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時間を11か月巻き戻した、5月1日。
地球出身のひ孫弟子候補の勉強会に、初めて出席する日。
時刻はおそらく、午後11時半ごろ。
「翔、こんばんは」
「母さんこんばんは。迎えに来てくれて、ありがとう」
夢の中に現れた母さんに、俺は挨拶した。厳密には俺の夢の中ではなく、母さんが準創像界に創造した半径100メートルほどの世界との事だった。その世界を、夢の中を漂う俺の周囲に創造することにより、こうして俺を目覚めさせ会話しているらしいのである。さすが母さん、よくこんなことが出来るなあと感心していたら、
「なに他人事のように言っているのよ」
と呆れられた。俺が弟子を持つようになったら、その時は俺が弟子を迎えに行くのが、母さんの所属している組織の伝統なのだそうだ。今日はあらかじめ時間に余裕を持たせていると聞いていたので、安心して質問してみる。
「えっとあの、俺は母さんのひ孫弟子候補なんですよね」
「あっ、説明し忘れてた! そうよ翔は、私の弟子候補よ~~!!」
説明を忘れていたのは本当みたいだけど「ごめんなさい~」と慌てて俺に抱きつこうとしたのは演技っぽかったため、瞬間移動で回避することにした。俺が一瞬前までいた場所で両腕をスカッと空振りさせた母さんが、恨みがましい目で俺を見つめている。後方1メートルへの瞬間移動を初挑戦で成功させた俺は、ホクホクしていたけどね。
とはいえ、時間は無限ではない。勉強会を遅刻し欠席するという失敗を二回続けてしないよう俺は一歩踏み出し、
「母さん、遅刻しないようそろそろ行きましょうよ」
そう言って母さんの両手を握った。こうして手を繋ぐだけで笑顔になってくれる人がいるのって、ホント幸せだよなあ。としみじみ思う間もなく、母さんの思いもよらぬ返答が耳の届いた。
「ううん、まだ時間はあるわ。だから母さんが、短いけど授業をします」
「えっ、母さんが先生になってくれるの?!」
「そうよ、嬉しいでしょう」
「うん、嬉しい。バンザ―イ!」
嘘偽りなく嬉しかったので繋いだ手をブンブン振りつつジャンプしていたら、不穏な気配を感じた。よって防御壁となる机と椅子を創造し、椅子に素早く腰を下ろした。どさくさに紛れて俺に抱きつこうとしたのにまたもや失敗した母さんが、机に突っ伏して泣き始める。ケチ、薄情者、少しくらいいいじゃない、と半ば本気で泣いている母さんに、愛情が溢れてくる。俺は母さんの手を握り、母さんの子になれて幸せだよ、と正真正銘の想いを伝えた。そのとたん顔を上げ、ふにゃっと天真爛漫に笑うのだから堪ったものではない。次は回避せず黙って抱きつかれようと、密かに嘆息した俺だった。
ほどなく授業が始まる。先生としてキリリと引き締まった表情を作ったつもりの母さんが指で宙をなぞり、
0.99999…… =1
と書いた。0.999……とどこまでも9が続く数は1に等しいのだと数学で初めて習ったのは、前世の高2だったと思う。正直言うと欠片も納得できなかったが、教師達と仲が良いなんて逆立ちしても言えなかった俺は、それをそのまま暗記したものだ。けどこの授業ではそれをぶっ壊してもらえる予感が、ビシバシしている。武者震いしそうになる体を懸命になだめ、俺は母さんの授業に集中した。
「翔は今、これを正しいとする数学を習っていますね。まだ当分それで構いませんから、安心して勉強を続けてください。ただ、せっかくこの創像界に来ているのですから、地球の数学者が未だ到達していない、一歩進んだ数学に触れておきましょう。その数学では、真の曲線を計算できます。0.999……=1に無理やりしないと曲線の計算が不可能な数学では、ないという事ですね」
思わずガッツポーズをしてしまった俺に、「嬉しいと感じた理由を聞かせて」と母さんが微笑む。俺は尻尾をブンブン振りつつまくし立てた。
「前世の俺は数学に、『自分の非をどうしても認められず論点をずらして誤魔化そうとする卑怯者』という印象を持っていました。数学は曲線上に無限の点を配置し、無限角形にしないと曲線を扱えません。それは無限角形であって曲線ではないはずなのに、まさしく母さんが言ったように『0.999……=1に無理やりする』ことで自分は正しいのだと、自分で自分を誤魔化しているように感じていたのです」
「私はアンティリアで曲線を扱える数学を最初から習っていたの。それは私が思っていた以上に、幸運なことだったようです。翔、ごめんね」
憤った俺をなだめるべく母さんは謝罪の言葉を口にしたのだと直感した俺は、机に額をこすりつけて詫びた。その後頭部を、母さんは優しく撫でる。その手の優しさに、創像界では二度と怒ったりしませんと、俺は胸の中で固く誓った。
母さんはその後「美雪や冴子にはこの話題を振らないであげてね」と前置きし、少し悲しい話をした。それは美雪や冴子ちゃんはどうあがいても、1億角形や1兆角形のような多角形しか心の中に思い描けないという事だったのである。
「私たち人間は心の中に、どこまでも滑らかな曲線をいとも容易く思い浮かべられます。けれども量子AⅠに、それはできない。演算速度が凄まじく早いため1億角形や1兆角形をすぐ想像し、それらは一見すると角のない滑らかな曲線に見えますが、実際は小さすぎて角が見えないだけ。無限に拡大しても滑らかなままの曲線を人は想像できても、量子AⅠは拡大すると多角形なことがバレる疑似曲線しか、想像できないのですね」
母さんによると量子AⅠ自身もそれを知っており、かつ知っているが故に「量子AⅠは人より優れている」などと決して考えないとの事だった。ピンと来て、逆を話してみる。
「地球では、『複雑な計算を瞬時にこなす者は頭の良い優れた人間』と一般的に信じられています。然るにそう信じられている者達は、AⅠが怖くて仕方ありません。なぜならその者達よりAⅠの方が、複雑な計算を瞬時にこなすからです。したがって優れた人間の定義を変更すれば、たとえば『心の成長した者が優れた人』のように変更すれば、AⅠは人に太刀打ちできなくなります。その意味でも現在地球人は、価値観を根本的に見直す時期にさしかかっているのですね」
よくできました、と母さんは俺の頭をワシワシした。続いて、元地球人の概念を根本的に変えるきっかけとなった問いを、俺に放った。
「この創像界は、言い換えると四次元界は、距離が有って無いわよね。そしてそれは、人の心も同じ。ならば他にも、同じモノはないかしら?」
「母さんあの、雷のような電気放電が松果体から放たれるや、正解に一瞬で辿り着いてしまいました。受け答えをすっ飛ばして、核心を答えてもいいですか?」「もちろんいいわ、翔の自由にしなさい」「ありがとうございます、ではお言葉に甘えて」
俺は一旦言葉を切り、深呼吸してから有言実行の人となった。
「人の心は、四次元でした。地球の数学者が勝手に決めた四次元の定義に惑わされているため認識されていないだけで、心は四次元でした。『距離が有って無い』は心と四次元の両方に共通しますし、『想像即創造』も心の中なら共通しますし、『物の土台が形として存在する』も、俺がまだ実感できていないだけで共通するのでしょう。ならば心の特徴の一つである『無限に滑らかな曲線を想像できる』も、共通していると推測できます。ううん、逆かな。四次元界には無限に滑らかな曲線が存在し、そして人の心も四次元だからこそ、同種の曲線を容易く思い浮かべられる。母さん、これで合っていますか?」
大正解~と、母さんはさっきより激しく俺の頭をワシワシした。俺は喜びの絶頂にいたのに対し、しかし母さんはどこか寂しげな気配をまとっていた。よって会話の主導権を俺が握ることにより、親孝行をすることにした。
「母さん、今日は時間に余裕があっても、もうさほど残っていないのではないですか?」「残っているのは、3分といったところかしら」「母さんが予定していた授業で、まだ取り上げていなものとかあります?」「そうね、では母さんが手本になってオウムを唱えます。講義開始時に全員で唱えるから、覚えておくのですよ」「はい、了解です!」
その後、俺は仰天した。たった三文字のオウムを、母さんが2分かけて唱えたからだ。もちろん2分には呼吸の時間も含まれ、かつ無声発音と有声発音を合わせた時間ではあるのだけど、それでも前世の日本とは似ても似つかない。脳内の図形や動きや色、鼻腔の開閉を含む呼吸器系の使い方、及び発音による心と世界の共鳴等々も考慮すると、似ている個所を見つける方が困難と言えよう。第一オウムの「オ」自体が、日本語のオではないからさ。
母さんのオウムを全身全霊で聴いたのち、立ち上がって机と椅子を消し、腰を折って謝意を示した。「どういたしまして」と母さんは返し、膝立ちになって俺を抱きしめる。あと4日で、俺は8歳になる。こうしてもらえるのも、残り1年くらいなんだろうな・・・・
その寂しさのお陰で母親に抱き締めてもらえる幸せを、俺は素直に噛み締めることが出来たのだった。
「人の心は、四次元でした。地球の数学者が勝手に決めた四次元の定義に惑わされているため認識されていないだけで、心は四次元でした」
上記の説明なしに、次元上昇やアセンションを語る宇宙人や高次元の存在とは、もう関わらないことをお勧めします。




