外法
内海とはいえ、乗り込んだ帆掛け舟は小さく、結構揺れる。短い時間にもかかわらずオレは少々船酔い気味だ。
オレは吐き気の波に耐えながら、ブランペルラとともに船の屋根に隠れて修道服を人夫が着るような洗いざらしのリネンシャツに着替えた。
「エフェクタの衣装で乗り込んでもいいんだけどね。いかにも陽動って感じになるだろう?」ブランペルラはシャツを広げてわずかに顔をしかめる。あまり気が進まないらしい。
リッラは申し訳なさを理由にしてブランペルラにいらない世話を焼き、数回気を失いかけた。その際オレはブランペルラの着替えを見るともなしに見てしまったのだが、意外なほど華奢だった。露出した浅黒い腹部は引き締まっているといえばそうなのだろうが、その曲線は優美で、やはり女なのだなと妙に感心してしまった。
イリスとリッラは改めて二つのリベルの場所を探り、それらが同じ場所に並んでいるのではないという結論を出した。
「わたしたちの位置、それとおおよその角度から、一冊は聖堂の一番奥、聖歌隊の椅子が並んでいるところでしょう」リッラが言った。
「しかしもう一冊は少し違う場所にある。聖堂に隣接した建物内だ」イリスが続けて言う。
「新設された図書館に蔵書を装って隠しているのかもしれません」リッラが補足した。
「図書館?ビブリオテイカは関係してないのか」オレは訊いた。
「一般的な修道院附属の図書館といった体裁ですからね。特に関わりはありません」リッラが言う。
「どうするディケル・ソロウ。手分けするかい?」ブランペルラがオレに視線を寄越した。
「ああ、そうだな」
そう言ったものの、オレがラグランティーヌではない方に当たった場合、事がややこしくならないだろうかと考える。それに敵の戦力が未知数だ。オレが一人でアンメルルとやり合えるか、どうにも心許ない。
「メルルが気になるのかい?」ブランペルラがオレの不安を見透かして言う。「大丈夫さ。あいつの方がわたしを見つけるだろう。それにおまえが追っているリベルは図書館の方だ。リッラの言う通り」
ここでリッラがまた目眩を起こす。
「リベルは蔵書に紛れ込ませているんだろう。もう一つの方はおまえから隠す必要はないからね」
一旦口を閉じたがブランペルラは続ける。「とまあ、相手もわかっているだろう。だからそうしているに違いないのさ。相手はあえておまえに追ってこさせたんだ。あのリベルに関わってほしいのさ」
「どうしてそう思うんだ」オレは訊いた。
「わたしも現場で目撃されているんだ。つまり始めから追っていたんだよ?アイツらはおまえが追い始めてからほとんど逃げていない。待ち構えているのさ」
「関わらせたいなら隠さないんじゃないのか」
「見つけやすくしたいんじゃなくて、在処をはっきりとさせたいのさ。逆に言えばもう一方には関わってほしくないわけさね」
もう一方のリベルはおそらくバルディリ辺境伯の私設図書館ではなく、あの地のビブリオテイカ分室から奪われたものだろう。ダーシアンの大切な誰かが含まれるリベル。彼はそのリベル、その誰かのためにラグランティーヌを使って何かを為そうとしているのだろうか。
「わかった。オレは図書館に向かう。関わらせたいのなら殺すつもりもないだろう」
「あわよくば話し合いで、などと考えているのではないだろうな」イリスはオレの内心を見透かしたように言う。
「争わないで済むならそれが一番だろ」そうは言ったものの、望み薄なのはわかっている。
「そろそろ着きますぜ」船頭がオレたちに声をかけた。
「オレもこの数年、何もしてなかったわけじゃない。なんとかするさ」オレは言った。
「岸を少し離れて待っているつもりだが、危うくなったら見捨てるぞ」イリスがすげなく言う。
「なにを言うの、イリス。ブランペルラさまのご帰還は命をかけてもお待ちしなければ」リッラは真剣な眼差しでイリスをたしなめる。
「いや、命をかけるのは良くない。いざとなったらわたしたちを待つ必要はない。泳いで戻る。リベルは濡れても平気だしな。おまえも泳げるだろう?」ブランペルラがオレの肩を叩きながら言った。
「まあな」オレは頬をひきつらせながら言った。
船頭はほとんどそれとわからないほどそっと接岸した。船頭は船を降りると、桟橋の繋船柱にロープをかけた。オレは桟橋に上がりホッと息をついた。
「何をしている。早く荷を受け取れ」ブランペルラが舳先近くに何やら頭陀袋を抱えて立っている。
「それは何だ?」
「さあな。何でもよかろう」ブランペルラは大きく上下する舳先をものともせずオレに荷を渡す。「おまえはそれを持って先に行け」
船頭が説明する。「左手の裏から回って行け。聖堂の裏に回ったら、回廊を隔てた向こう、向かって右に突き出ている建物が図書館だ。見取図は見たんだろう?」
「ああ、大丈夫だ。恩に着る。ありがとう」
「気にするな。おかげでオレはビブリオテイカに戻れるってもんさ」
そうか。手引きしたことはわかってしまうものな。オレは頭を下げた。「すまない。生活を変えてしまうことになるな」
「だから気にするなって。自分がリブラリアンだって忘れる前に戻れるんだ。逆に感謝してるよ」
オレが怪訝な顔をすると、「スパイってのはそういうもんだろう?」と、髭面の船頭はちゃめっ気たっぷりに笑った。
ヴェネツィアのビブリオテイカは、町中にこの男のようにして間者を潜り込ませているってことなのだろうか。彼らの人生を思うと複雑な感情が湧く。
「じゃあ行ってくる。あとでまたよろしく」オレは船頭にそう言って、桟橋に上がったブランペルラに目配せすると、荷物を担いで人足らしく大股に早歩きで聖堂に向かう。
聖堂入り口とは反対方向に足を向けたが、オレに注意を払う人間はいない。壁沿いに進み、右に折れて裏庭のような場所に出る。右手の壁が回廊だろう。扉を見つけた。施錠されてはいない。左右を見回したが人影はない。オレは足を踏み入れた。廊下が正面に真っ直ぐ伸びている。いま、図書館は右斜め前方に位置しているはずだ。
図書館側への通路はすぐに見つかった。オレの服装では、むしろここから人目につくわけにはいかない気がするが、心配する必要はなかった。図書館はすぐ目の前にあった。
まっすぐ伸びた館内の両側に蔵書が並ぶ。もちろんびっしり埋まっているというわけではないが、それなりに値の張りそうな背表紙が並んでいる。ヴェネツィアの出版業界からの寄贈も少なからずあるのではないだろうか。
書架に挟まれて閲覧用のテーブルと椅子の島が三つほど。人間は一人だけ。真ん中のテーブルに、こちらに背を向けて座っている。
覚えのあるその後ろ姿に、オレは緊張を隠し得ない。
そのままオレが黙って立っていると、その人物は立ち上がって振り向き、開口一番こう言った。
「わたしの妹を助けてくれないか」
オレは一度大きく息をつくと、語気を抑えて言った。
「まさかその妹に毒針を刺した相手に唆されて妹をかどわかすとはね」
女騎士は目を逸らしたが、すぐに何らかの決意を秘めた眼差しを向けてきた。「妹の命が最優先なのだ」
オレは首をひねる。「リベルになれば時が止まる。何もそんなに急くことはないだろう」
女騎士の顔が泣きそうに歪む。「父が……辺境伯が装飾師に依頼して……」
「依頼?何を」オレの中で不安感が膨らむ。
「リベルの、強制……」
「強制同期か!」オレは声を荒げた。
「そ、そうだ」女騎士はオレの語気の強さに怯んだが、続けて言った。「誰でも開ける扉をつけろと。彼は父親である自分に向けてラグランティーヌが開かないことに激昂して……」
「呪印か」オレは吐き捨てるようにつぶやく。
それはリベルの理を歪めてしまうものだ。何が起きるかわからない外法なのだ。
リベルは誰にでも読めるというものではない。リベルになったアンブリストと縁の深かった者、その中でもリベルがこの人と定めるものにしか開かれることはない。
しかしバルディリ伯がラグランティーヌに執着するものだろうか。もちろん彼の目当ては別だ。
あの表装の背皮は、もともとプルディエールのものだ。リベル・ラグランティーヌにプルディエールが混ざっていることを知っているか定かではないが、プルディエールの背皮であることは周知の事実だ。背皮のままでは無理だが、製本されたしまったのだから、彼がプルディエールの知識を得ようとするのは容易に想像できる。
オレがもっと早く盗み出しておくべきだったか?しかし強制同期のために新たな刺青を施そうと考えるとは思わなかった。確かにリベルの表層、つまり刺青背皮は、リベルを物質世界に留める錨のような役割を持つため、その最も外側の部分だけは、性質上この世界からの干渉を受けてしまう可能性がある。しかし通常は可能性の話で終わる。よほどの術師でなければリベルの表装の表層にすら干渉できやしない。
だが、よほどの術師が関与したら?
オレは甘かった。彼女たちのリベルのためにもっと何かやるべきだったのだ。オレは自分の怠慢を呪った。オレの中で忸怩たる思いと憎しみ、怒りが渦を巻いた。
「プルの息子。ダーシアンめ」




