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ビブリオテイカ/零葉の錬金術師  作者: 浦早那岐
ディケル・ソロウ2
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沈没

「そちらの本館も船の上なのですか?」オレは訊いた。

「敬語はいい。アンブリストは皆同格だ」ヴィオレが言う。

「はあ、ならばお言葉に甘えて」オレは唇を舐め、「イリスたちのビブリオテイカは他の船にあるのか?」

 ヴィオレは振り返ってオレを睨む。「イリス?敬語はいらんと言ったが、馴れ馴れしい口をきいてよいとは言っておらんぞ」

「……すいません」

「フッ、冗談だ」彼女は笑い、縄梯子を滑り降りていく。

 絶対冗談という目ではなかった。オレは再度気を引き締める。が、心の中では馴れ馴れしくイリスと呼ぶとしよう。


 帆船から連絡用のゴンドラに乗り込んだのは、イリスとオレ、それに一切口を開かないエフェクタの男だ。船頭は行きと同じ男で、イリスを眩しそうに見つめていたが、エフェクタの男に肩を叩かれて我に返り、せっせとオールを動かし始めた。

 ヴェネツィアの水路に入ると、ゴンドラはすぐに岸につけた。

「ありがとう」イリスは優しげな笑みと流し目を船頭に送りながら下船、これでは虜になっても仕方がないという艶やかさだ。

 イリスは先頭に立ち、大きな歩幅でズンズン先をゆく。そうして幾つか路地を曲がり、狭い袋小路の手前で立ち止まった。

「そこだ」

 イリスが顎で示したのは石畳の路。大きな石材と小さな石材がモザイクになっている。大きい方は下水道の蓋のように見えなくもない。おそらくそれらの一つが地下に通じているのだろう。しかし幾つもあるのでただのデザインとしか思えない。それよりも問題は……

「まさかとは思うけど、下水道を?」

「ヴェネツィアに下水道などないよ」

「下水道がない?じゃあ、いったいどうやって……」オレは寸時考えたが、答えは目と鼻の先、足元にあった。「なるほど、潮の満ち引きで」

「その通り。落とされた排泄物は水路を通って海へと流される。上手くできているだろう?」館長代理はニヤリとする。

「舟から落ちるのだけは避けたいな」オレは微苦笑して言った。「けれど、下水道じゃないならこの通路は?」オレは路上に開いた暗闇を覗きながら訊いた。


 イリスはスルリと穴に滑り込んだ。それぞれの手に灯を持ったオレとエフェクタも後に続く。

 通路は天井が低く、屈んだ姿勢で進むにはそれなりに骨が折れる。


「丸太の杭を打ち、その上に石材を敷く過程で、石で四方を固めた通路を作ったんだよ。ヴェネチアの建設時にな。そういう地下通路は思う以上に広く張り巡らされていて、入り口も複数箇所ある。そしてそのすべてが常時ビブリオテイカへとつながっているわけでもない。先達はその通路上に建物に囲まれた塔を幾つか建てた。つまり四方の壁に空洞があって人々が住んでいるってことだ。基本的にそちらとの通路はないが、例外として三階以上で数ヶ所、こちらが外側に張り出している場所がある。そこの窓は外界に通じていて、避難経路になっているというわけだ」


「なるほど。しかし危険では?海水が流れ込んだら逃げ場がない。この通路は満潮でも海面より上なのか」

「確かにそうだ。リブラリアンならばひとたまりもないだろう」イリスはこともなげに言い、「しかしアンブリストならば話は別だ」

「影化?」

「そうだ」イリスは不意に立ち止まる。「ちょうど良い場所でその話になったものだな」

「それはどういう……」

 訝しむオレの背後でエフェクタの男に何やら妙な動きがあった。振り返って見ると男は向こう側から通路に蓋をしている。壁に沿って扉があったのだろうが、オレはたいして気に留めていなかった。これは失態だ。

 木製の扉は影にしてしまえば破壊できるかもしれないが、イリスがそれを許さないだろう。


 オレは相手の意図を測りかねていた。単なる罠だったのか?それとも試験だろうか。

 話の流れから、ここに海水を流入させるのだろうが、それで何がわかる?

 オレが影になればアンブリストであることは証明されるだろう。だから何だ?敵か味方かを判断する材料にはならない。


 それにいくら影化で外界の時間経過と隔絶されるといっても限界がある。それは影化そのものの限界ではなく、その術者がいつまでもそのままでいられる時間的余裕があるとは限らないという意味でだ。今回の場合、オレには任務がある。


 そうこう考えているうちに、足元には水が溜まり始めている。下水の混じった海水に浸かるとは泣けてくる話だ。


「どういうつもりだ?」オレはイリスに問いかけた。「自分もろともオレを殺そうってことか?館長代理と釣り合うとは思えないが」

「影になれば死なずに済む。何も永遠に水の中というわけじゃない。おまえが本当にアンブリストなのか確かめようというだけだ。それに館長代理が一人だと言った覚えはないぞ」

「そうだとしても、だ。こんなことをせずとも証明してみせるぞ」

 流れ込む水の勢いは激しく、オレは顔にかかった飛沫を拭う。身長の三分の二ほどの高さしかない通路はみるみるうちに水で満たされていく。


 影化は避けられない。それを前提にどのような影化を選択するのが最善なのか。ひと口に影化といってもその位相は一つではない。完全に自己を外界から遮断するものから、ある程度周囲の状況を感じ取れる影化まで段階がある。

 完全な影化では、復元の条件を設定しておくのが通常だ。自分では周囲の状況がまったくわからないからだ。完全な影化の場合、時が止まっていると考えて差し支えない。よって思考も停止している。

 自ら動いたり、周囲を認識するためには、影化といっても外界との関係性を残しておかなくてはならない。もちろんそれは薄く、粗い、情報量が少ないものになるが。つまりその情報量の大小が影化の深度ということになる。自分と外界との干渉の度合いである。そしてその種別でもある。

 人間は物質的にも意味的にも複雑な構造体だ。外界との干渉も単純ではない。


 現在の状況において、より干渉を抑えるべき事象は何だ?

 水中に沈むとなれば、まずは呼吸の必要を減じなくてはならない。体内での呼気の消費を抑える必要がある。要は肉体の時間経過速度を外界比で可能な限り最小値にすればいいということだ。

 そうしておいて外部の状況を一定時間置きに探る。この場所が海面より上である可能性は高い。さっきの水飛沫に塩味がまったくなかったからだが、そうなると目的達成後すぐに水を抜くだろう。周囲から水が引いた時点で影化を解除する。

 いまから行う影化は、肉体的側面の守備がメインになるため、どうしても意味的側面、簡単にいうと精神面への防御が手薄になる。肉体的輪郭への集中が、精神的輪郭へのそれをおろそかにしてしまうのだ。影化はその二つの輪郭を乖離させることによって行うので致し方ない。それは相手方も同様なので、精神攻撃の類いを受けることはないと思うが。


 全身が水に浸かった。天井にもほとんど空気の層は残っていない。イリスとの距離はお互いに手を伸ばしても少し間がある程度。水の中でよく見えないが、どうやら彼女は影になっていくようだ。

 オレも影化するとしよう。


 五感が遠のく。意識は時間感覚から隔絶される。

 そのとき突然、知っている声が聞こえる。

 声はこう言った。

「なんだ、いまにも死にそうじゃないか」


 意味を理解することは、影になったいまのオレには難しい。ただ、聞こえたままを受け入れているだけ。理解は影化を解いた後にやってくる。


「おまえの知っ……たことか」知らない声が憎まれ口を叩く。

「確かにな。ここにある多くの死体の一つに、もうすぐそなたもなるだけのこと。片足を失ってもそれだけで死に至るとは限らないが、その出血量。そして周囲の状況。いつもながら戦場はあっけなく死をもたらす」

「わたしの肉体が滅ぼうとも…… わたしの意思……を継ぐ者は幾人も……いるのだ」

「意思など」知っている不遜な笑い声。「言葉や経験を通じた意思など、いかほど伝わるものだろうな」

「はは……常人の考えではそう……なるか」

「ふむ。もしやそなた、刺青を背負う者か?」

「知っているのか」苦しげな声に動揺が走る。

「ああ、我がことであるからして」しばし沈黙。「一度だけ問う。そなた生きたくはないか?幸いここには多くの素材がある」

「肉体再生……しかしわたしには……もうその……余力は」

「われが成そう。幸い両手が空いているからな。しかし条件がある」

「なん……だ……それは」その声はいまにも消え入りそうにか細い。

 相手は急ごうともせず言う。「そなたの姿を譲り受けたい。それが条件だ」

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