外科手術
実際に死体が運び込まれたのは、それから十日ほど後の夕刻のことだった。巡礼の途中で落石事故に遭ったまだ若い女性で、身元がわからないので共同墓地に埋葬することになったらしい。
アンブリストの技を見せてくれるというので物置小屋に足を運んだ。呼ばれなくても毎日顔を出していたので同じことかもしれないが、勝手に押し掛けるのと招待されるのとでは高揚感がまるで違う。
教会の角を曲がるといつものように声が聞こえた。
「手をくっつけたら、ちゃんと約束を守りなさいよね」
約束とは確か、身体の再構築による傷の修復方法を教えること、だったはずだ。
「わかっている。アンブリストに二言はないというに、それを何度言わせる気だ」
「だって、不安じゃない?あんたに教えるメリットなんてないもの」
「そう言い切るものでもない。素養のある者ならば、伝授するにやぶさかではない。おや、やっと来たか。遅いぞ」
時刻を指定されなかったから軽い朝食を四人分持ってきたのだが、施術台に横たわる遺体を見て失敗を悟った。先日反省したことなどなかったかのような思慮不足に、自分でも呆れるしかない。
人が一人、望んだわけでもなく死んでしまったというのに、呼ばれて興奮するなんて……
「ディケルよ。ピクニックに行くのではないのだぞ」
「ごめんなさい」
オレは敬虔な気持ちになって、遺体に首を垂れた。胸の上で組んだ遺体の手には白い花が添えてある。顔にかけられた麻布にはわずかに血のシミがあった。
「剣士さんは?」
「領主さまに呼ばれたんだって。手伝ってもらおうと思ってたんだけど」
「ヤツの手伝いなどこちらから願い下げだ」
プルディエールはそう言って、すれ違いざまラグの肩に手を置いた。「それとも保護者がいなくては不安か、ラグランティーヌ。我が助手よ」
「助手でも不安でもないっての」ラグは深呼吸して車椅子を施術台に寄せた。「いいわ。さっさと片付けちゃいましょ。ディッキ、あんたも手伝ってよね」
軽口を聞いて、ずいぶん仲良くなったものだと感心する。もともと気が合うのだろう。
プルディエールが改まった調子で言う。「別の存在を自分という存在に同化することは、同じ環の中に取り込むことだと話したのを覚えているか。肉体的にいえば、それは血の循環で表される。よってまず血管を繋ぐ必要がある」
「血って死んだら固まるんじゃないの」
オレの問いに、ラグは「心臓辺りの太い血管には、確かに血の塊ができる。でも末端の細い血管の血は固まらないのよ。でもその血を身体に流し込むのは危険。だから動脈を繋いで血を流し、遺体の血を押し出してから静脈を繋ぐ。そういうことよね」
「動脈と静脈を別のものとする考えからは脱却しているのだな。さすがは解剖大好き変態少女だ」プルディエールは片口を上げる。
「変態は余計よ」
まんざらでもない様子のラグは、オレに向かって言う。「まず遺体の右手で予行演習するわ。ディッキ、あんたの練習を兼ねてね」
「練習?手術の手伝いをするの、オレが?」
「あたりまえでしょ、何のために呼ばれたと思ってたわけ」
「ですよね……」
剣士が退席していなければ呼ばれることはなかったということか。しかしプルディエールは剣士に手伝わせる気はないと言っていたし……
オレの雑念は、ラグに鉈と鋸を渡された途端に吹っ飛んだ。
「オレの仕事ってわけ……」
ラグは当然でしょと言わんばかりの素の顔で、遺体へと首を傾げる。
ラグに指図されて始めは恐る恐る、次第に必死になって遺体の腕を切断、断面から引き出した血管で手術の行程を一通りやってみた。作業自体は難しくなかったが、人間の身体でそれをすることに、全身汗みずくになった。
ラグは遺体の右手の縫合を終えると、本命である左手を切断するよう言った。二回目ともなれば鉈や鋸の扱いも思い切りがよくなり、かなり早く作業を終えた。
「この人を奥の棺に。ディッキ一人で運べる?」ラグが神妙な面持ちで言う。
手術の対象ではなくなった遺体には、突然命を奪われた人間の痛ましさが再び舞い降りたかのようだった。
「この人、きっと天国に行ったわ。だって亡くなってからも他人のためにその身を捧げたんだもの」車椅子を棺に寄せながらラグは言う。
「そうだね」オレは小さく頷く。
ラグは祈りの手を解くと、何かを振り切るように自分の頬を打つ。「さて、準備はいい?」
「わたしはいつでも構わんぞ。横になっているだけだからな」
「むしろすぐにやらなきゃ忘れてしまいそうだよ」オレはつぶやく。
プルディエールは改めてアルコールで拭き上げた施術台に横になり、ラグはその手首の縫合痕に刃を入れる。「我慢できる?」
「それを訊くくらいなら手を動かせ」
「いい覚悟ね」ラグの持つナイフの薄い刃が癒着したひきつれに吸い込まれる。開かれた白い肌から抉り出された血管の癒着した先端も切り取られる。プルディエールの口元がわずかに力む。
「ディッキ、これとこれをこれで挟んで」
薄い鉄の棒を折り曲げた道具を持つラグは、プルディエールの腕と切り落とした遺体の手首の断面に覗く血管を指して言う。オレは直前に反対の手の切断面で練習したことを繰り返す。
「縫い付けるから動かないように持ってて」
先の曲がった細い針と鍛冶屋が使うヤットコのような道具を器用に使ってあっという間に繋いでしまった。
「止血帯をほどいて血を流すよ。そっとね」
ここでも練習した通りに動く。心臓の鼓動に合わせるかのように、遺体の手首から赤黒い液が溢れ出した。それが不意に赤さを増す。練習ではなかったことに、少しだけ手が震えた。
「止血帯を閉めて」ラグの声にオレは慌てて力を籠めた。
「じゃあ、今度はこれとこれ、さっきと同じようにお願いね」
ポタリと滴が落ちる。ラグの汗だ。見ると額にはびっしりと汗の珠が浮いている。
「もう少し強く、血を止めるつもりで。そう、いい感じ。もう終わる。骨はこのままでいいのよね。皮膚だけ簡単につなぐ感じで」言いながら、ラグは遺体とプルディエールの皮膚を縫合していく。色の違う肌が縫い合わされていくのは、見ていて違和感しかない。
「うぅ、そうだ……これから切り落とされた他人の手という意味を剥ぎ取り……ひと繋がりのわたしの手という意味を付与する……」
「意味に干渉できるよう訓練された意思で、意味に変化を起こして、それで意味と表裏一体の物質であるところの肉体にも同様の変化を促す、そういうことだったよね。でも……」
「質問は後でいくらでも受け付ける。いまは黙って……集中させてくれ」
施術台で身体を捻ったプルディエールは、切り傷のときと同じように左手首に右掌をかざした。
「そうやって手をかざしたら見えないじゃ……」
もう注意されたことを忘れているラグの口を塞ぎ、オレは身を屈めて真横から左手首を見つめた。切り傷のときは、ラグの言うように、右掌に隠れて傷自体が変化していく様を直接見ることができなかったからだ。
しかしそれは今回も同じだった。やはりどうやっても焦点が合わないのだ。色彩は徐々に失われ、星のない漆黒の夜空が空間を裂いて溢れてきた。空間はプルディエールの左腕の輪郭を境界として、その内側を満たした。どこまでも深い洞のようでいて、まったく奥行きがないようにも見える。いや、それは正しくない。見えているのではなく、何も見えていないのだ。
そのうち視覚よりも先に心が、つまり意識がプルディエールの手を感じた。何も映さない新月の夜の沼の底から湧いてくる泡が水面を打つようにポツポツと肌が現れては消え、消えては現れるうちに色を留める面積が増えていく。途中から紙を舐める炎のように揺めき広がり、気づいたときには軽い目眩と何の変哲もない、ただ生白いだけの腕が残っていた。
「ふう」上体を起こしたプルディエールは施術台から足を下ろし、左手指を屈伸して具合を確かめる。それから左右の手を並べてみるのだが、もはや始めからそうであったとしか思えないほどきれいに対称的だ。遺体の手がどんな形だったのか思い出すのも困難だった。
一言も発せずにいたラグの唇が震えた。これなら、と。