潰える希望
ラグのつぶやきが聞こえたのか、プルディエールが彼女を見た。「さて、助手よ。手も戻ったことであるし、そなたとの約束を果たそうではないか。まずは適性を測るとしよう」
「その前に、ちょっと触ってもいい?というか、助手じゃないって言ってるでしょ」
ラグを施術台にうつ伏せに寝かせた後、服を脱ぐというのでオレは小屋を出たが、二人の会話は開いた窓から聞こえてきた。
「ちょっと、変なとこ触らないでよ」
「そなたも散々わたしの手を弄り回していたではないか。お返しだ」
「手と一緒にしないで。もういいでしょ、早く始めましょう」
「わかったわかった。いいか、始めに言っておくが、一足飛びに結果を得ようとは考えるな。意識に集中しろ、意識を具体的に捉えられるようにならなければ始まらない。概念という言葉があるくらいだ、人は意味を認識できる。意味を認識しているのが意識であり、意味に干渉できるのも意識なのだ。物質は意味を生むが、逆に意味が物質を形作っているともいえる。つまり……」
「意識によって物質を変化させる、ということよね」
「そうだ。それらは表裏一体なのだ。だが、物質面に干渉できるほどの意識となると相当強いものでなければならない。それは意識ではなく意志と呼ぶべきものだ」
「そして己の意志だけでは、自らを影とするには足りない」ラグが後を引き取って続ける。「それを補佐するのが、背中の刺青で作られた補助脳ってことね」
プルディエールはおそらく深く頷いただろう。追い出されているので見えないが。
すべてが一なるものであるこの世界において、個であるということは、閉じた円環ーー物質面ではエネルギーの循環ーーであることだと、プルディエールは言っていた。
そして複数の円環が一つの大きな円環を成す。意識も同じらしい。生物の初期設定としての本能、そこから生まれる感情、感情より能動的な思考であるところの理性。それぞれが円環を成し、重なって一つの自分という円環となっている。
そして後者が前者を観察、認識しているのだという。例えば喜びや悲しみを認識しているのは感情レベルの円環ではなく、理性レベルの円環らしい。顕在意識は理性レベルだと言っていたから、意識を認識するにはその一つ上位の円環が必要ということになるが、オレが自分自身の意識だと思っているこれが、その上位の円環なのか。いや、思っているのは理性の円環だ……ややこしい。
プルディエールが必要だと言っている高次の円環とは、理性を観察して己と思っている円環を観察する、さらに一つ高次のものということだろう。
とにかくその最上位のーーじゃないかもしれないがーー円環こそがアンブリストの必要条件だというわけだ。
「これからどうするにしても、まずは素養を測らなくてはな」プルディエールが言った。
「もしもよ、もし素養がなかったらどうなるの」ラグの不安そうな声が聞こえる。
「安心しろ、方法がないわけではない。しかしいまからそんなことを心配してどうする。目の前のことに集中しろ」
どうやらラグは錬金術を究めようとしているらしい。
何のために?
考えるまでもない、下半身の不随を治癒するためだ。
「背中に当てたわたしの手に、そなたの意志をもって触れてみろ」
プルディエールは続ける。「わたしの手の意味の側面に触れろということだ。その方がわかりやすければ、想像上の手と言っても良い。それを身体の内部から伸ばすのだ。目を閉じ、耳を塞いで集中しろ」
「あんたがひっきりなしに喋ってんでしょ?」
数瞬の沈黙。「なるほど。少し黙ろう」
何の物音もしないまま数分が経過したように思う。
長く息を吐き出す音、そしてプルディエールが口を開いた。
「正直予想していたより筋は良いと思うぞ。わたしほどではないにしてもな」
「本当に?」ラグの声は喜びに上擦っている。
「お世辞などではないよ。十年、いや八年ほど欠かさず修練に打ち込めば望みの能力は手に入るだろう」
「八年?」
そう言ったラグの声は震えている。「素質があれば習得は早いって言ってたじゃない」
「十分早いぞ。アンブリストの技術は誰にでも習得できるわけではない。自らを影とする技は特にな。それには素養のある者でも平均で十六、七年は要するという話だ。その半分だぞ。それにもっと高度な領域にまで踏み込めるはずだ。わたしほどではないにしろ」
「あんたほどである必要なんて、さらっさらないのよ!あたしはこの脚がッ……」喉が潰れんばかりの叫びに、声が掠れて消える。
プルディエールは宥めるように声を低くした。「わかっておる。わたしも具体的な数字をあげておくべきだったな。それでもやはり十年近くはかかるだろうと言わざるを得ん」
ダンッと車椅子の肘掛けを叩いたであろう音が響いた。「クソッ、クソクソッ」
「ラグ……取り乱すな。外にディケルがおる」
罵声が嗚咽に変わる。
「期待させすぎたか。すまないことをした」
「そうだ、あんたがあたしを影にして直してくれればいいんじゃない」しゃくりあげながらラグは言う
「いや、それはできない。己と繋がっていないものもそうだが、意識を持つものの意味も剥ぐことはできない。意識とはとても強固なものなのだ。虫や魚ならばいざ知らず、人間ならばほとんど死んでいるのでもなければ無理だ」
「そんな……じゃあ、諦めるしかないっていうの?いつか動くって信じて、あたしマッサージだって続けてきた。屈伸運動だって、手伝ってもらいながら……なのに」ラグは声を上げて泣き始めてしまった。
「泣くな、まだ諦めるには早いだろう。それにそう、手っ取り早い方法がないでもない。あまりお勧めはせんがな」
「前にも言ってたわよね」鼻を啜りながらだが、ラグは何とか気を取り直したようだ。「いいわ、どういう方法なのか聞かせて」
「方法自体は簡単だ。しかし、それぞれの立場が事を難しくする。わたしの善一協会での立場、緊張関係にあるローマ、それから契約を交わしている図書館。そして、何よりそなたの出自の問題がある」
「何の話……」
ラグの緊張が伝わってきた。
「ディケルも知っているのだろう?そなたが辺境伯の庶子であることを。教会隷民かとも考えたが、あの剣士は辺境伯直下の者。剣の柄にある紋章を見れば、領主から賜ったものであることは明白。それに所有民の警護に対して教会がそれほどの人財を投入するとは思えん」
そういう噂はあったが、特に気に留めていなかった。
こんな時代だ、両親と死に別れた子どもは少なくない。ラグの母親が亡くなったとき、親しくしていた神父が娘を引き取ることは不自然ではないだろう。それに詮索好きが尾ひれをつけた、そんなところだと思っていた。
「実行するのは良い。ただ、手順というものを考えなくてはな」
でも、と涙声のラグを諭すように、プルディエールは落ち着きを払って言う。「助手よ、心配するな。最善は常に存在しているものだ」