ヴェネツィアの魔女
通路の水はすぐに抜けた。頭が出た時点で、オレは自らの影化を解いた。
目の前のイリスもほぼ同時に復元し、「素性の確認が取れた。館長に会わせよう」と言って、あとは黙々と通路を進んだ。
通路を水で満たして影化せざるを得なくしたのは、肉体の境界に集中したオレが精神的防護壁をおろそかにすると踏んでのことだったのだ。そうしてその隙に乗じて意思を接続、オレの記憶を盗み見た。そのためわずかではあるがオレも相手の、おそらくイリスの背に張りついている館長の背皮由来の記憶を垣間見たのだ。
あれはプルディエールと館長の出会いの場面に違いない。プルディエールは、片足を失い大量の出血によって死に瀕していたヴェネツィアの魔女と融合して自分が致命傷を引き受けた。そうして彼女の命を救い、自分は死体の足をつないで己のものとして命をつないだのだろう。
その過程は想像するに難くない。以前、腕の再生を目の当たりにしたのだから。両手があいているのだから、自ら執刀したのではないだろうか。
狭い通路を抜けると井戸の底のような場所に出た。イリスが頭上に呼びかけると正面にハシゴが下ろされる。
こうやって地下から地上にせり出した井戸、窓のない塔に登るわけだ。
周囲が火事になったら蒸し焼きだな、と考えながら、オレもハシゴを上る。その後は外壁に沿った石段を上がっていく。四階と思しきフロアに出ると不意に陽の光を感じた。窓があるようだ。そういえば非常時の避難口として三階以上には窓があるとイリスも言っていた。ここは天井が低い。外側から見れば、この辺りが三階の高さと思われた。
最上階ではないかもしれないが、階段は六階で途切れた。
そこには今までの階にはなかった扉があり、エフェクタがいつの間にか中に消え、扉の前の狭い空間でイリスと二人しばし待たされた。
「あいつがいまのお世話係なんだよ」イリスは小さく言う。「あいつでなければこの扉は開かないし、館長を復元できないんだ。もちろん保険はかけてあるが」
中から女の声がし、エフェクタの男が扉を開けてオレたちを招き入れた。
その部屋の天井は一般より高いくらいで、室内装飾も簡素ながら上質だった。ものの素材が良いのが傍目にもわかる。
部屋の奥には天蓋付きの大きなベッド。気配を感じて右を見ると、ロココ調の白塗りに金箔で装飾が施されたソファの上で、黒髪の少女が幾つものクッションに埋もれながら、眠そうに目を擦っていた。
一目でそれがヴェネツィアの魔女だとわかった。プルディエールの面影がそこにあったからだ。
「イリス、影は?」魔女はオレを一顧だにせず言った。
「終わっています」イリスが首を垂れたまま答える。
「して?」
「本物だと思われます」
魔女が満面の笑みを浮かべる。それは無邪気な、見た目のまま十代前半の女の子の笑顔だ。「よし。近う寄れ」
イリスがうつむき加減のままそそくさとソファに歩み寄る。そして魔女に背を向け、服をはだけて肩を露出させた。そこへ魔女の手が伸びる。指先が影化している。同期し、盗み見たオレの記憶を掬い取るのだろう。
「ハッ、これはケッサクだ!」イリスの肩に触れるなり、魔女は声を上げた。「ヤツめ、あのときのチンチクリンに戻っているではないか。なんともまあ、いい気味ではないか。わらわはな、本当はグラマラスがウリの美魔女だったのさ。それがあいつの口車にうっかり乗っちまったせいでこのザマだ。つまり容姿が入れ替わったんだ」
あんたはそれに同意したんだろうとオレは思ったが、口には出さない。
魔女の愉快そうな笑いは止まらない。「くっくっくっ、そうかそうか。そなたのおかげで、あいつもペタンコのお子ちゃまになったってわけだ。そう来なきゃね、それがあいつの本来の姿。いい気味だよ」
イリスから手を離し、魔女はオレを見据えた。「その方、名をなんと申す」
魔女はすでに知っているはずのことを訊いてきた。
「ディケル・ソロウ」地下通路でのやり口が気に入らないオレは、それだけ言って黙った。
「きさま、失礼だぞ」イリスがはだけた襟元を掴み寄せながら立ち上がった。
「よい。非礼はお互いさまだ。いや、こちらのほうが幾分やり過ぎたかもしれん。しかし昨今は治安が悪くてな。許せ」
下手に出られているのに機嫌を直さないのは流石に子供じみている。オレは微笑して言った。「直接お読みになられるのはいかがですか」
「ふふ、それには及ばぬ。十分見させてもらった」
お互いに背皮を読むという話は、地下道でのやり取りのことだったということか。だとすると、オレはほとんど見ることができていない。
オレの思いを見透かして、魔女が言う。「読める質と量は能力による。励むことだな」
ぐうの音も出ないが、子どもの顔で言われると腹が立つ。
「まあ、そう怒るな。約束は果たす。プルディエールと件のリベルの場所、見当をつけてやる」
オレは一瞬間を置いて頭を下げた。「ありがとうございます」
「プルディエールの位置はもうわかっている。しかし少々存在感が薄くなっておるな。融合したせいだろうが……しかしこれは……」
魔女は黙ったまま訝しそうに見つめるオレに目を向けて言う。「プルディエールはこの町にはおらん。おそらくジェノヴァ、その近郊だ」
東ではなく西だったということか⁈当てが外れた。しかしそちらの街道にも監視の目はあったと思うのだが、うまく逃れたか。
「わかりました。さっそく後を追おうと思います」
踵を返そうとしたオレに魔女が声をかける。
「そなた、追っているのはプルディエールか、それともリベルか?」
「それは」オレは彼女を振り返った。「主たるターゲットはリベルです」
「ならば、当ては外れておらん。プルディエールの混ざったリベルはこの町にある」ヴェネツィアの魔女は黒髪をかきあげつつ続ける。「それも二冊な」




