勢力は、一端を含む全てを歪めて人に信じ込ませるのだ。次元上昇やアセンションに加えられたその一端は、
『三次元と四次元と五次元の三つの次元に限っては、次元の数が多いほど高級』
という事。数が多いほど波長が高くなり、足を踏み入れるのが困難になるのは、この三つに限っては正しいのである。母さんによると正確には六次元もある意味そうらしいが、七次元以降はまったく違うし、二次元以下も違う。そうこれこそが「真実の一端を加えることで全てを歪める」という、あの者たちの常套手段なんだね。まったくもって、イヤラシイなあ・・・・
話が逸れたので元に戻そう。
カバラの十光の四界は、下から三次元、四次元、五次元になる。十光における四次元は正確には真の四次元であり、またそこに到達すると心は五次元になる。よって五次元に存在する第四光と第五光と第六光を目視できるようになり、そして俺が見上げた偉大かつ巨大な光こそは、第四光のティペレト。そしてこれが、形の異なるカバラの十光が地球に広まってしまっている真相と、母さんは教えてくれた。
さっき母さんが俺を連れて行ってくれたように、大聖者や直弟子に付き添ってもらわないと、真の四次元へはそうそう行けない。臨死体験で偶然行けるような、生半可な次元では決してないのだ。その生半可ではない真の四次元に行けば、五次元で輝く第四光を上空に仰ぎ見ることが出来る。よってそれを経験した人が「私は師に連れられて真の四次元へ行きました」ということを暗に知らせるべく、第四光が第六光になった変形十光を、一種の暗号として用いていた。四光の場所に点線で丸を書き、それ以降が下向きの三角形になった地球で馴染み深いあれは、暗号の一種だったのである。
ここで重要なのは、暗号として用いられた変形十光には、【名称と番号が書かれていなかった】という事。それらを書かずとも解る人には解るため、暗号として成立していたんだね。しかしそれを、真の四次元に至っていない人は知らなかった。その人が知っているのは、自分より上位の先輩弟子達が、秘密を共有する手段として変形十光を使っているらしいという事だけだった。それは憧れとなり、先輩方をカッコイイと思うようになり、そうこうするうちその人は、変形十光の方がカッコイイと感じるようになった。だから何かの折に、十光それぞれの名称を知ったその人は、第六光の名称を誤ってこう記憶してしまったのだ。「第六光の名称は、ティペレト」と。




