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住み込み保育士は孤児院の家事ロボットに洗濯を頼めるので、ママ先生と鈴姉さんの衣服は洗剤と柔軟剤が同じ。高品質かつ高評判の石鹸やシャンプー等も無料支給されるから、二人はそれも同じ。朝昼晩の食事の食材と調味料と調理法も同じだし、仕事も同じなので起床時刻と労働時間と睡眠時刻等の生活パターンも同じ。ここまで同じでも地球人なら個々の健康度に大差があるため体香も異なってくるだろうが、アトランティス人は地球ではあり得ないほど健康と言える。したがって住み込み保育士を続けるうち、体香が似てきても不思議は何もなかったのだ。かくして俺は鈴姉さんと会話しているとママ先生への後悔を無意識に思い出し、償いの気持ちまみれになってしまう。これが「なぜ鈴姉さんにこうも弱いのかな?」の仕組みだと、俺は今やっと気づけたんだね。
ということを考えつつスリッパに履き替え階段を探し、それを上ってゆく。二階のダイニングキッチンで舞ちゃんの訓練をすると、事前に話し合って決めていたからさ。
階段を上がった先は小ぶりの玄関になっていて、鈴姉さんが出迎えてくれた。「おじゃまします」「いらっしゃい翔。さあこちらへ」 鈴姉さんに先導され、リビングに続く扉をくぐる。そのとたんお世辞ではなく、
「わあ、広いですね。それに日当たりが良くて天井も高い!」
俺は感嘆の声をあげた。二階は玄関を除きすべてがダイニングキッチンになっていて、ダイニングの面積は日本でいうところの三十畳ほどだろう。天井はなく屋根の裏が見える構造なため、最も高い場所は床から5メートルもある。南に設けられた大きな窓は大量の日差しを室内へ導くと共に、解放感と見晴らしの良さにも貢献している。そんな、日本では滅多にお目にかかれないダイニングキッチンが、目の前に広がっていたのだ。
「子供達に終始囲まれているためプライベートスペースは広く快適でなければならない、と政府は考えているようでね。私は子供好きなのでまったく苦にならないが、この広さと快適さに救われる人も、やはりいるのだろうな」
広さと快適さ以外にも、居住区のちょっとした改修も政府は請け負うという。それを知った鈴姉さんは、スリッパに履き替える生活を希望したそうだ。なんとそれは、
「私も翔と同じ地球出身で前世はフランス人、職業は駐日フランス大使館の通訳士でね。日本に長く住むうち、室内は土足ではない方が快適と思うようになったのだよ」
との事だったのである。鈴姉さんを元日本人と予想していた俺は寂しさを禁じ得なかったが、日本の文化を好きになってくれたのだから、それで十分なのだ。
その後、前世の話を打ち明けてもらったところによると、大学で東洋史を専攻していた関係で鈴姉さんは日本に興味を持ったという。しかし興味はほどなく熱中に変わり、気づくと駐日大使館の通訳士になっていたそうだ。日仏の交流が盛んだった大正時代に職員をしていたこともあり、大の日本贔屓になったらしい。だから第二次世界大戦で敵国になった時は、胸を痛めたとの事だった。という話で暗くなった場を復活させるため、鈴姉さんは驚くべきサプライズをした。なんと日本語で、
「私の名前は深森鈴音です」
と言ってくれたのである。まさにそのときピンポ~ンと、舞ちゃんの到着を知らせるチャイムが鳴らなかったら、号泣していたに違いない俺なのだった。
舞ちゃんの初めての挑戦となる太陽叢強化訓練は、ダイニング中央のコルクの床で行われた。柔らかく肌触りの良いコルクの床を舞ちゃんはいたく気に入ったらしく、「将来私も絶対この床にします!」と高らかに宣言していた。
結果を言うと、舞ちゃんは気絶しなかった。一瞬フラッとするも、鈴姉さんと家事ロボットに両側から支えられ、数秒経ったら意識が明瞭になっていたのだ。舞ちゃんに教えるのだからもちろん俺も太陽叢強化訓練を続けているけど、不都合な事態になったことは一度もない。よほどの運動不足でない限り、気絶はないのかもしれないな。
そのあと舞ちゃんに、最上級の所作で謝意を示された。こちらも最上級の所作でそれを受けたのち理由を尋ねたところ、俺の書いた「責任者を務めることの多い人生をきっと免れない」の文を、鈴姉さんに見せてもらったとの事だった。
「私もそんな予感が心の隅でずっとしていたの。だから翔くんには、いくら感謝しても感謝しきれない。鈴姉さん、私どうすればいいのかな・・・・」
舞ちゃんはそう言って涙ぐんだ。舞ちゃんにハンカチを渡して寄り添った鈴姉さんが俺に顔を向け、「悪いがキッチンで飲み物を用意してくれないか」と唇だけ動かす。俺より2秒早く家事ロボットが立ち上がりキッチンへ足を向けていなかったら、ヘナチョコの俺は狼狽不可避だったんだろうな。
家事ロボットがホットココアを作っている傍らで、俺は眼前に映された2Dの指示書に従いお菓子の用意をした。元日本人として懐かしい事この上ないお盆に、一口サイズのチョコやビスケット等々をてんこ盛りにしてゆく。重ねて言うがこのてんこ盛りは指示書に従っただけであり、俺のセンスではない。とはいえこんなふうに沢山あった方が、遠慮せず食べられるというもの。俺は途中から嬉々として、お菓子を山盛りにしていった。
家事ロボットがホットココアを、俺がお菓子を持ってテーブルに運ぶ。そのころには舞ちゃんも落ち着き、鈴姉さんと並んでテーブルの椅子に座っていたんだね。ホットココアとお菓子に舞ちゃんは恐縮するも、そこは甘いもの好きの女の子。ホットココアを一口飲むや笑顔になり、ビスケットやチョコを食べているうち満開の笑みになって、鈴姉さんと盛んにおしゃべりを始めた。こうなると男の俺は、静かにしておくしかない。鈴姉さんも舞ちゃんと話をしたそうにしていた事もあり、俺はホットココアを飲んだだけで鈴姉さんの部屋を後にしたのだった。
その日以降も舞ちゃんは太陽叢強化訓練を積極的に続け、三か月後に母さんが「16-8-16呼吸を教えなさい」との指示を俺に出した。太陽叢は唯一の肉体器官だからか、リズムが逆だったんだね。更に三か月経った10月にはマントラムも解禁となり、それをもって舞ちゃんは太陽叢強化訓練の指導者として認められた。もちろん公には母さんではなく、マザーコンピューターが認めたという事にしたけどさ。
舞ちゃんが指導者になった日は、太陽叢強化訓練を98人の子供達に教える解禁日でもあった。俺が男子を担当し、舞ちゃんが女子を担当することで、100人全員が太陽叢強化訓練を行えるようになったのである。その頃には松果体の光化も全員習得していたからか、翌年4月1に行われた9歳の順位試験でウチの孤児院は大躍進を遂げた。その日の夕食会で鈴姉さんが「大躍進のご褒美に高級ケーキを追加した。ぞんぶんに楽しめ!」と呼びかけた際の大歓声は、冗談抜きで窓ガラスをガタガタ震えさせたものだった。
といった具合に時間をチョッ速で進めてしまったが、元に戻さねばならない。なぜなら鈴姉さんの私室を訪れた約4週間後の5月1日は、意識投射して創像界へ赴き勉強会に出席する初日でもあったからだ。
またその日はあることに関するもう一つの理由を俺に教えてくれたのだけど、それはおいおい明かすとしよう。




